モリの告白
「嵐雪の記憶でも見ていましたか、ショウ君」
その男子の声で僕は我に返った。今のは芭蕉の中に残る嵐雪の記憶か。其角と初めて会った時も、その場で相手の言霊の記憶が頭をよぎった。力の強い言霊のみが為せる業なのかも知れない。
僕は返事をしなかった。相手の読み通りなのだから、わざわざ答える必要もないだろう。その男子は構わずに話を続ける。
「そして、そちらがコトさん、モリさん、ですよね。その言い方に従えば、さしずめ私はセツ君、と呼ばれるのでしょうか」
こいつ、僕らのあだ名も、あだ名の付け方も知っている。どうしてだ。以前どこかで会ったのだろうか。
僕はまじまじとその姿を見た。上着と、その下の白いシャツのボタンが二つ外れて鎖骨が見えている。そしてかなりの長髪だ。短髪が好きな先輩が見たら「暑苦しいからすぐ切れ」と直ちに命令されるに違いない程の長さだ。襟の学年章で一年生であることはわかるが何者なんだろう
「あ、あのショウ君。セツって呼んでいたけど……もしかしたら、あの人も言霊を?」
モリがおずおずと訊いてくる。杜国が封じられているモリは宿り手としての力はほとんどない。言霊も見えてはいないのだろう。
「そうだ、嵐雪の言霊の宿り手だ」
モリに答えてから、もう一度先程の夢を思い出す。嵐雪……自ら宗鑑の宿り手となって芭蕉に戦いを挑ませた門人。宗鑑について彼ほど詳しく知っている言霊は、蕉門の中には居ないはずだ。とにかく何をしに来たのか知りたい。
「それで、セツ。僕らに何の用があるんだ。どうして僕らの呼び名を知っているんだ」
「おや、さっそくセツと呼んでいただけるとは光栄ですね。あなたがたのことは少し調べさせていただきました。他にも其角、許六の宿り手が居るのでしょう。とある所で偶然目にしたので」
ソノさんとリクを……そうか、あの公園だ。あれだけ騒いでいれば人目に付かない方が不思議なくらいだったからな。ひとつの疑問が解消され、更に問い掛けようとしたところで、コトが口を開いた。
「ね、モリさん。あなた言霊が見えないのに驚いて立ち上がったわよね。もしかしてこの人と顔見知りなの?」
小さく頷くモリ。それを見てセツの口元がニヤリと緩む。
「そう、そこのカワイイお嬢さんに用があるのです。皆さんに倣って、今日から私もモリさんと呼ばせていただきますよ。いつもは早々と帰宅するあなたが、今日は図書室に行ったと聞いたので来てみたら、ご友人とお勉強中でしたか。まあ、お邪魔をするのも悪いので、今日の所は帰ります。でも、私とのお約束、忘れないでください」
モリは赤くなった顔に、あからさまな怒りの表情を浮かべてセツを睨んでいる。こんなに怒った顔を見るのは初めてだ。
自分に向けられたそんなモリの怒りさえも、セツは心地よく感じているようだった。小気味良い仕草で向きを変え歩き出す。本当に帰ってしまうつもりなのだ。
「待てよ、セツ。嵐雪の宿り手ならわかっているだろう。僕らの目的。それから言霊の片鱗のことも。何か預かっていないのかい」
セツの興味はあくまでもモリに対してだけらしい。だが、こちらは嵐雪に用事がある。其角と並ぶ古参の門人である彼が、言霊の片鱗を預かっていないはずがない。できればここで吟詠境に入り、それを受け取ってしまいたいところだ。
声を掛けられたセツは立ち止まってこちらを振り向くと、皮肉めいた微笑を浮かべたまま言った。
「そうですね。私はショウ君に興味はないですが、嵐雪は会いたがっているようです。でも、試験が終わって人がほとんど居ない図書室で必死にお勉強しているあなたは……察するところ赤点を取って追試、なのではないですか。言霊のことよりも、まずはそちらを片付けた方がいいでしょう」
セツはそう言うと、机の上に置かれている僕の教科書をチラリと見た。微笑みが笑いに変わる。
「芭蕉翁の宿り手ともあろうお方が、国語で赤点ですか。門人を失望させないように追試は頑張ってくださいね、ふふふ」
トゲのある含み笑いを残してセツは閲覧室から出て行った。姿が見えなくなると、僕らは椅子に座った。どっと疲れが押し寄せてくる。
「言葉遣いは丁寧なのに、妙に気に障る奴だなあ」
「同感です。慇懃無礼が服を着て歩いている感じです」
