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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
六 花は散れども想いは散らず
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雪中庵嵐雪

 春まだ浅い陽射しに照らされた屋敷には狭い庭。そこに植えられた梅の木の下に立つのは、白衣に黒染めの法衣をまとい、白脚絆と草鞋で足元を固めた雲水姿の長身の男、その手には杖を持っている。

 禅僧には似合わぬ眉を隠す程の長髪なれど、たった一輪だけ咲いている梅の花に似て、どこか温もりさえ感じられるキリリと鋭い眼光で見詰める先には四人の男と一人の女。その内の一人が声を掛けた。

「嵐雪さん、初めまして」

 声を掛けられた嵐雪は静かに頭を下げる。

「これは芭蕉翁、いやショウ殿とお呼びすべきでしょうか。お久し振りでございます」

 挨拶を述べるや片膝着いて、両手にて差し出すのは使い込まれた一本の杖。

「芭蕉翁よりの預かり物です」

 それを受け取ったショウはしっかと握って大地に突き立て、

「うむ、嵐雪、ご苦労。残るは丈草の数珠だけだ」

 と、ショウならぬ芭蕉の声で感謝の意を述べる。寿貞尼が喜びの声を上げた。

「なんと、残る片鱗はあとひとつ。今までのご苦労が報われるのも間近となりましたね」

「まったくだ。早く丈草の宿り手を見つけ、芭蕉翁本人と話がしたいわい。おっと、別にショウ殿と話がしたくないわけではないぞ。誤解のなきようにな」

 頭を撫でながら満更でもない風情の其角。一方、去来の顔は優れない。それはショウも同じだ。既に亡くなってしまった母親、その母親に宿っていたのかも知れない丈草……

「あの……」

 そう言い掛けたショウの顔の前に右手を差し出す去来。自分を見詰めて首を横に振るその仕草を見て、ショウには去来の心がわかった。不確かなままの今の状況で丈草の話をするべきではない、そう言いたいのだろう。

「いかがなされました、ショウ殿」

 嵐雪の問い掛けにショウは「いえ、何でもありません」と取り繕う。嵐雪はそれ以上は何も言わず、また静かに梅の木を見上げた。

「ところで嵐雪殿、貴殿に伺いたい事がある」

「はて、如何様な事であろうか、去来殿」

 顔を天に向けたまま嵐雪は答えた。こちらを見ぬ無作法を気に留めることもなく、去来は尋ねる。

「何故我らに宗鑑の言霊の片鱗について話をしてくれなかったのだ。貴殿一人で抱え込める難事ではなかったであろう」

「おう、それよ、嵐雪殿」

 去来の言葉を受けて其角も口を開いた。

「我が宿り手もライ殿より聞いておる。芭蕉翁存命中から気づいておったのだろう。もし、貴殿から宗鑑の言霊の片鱗について聞いておれば、我らの苦労もなかったのだ。トツ殿を見たであろう」

 それから其角は北陸での戦いの一件を手短に嵐雪に説明した。牧童と許六の確執、小柄に掛けられた約定の業、寿貞尼の危機と凡兆から預かった本復丹丸。時折吹く風に揺れる梅の花を眺めながら、嵐雪はそれを聞いていた。

「……なんとか事は収められたが失ったものも大きい。一言、我らに教えてくれておればと、悔やまれてならぬわ」

 あの戦いでは芭蕉の言霊の片鱗と凡兆の丸薬を失くし、佐保姫も完全に眠りに着いた。其角の口惜しさは吟詠境に居る全員の気持ちでもあった。

 其角の話が終わると嵐雪は二人に向き直り、頭を下げた。

「すまぬな。芭蕉翁とも話し合った末での秘密事であったのだ。門人たちの間に無用な波風を立たせぬ為のな」

「だが、宗鑑が封じられた後ならば、秘密にする必要もなかったであろう。言霊の片鱗も同時に封じられ、もはや存在せぬに等しくなったのだから」

 去来の言葉に嵐雪は悲しそうな笑みを浮かべた。まるで己を嘲笑うかのような表情だった。

「左様、宗鑑は封じられ、その見返りとして我らは芭蕉翁を失った。浅はかな我が慢心により芭蕉翁の命は奪われたのだ。宗鑑の言霊の片鱗を引き合いに出してまで、我が過ちを逃れようなどという見苦しい真似はしたくはなかった。全ての原因はこの嵐雪の愚鈍さの為と、門人の方々に蔑まれて生きることこそが、我が罪への罰であると悟った。それ故、無用な言い逃れはせず、口を閉ざし続けたのだ」

