銀色の瞳
「えっと、ソノさん、ひとつ質問していいですか?」
「どうぞ」
「どうしてこの店なんですか」
「あら、嫌い?」
「そんなことないですけど」
「じゃあ、いいじゃない。安いし早いし美味しいし、文句のつけようがないお店でしょ」
それ程遠くない過去に、コトと二人で似たような会話をした気がするなあと思いながら、追試を終えてひと段落した僕は、他の五名と共にとある飲食店の中にいた。とあると言っても食べているのが牛丼なので、その対象は一気に絞られてしまう。
今回は駅から少し離れた場所に新装開店したばかりの牛丼屋だ。小盛牛丼に生野菜サラダと和風惣菜が付いてくるメニューが売り。四人掛けのテーブルに着いている四人の女性陣は全員そのメニューを選択。隣の四人掛けに座る僕とセツも結局そのメニューにした。もっともセツは選んだ惣菜がモリと同じだったので、単に彼女の真似をしただけなのだろう。
「で、今こちらに向かっているはずの先輩さんも、言霊の宿り手なのですね、ショウ君」
僕の正面に座って箸を動かしているセツがにこやかに話し掛けてくる。この店に入った当初は仏頂面をしていたのに、しばらく言葉を交わし、ついでに昨晩の勉強会の様子や、結局モリ一人だけが先輩の家で寝て、先輩と僕は僕の家で寝た事を話した途端、別人のように機嫌が良くなった。僕とモリは相変わらず友人程度の付き合いでしかないと再確認できたからだろう。
「うん、宿っているのは去来。だからライさんとかライ先輩とか呼ばれてる。それにしても遅いな、先輩は」
食事の時間に遅れるなんて、先輩にとってはかなりの珍事である。待たないで先に食べていてくれという連絡があったので、何か急な用事でも入ったのかも知れない。
しかし、こうして落ち着いてセツを見てみると、服装の乱れを別にすれば感じのいい男子だ。初対面の時には、隣に居たモリの体全体から嫌悪感が発散していたため、僕も良い印象を持てなかったのだが、意外といい奴なのかも知れない。それに、伊達や酔狂で全科目満点なんて取れるはずがない。その点だけは認めてやるべきだろう。
「お会いするのが楽しみです」
答えたセツの顔のにこやかさが更に増す。この機嫌の良さがモリと同じ店で昼食を取っている現在の状況に起因することは、カンの悪い僕にも一目瞭然で理解できる。
僕と話をしながら、そして箸で食べ物を口に運びながら、セツはチラチラとモリを盗み見ている。その様子は若干のいじらしさまで感じてしまうほどだ。
一方のモリもセツの視線を感じるのだろう、時々横目でこちらを見るような仕草をする。当然のことだが、モリの隣に座っているソノさんは、そんなモリの姿に相当刺激されているようだ。口元がすっかりにやついている。また、変なテンションにならなきゃいいがと心配になってしまう。一方、リクとコトは普段どおりに仲良く食事中。この毒舌コンビはマイペースである。
「ところで、ショウ君。追試の手ごたえはどうですか」
セツが食べながら訊いてきた。僕は結構自信があった。語句の問題に関してはほぼ完璧。読解力の問題も数問は解けた。
「まず大丈夫だと思いますよ」
「おや、自信があるみたいですね。先生が良かったからでしょうか」
そう言ってまたモリに目を遣るセツ。その瞳はハートマークの幻影が見えそうなほどに甘い。よくこれだけあからさまに自分の好意を曝け出せるものだと、変な部分で感心してしまう。
「うっふっふっふ」
セツの甘い視線を打ち消すような不気味な笑い声が、隣のテーブルから聞こえてきた。ソノさんだ。
「な、何を笑っているんですか、ソノさん」
「うふふ、実は私は追試の結果を知っているのです」
「え、ど、どうして?」
「三時間目の試験監督を終えた後、答案の採点も手伝ったからです。ふふふ」
僕は席を立つと、隣のテーブルに歩み寄り、ソノさんの顔に自分の顔を近づけた。