「嵐雪さん……」

 宗鑑を宿した嵐雪がどのような経緯で芭蕉と吟詠境を開くことになったのか、ショウにはその詳細はわからなかった。ただ、その後の嵐雪が蕉門の中で辛い道を歩んできたことだけは理解できた。

 芭蕉の死の翌年一月、剃髪して済雲和尚に参禅。以後は俳壇から遠ざかり禅に傾倒していったのも、この出来事が嵐雪に大きな影を落としたからだろう。ショウは嵐雪から貰ったばかりの杖を握り締めた。まだ温もりの残るその木肌から、師に対する嵐雪の熱い想いが伝わってくるような気がした。

「北陸でのことで嵐雪殿を責めるのは筋違いでござろう。あれは偏にこの許六の失態であるのだから」

 嵐雪を庇い立てする許六の言葉に、其角と去来は苦笑いしながら頭を叩いた。不用意な言葉を吐いて、要らぬ気遣いをさせてしまった嵐雪に申し訳ない、そんな気持ちが表情に表れていた。

「さりとて小柄に宿る宗鑑の言霊を、このままにもしてはおけぬでしょう。いかが致しましょうや」

 ショウは寿貞尼のこの言葉を聞いて、それまでずっと頭の中に引っ掛かっていたひとつの疑問を思い出した。傍らの去来に尋ねる。

「あの、小柄の言霊について聞きたい事があるんです、いいですか、去来さん」

「構いませぬぞ、ショウ殿」

「現し世の業を使った後、僕は小柄を二つに切断しました。それによって吟詠境も閉じました。なのに、どうして小柄にはまだ宗鑑の言霊が残っているのでしょうか」

 それは、小柄に触れぬようにとソノに注意された時から、ずっと抱き続けていた疑問だった。言霊が消滅すればこそ、挙句を詠むまでもなく吟詠境は閉じるのだ。閉じた後も残っているのはこの道理に反する、それがショウの考えだった。

 去来にはショウの問いの意図するところがすぐに飲み込めた。子供に言い聞かすような優しげな顔で話し出した。

「吟詠境を開いた言霊ゆえ、ですな。吟詠境を開くのにもそれを維持し続けるのにも言霊の力が必要なのです。吟詠境を開いている間、力の消耗を強いられるのはそれを開いた言霊、あの場合は小柄の言霊となりましょう。ショウ殿の破壊によって言霊の力は一気に減少しました。そして吟詠境を維持できぬまでの弱い力となった時、吟詠境は自ずと閉じてしまったのです」

「つまり、小柄の言霊が完全に消え去る前に、吟詠境が閉じてしまった、ってことですか」

「そうなりますな。今、残っている力は吟詠境に入る事も出来ぬほど、微々たる量にすぎませぬ」

「じゃあ、維舟もあの時、完全に消えたわけではなかったんだ」

 ショウが最初の吟詠境で出会った言霊、維舟。彼もまた挙句を詠まずに吟詠境を閉じて消えていった。その最期は今でもはっきりと覚えている。

「人に宿った言霊ならば、それで終わりと考えていいのだ、ショウ殿」

 去来に代わって其角が口を挟む。

「そこまで力が減れば宿り手との繋がりを保つことも出来ぬ。即座に宿り手を離れて己の言葉に還り、幾ばくの間もなく消えるのみだ。維舟の宿り手も吟詠境を出た直後は、少しは言霊の記憶を持っていたであろう。が、それもすぐに忘れ去る。哀れなものよ、言霊の最期というものはな」

「うむ。しかし、命を持たぬ宿り手ならばそうはいかぬのです。繋がりを保つ力は、命ある宿り手に比べれば遥かに少なくて済みますからな。あの小柄に残った言霊の力もやがては消滅しましょうが、それには少々時間がかかるでしょう」