「そ、それで、僕の結果は?」
「ショウ君」
ソノさんが君付けで僕を呼ぶのは初めてだ。思わず息を飲む。
「今回のことはスッパリ忘れて、期末試験、頑張りなさい」
腹の底にズシリと響く重低音が頭の中に響き渡った。こ、これは全軍退却の合図を告げる法螺貝の音。負け戦じゃ、皆の者、退け、退けえ~……そうか、僕の高校生活は終わったのか。さようならバラ色の日々よ、というような妄想を思い浮かべる間もなく、大きな叫び声が聞こえてきた。
「うそっ、ソノさん、嘘でしょ!」モリだった。「あんなに頑張ったのに、そんな事って……」
まるで自分が落第したかのような落胆ぶりに、当事者の僕の方が気の毒になってしまう。
「やれやれ、君たち、早合点しすぎですね」
今度はセツの爽やかな声が聞こえてきた。
「ソノさんは期末を頑張れって言ったのです。中間の追試で合格しようが不合格になろうが、期末で赤点を取れば有無を言わさず夏休みは補習。つまり追試で合格だったとしても、期末は頑張らなきゃいけないのです。ソノさんの言葉だけで、今回の追試を不合格とは決め付けられないですよ」
「ふふ、ご想像にお任せします」
「ソノさん、ふざけるのはやめてくださいよ、もう」
「ごめーん、でもモリちゃんをからかうのは面白いんだもん」
僕は呆れて元のテーブルに戻った。セツの言葉通り今回の追試は期末試験に比べれば重要度は低いと言える。余り気にすることもないだろう。
「よお、待たせたな」
先輩の声だ。ようやく来たのかとそちらを見て、遅れてきた理由がすぐにわかった。先輩一人ではなかった。父つぁんを連れて来ていたのだ。
新たに呼び出したコトとリクはこの町の住人だが父つぁんは違う。駅に到着するにも時間がかかるから、先輩はそれを待っていて遅れたのだろう。
「お、セツってのは君か。ほほう、噂どおり男前じゃないか。女の子にもモテるだろう。だが、その髪は長すぎる。夏服になる前に散髪に行った方がいいぞ」
「有難いご忠告、感謝します」
セツに対する先輩の断髪命令予想が見事に的中して、内心で噴き出してしまった。丁寧に返答しているけど、セツには髪を切る気なんか毛の先程もないんだろうな。いや、そんな事よりも父つぁんだ。今から吟詠境に行くことは知らせてあるのに、どうして連れて来たのだろう。宿り手でない父つぁんはもう関係ないはずなのに……僕の疑問をよそに、隣に座った先輩はセツの隣に座った父つぁんを紹介する。
「で、こっちは父つぁんだ。ショウの同級生で俺と同じ剣道部の後輩。仲良くしてやってくれ」
「父つぁん、ですか。ちょっと言い難いですね。トツ君でいいかな」
どこまでも丁寧な口調に拘るんだなあ、セツは。さっきも年下のリクに「よろしくリクさん」とか言って、リクがドン引きしていたし。今度、幼稚園児に会わせて、何と呼ぶか確かめてみたいところだ。
「いや、別にトツと呼び捨てでもいいぞ。こちらはセツって呼ぶけどいいか。あ、あと、試験の時には頼りにしてるぞ」
父つぁんも結構ちゃっかりしている。向かい合って握手をしている二人を見ていると、父つぁんもセツに対してそれ程悪い印象は抱いていないようだ。
「よろしく、トツく……」
セツの声が止まった。そして次に起きたのは突然の、そして予想もしなかった出来事だった。セツの体から言霊の影が色濃く噴出したのだ。
「な、セ、セツ……」
どうしたんだ、と問い掛けるはずの僕の言葉は途中で消えてしまった。この尋常でない程の濃さの影。セツ自身が嵐雪になってしまったかのような錯覚さえ覚える。
セツの豹変に驚きながらその顔を見ると、瞳の色も変わっている。先輩の瞳にもソノさんの瞳にも見たことのない銀色の輝き。セツは握っていた手を離すと席を立った。
「こ、これはどういうことだ、何故この男が」
口調まで変わっている。もういつものセツじゃない。そして次にセツがつぶやいた言葉は、僕が想像だにしていないものだった。
「小柄小刀、そして宗鑑の言霊の分身……」
「セツちゃん!」
いつの間に来たのだろうか。隣の席に座っていたはずのソノさんがセツの背後に立っていた。
「その話は後でするわ。今は落ち着いて。席に座って」
両肩を押さえつけるようにして、ソノさんがセツを椅子に座らせた。セツを覆っていた影は次第に薄くなっていく。同時にセツも、セツの瞳も、元のセツへと戻っていく。やがて普段どおりの表情に戻ると、口を開けたままの父つぁんに頭を下げた。
「失礼、驚かしてしまったようだね、トツ君。気を悪くしないでくれ」
「あ、ああ、正直驚いたよ。ライ先輩には言われていたが、まさか本当にわかるとはな。まあ、事情はそれなりに飲み込めているから、セツも気にしなくていいぞ」
父つぁんが驚くのも無理はない。小柄や宗鑑の言霊のことを、誰かがセツに話したとは思えない。それでもセツにはわかったのだ。見えたのだ。そして先輩の次の言葉を聞いてそれは確信に変わった。
「さすがは蕉門随一の眼力だな。ソノさんに言われた時は半信半疑だったが、やはり見えたか。父つぁんを連れてきて正解だったようだ」
牧童の言霊は消滅した。しかし小柄に宿る宗鑑の言霊の分身はまだ残っている。きっと父つぁんとも僅かではあるが繋がりを保っているに違いない。父つぁんの中にある微かな残滓だけを頼りに、嵐雪の眼力はあの小柄を、そして宗鑑の言霊の分身を見抜いたのだ。
「おう、まだ注文していなかったな。父つぁん、遅れてきたんだから早くしようぜ」
何事もなかったかのように平然と振舞う先輩と父つぁん。わざわざ関係のない父つぁんを連れて来た理由がやっとわかった。そしてそれがソノさんの提案であることも。もしかしたら、セツの言動にほとんど動じずに食事をしているコトやリクも、承知だったのかも知れない。何も知らされていなかった僕は、相変わらず蚊帳の外なんだなあと、ちょっと悲しくなる。
セツは再び食べ始めた。だがその様子はこれまでのセツとは違っていた。モリではなく隣に座る父つぁんを明らかに気にしている。嵐雪の意識が、まだセツ自身に影響を与えているのだろう。モリに示していた桁外れな関心をあっけなく打ち消す、嵐雪の強烈なまでの意識。それはまた嵐雪が、どれほど宗鑑に対して執着しているかを物語っているようでもあった。
やがて、僕らが食べ終わった頃に、先輩たちの料理が運ばれてきた。
「一気に片付けるからな、ちょっと待ってくれ」
と言い終わらないうちに食べ始める先輩と父つぁん。この二人は本気になると、噛まずに飲み込んでいるんじゃないかと思うくらいに食べるのが早い。セツが苦笑する。
「よく噛んで食べてください。土曜の午後は始まったばかりですから」
二人の食事が長引けば、モリと一緒に居られる時間も長くなるのだから、当然の台詞と言える。だが、今はそれ以上に父つぁんへの関心が勝っているようにも見えた。恐らくもっと詳細な情報を聞き出したいのだろう。
そうこうする内に先輩と父つぁんの食事が終わり、いよいよ吟詠境に入ることになった。周囲に人が居るので、吟詠境に行けない父つぁんとモリに、不測の事態が起こらないように皆を見守っていてくれと依頼する。
今回の吟詠境の目的は嵐雪との会合である。当然、発句はセツに詠んでもらう事にした。
「さて、発句は何にしましょうかね」
セツは少し考えた後、
「まあ、有名な句にしますか。暦の上ではもう夏だけど構わないですよね」
そう言って両手を組み合わせる。僕はセツの瞳を見た。瞳の中の人影が大きくなる。
「梅一輪いちりんほどの暖かさ」
ああ、確かに有名な句だな、そう感じながら僕の言霊も同じ句を詠んでいた。
「梅一輪いちりんほどの暖かさ……」