 去来の困り顔をショウは不思議に感じた。それ程の難題には思われなかったからだ。

「そんなの、宿り手を破壊すればいいんじゃないですか。あの小柄を壊してしまえばそれに宿った言霊も消えるでしょう」

 この言葉を聞いて、ショウを除く全員の顔に苦笑いが浮かんだ。何か的外れなことを言ってしまったのかと、訝しげに皆を見回すショウに去来が言う。

「そうですな。言霊を宿したままその宿り手が命を失えば、言霊も消滅します。宿り手の中にある生命力に溢れた言葉と、密接に繋がれているからです。しかし小柄に彫られた言葉に命はありません。あれは単なる文字に過ぎぬからです。小柄が破壊され器を失えば、宿っていた言霊は小柄を離れ、本体の宗鑑の元に還るだけでしょう」

「じゃあ、小柄を壊しても、それは宗鑑の力を強めることにしかならないってわけですか」

「そうなりますな」

 それは賢い解決策ではないとショウは思った。残っているのは僅かな力であるが、それを本体に戻して、宗鑑の力を更に強くするような行為は避けるべきだ。だからこそまだ言霊が残っているとわかっていても、手を出せずにそのまま放置しているのだろう。皆の苦笑いの理由が理解できたショウは、自分の顔にもまた苦笑いを浮かべた。

「やはり、このままにしておくしかないみたいですね」

「いや、そうでもない」

 そう言ったのは嵐雪だった。険しい目でショウを見詰めている。

「他の者が詠んだ発句で小柄を吟詠境に引き込めばよい。そうすれば奪霊の業で力を奪い尽くせる」

 敵意に満ちた嵐雪の声。そこには宗鑑に対する並々ならぬ憎悪が感じられた。嵐雪の中に燃える打倒宗鑑の志は、他のどの門人よりも熱く激しいものに違いない、ショウはそう思わずにはいられなかった。

「再び小柄を吟詠境に引き込むか。だが、その為には誰かが小柄を握って吟詠境に入るだけの力を与え、詠まれた発句を代詠せねばならぬ。危険ではないか」

 許六の言葉を聞いて、今度は嵐雪以外の全員がその表情を暗くした。小柄によって自我さえ失っていた牧童の姿。己もまた同じ目に遭わぬという保障はない。

「後は宿り手の判断に任せましょう。これ以上は我らが議論するところではないでしょう」

 小柄が存在するのはあくまでも現し世である。吟詠境にしか存在できぬ言霊がどうこう言っても始まらない。寿貞尼の言葉に一同は納得顔になった。

「寿貞尼殿の言われる通りですな。それに、この吟詠境にも少々長居が過ぎた。そろそろ閉じる頃合ですかな」

「去来殿、お待ちください」

 去来の言葉を制して寿貞尼が嵐雪に話し掛けた。

「のう、嵐雪殿。せっかくの芭蕉翁との再会。言葉の掛け合いはせずともよろしいのですか」

 芭蕉に会うことだけではなく、こうして吟詠境に入ることもまた、嵐雪にとっては久し振りなはずだ。話に聞けば、最初の吟詠境で去来はショウと発句を詠みあい、共に吟詠境に居た許六は去来と武を競い合っていた。しかし嵐雪は預かった杖を返した以外は何もしていない。言霊の業を持つ俳諧師が、何もせぬまま己が開いた吟詠境を閉じるのは、少し不自然に寿貞尼には感じられたのだ。

「いえ」

 低い声を発しながら嵐雪は寿貞尼を見た。冷たい目だった。そしてその冷たさはショウにも浴びせられていた。存在してはならぬ何かを見ているようなその視線。そこに忌避と懇意が入り混じった嵐雪の意志を感じた寿貞尼は、知らず、己の眉間に皺を寄せた。

「我が役目は杖を渡すこと。それが済めばもう何もすることない」

「嵐雪殿は禅を志しておるからな。禅の修業は自問自答。言葉の掛け合いは他人ではなく己本人としたいのだろうて」

 茶化すような其角の言葉に嵐雪は無言で答えた。無愛想な態度を持て余し、どうにも扱い難いといった風情で其角は頭を撫でる。

「では、これにて挙句を申す。よろしいか」

「ま、まあ、嵐雪殿がそれでよろしいのなら」

 少々面食らった感じの去来の言葉に一同頷けば、嵐雪はすぐさま挙句を詠む。

「嵐雪、挙句を申す。凛とした風一厘の春」

 吹いてきた肌寒い風が、枝に咲いていた一輪の梅の花を落とす。と同時に、吟詠境の全てが吹き払われてしまったかのように情景は薄れ始め、落ちた梅の花の花弁は千切れて、風の中へと舞い去って行った。

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