モリの例えが面白くて思わず笑ってしまった。一方、コトは真面目な表情を崩さない。まあ、僕に対してだけはコトも相当な慇懃無礼なので、笑えないのも無理はない。
「それで、モリさん。セツ君とはどんな関係なの」
真面目な表情のまま、コトがモリに尋ねる。そうだ、それを訊くのを忘れていた。どこで知り合ったんだろう。モリはすぐには答えず、一度、深呼吸をして自分を落ち着かせてから話し始めた。
「あの人、私と同じパソコン部の部員なんです」
「なんだ、じゃあクラブの用事で来たのか。それならそっちを優先してくれてよかったのに」
僕の言葉にモリは首を振る。
「いいえ、今日ここに来たのはクラブの用事じゃないんです。パソコン部も文芸部と同じく帰宅部クラブで、ほとんど活動はしていないんですから。あの人とも部室で顔を合わせたことは一度しかないんです」
「じゃあ、何をしにここに?」
「実は、私、入学式の日にあの人に告白されたんです。一目惚れしたから付き合ってくれって」
驚愕の事実を聞かされて、腰が抜けそうになってしまった。さすがのコトも呆気に取られたような顔をしている。いくら親友でもさすがにこの事だけは話していなかったのだろう。
「すぐに断りました。初対面でしたし、私は何とも思っていなかったから」
「そりゃ、そうだよな」
入学式の日に初対面で告白か。僕が卒業式の日にコトに告白したのと似ているな。いや、似ているけど全然違う。こちらは一年間想い続けて、ようやく告白したんだから。一目会って即告白って、そりゃいくらなんでも軽すぎるだろ。
「その時はそれで済んだけれど、私がパソコン部に入るとあの人も入部してきて、おまけに中間試験の成績で僕が勝ったら付き合ってくれとか、勝手なことを言い出したんです。今日、ここに来たのはその約束を果たしてもらう為だと思います」
「え、ちょっと待って」
確か、モリは学年二番、そのモリに勝ったということは、まさか……
「そう、あいつが満点野郎だったのね」
「はい」
コトの言葉に素直に頷くモリ。僕の落ち込みは更に加速度を増していく。どうして僕の周りにはこうも優秀な人材が集まるのか。あのいかにも遊び人風の兄ちゃんが学年トップとは。しかも嵐雪の宿り手である以上、これからも付き合っていかなければならないだろう。劣等感に苛まれそうだ。
「だけど、それは向こうが一方的に押し付けてきたんです。私は約束なんてしていません」
「なら、従う必要なんかないわ。放っておけばいいのよ」
「そうですよね。でも、これからも今日みたいに付きまとってきたら、どうすればいいかな」
「結局、約束なんて口実で要はモリさんに近づきたいだけなんだろう。コトさんの言うように無視すればいいよ。ただ、僕は放ってはおけないな。セツは言霊の宿り手なんだから」
僕はセツに近づきたいが、モリはセツから遠ざかりたい。これはややこしい事になりそうだ。取り敢えず、もう一度会って話を聞いてみたい。
「ね、モリさん。セツの連絡先ってわかる」
「え、ええ。クラブの名簿を見れば」
「じゃあ、教えてくれないかな。あ、それとも直接あいつのクラスに出向いた方が早い……」
「ショウ君!」
子供のいたずらを叱る母親のようなきつい口調のコトの一言。僕の言葉は瞬時に中断される。
「今はそんな話をしている場合じゃないでしょう。明後日は追試があるってこと、もう忘れたのかしら。言霊だの片鱗だのはそれが終わってからにしなさい」
「は、はい」
そうだった、当面の問題は土曜の追試をいかに乗り切るかだ。もし合格点が取れなければ、セツには更に馬鹿にされるだろう。
「でも、今日はなんだか勉強を続ける気分じゃなくなっちゃったわね。明日一日でなんとかなるかしら」
心配顔のコトに不安顔のモリ。そんな二人を見て更に沈んでいく僕の気持ち。すると、モリが意を決したように、
「こうなったら私、明日は徹夜でショウ君に勉強を教えます」
などと言い出したので僕もコトも互いに顔を見合わせてしまった。
「あの、モリさん、幾らなんでもそこまで面倒を見ていただくのは、ちょっと心苦しかったりするのですが」
「ショウ君にはどうしても合格点を取ってもらわないといけないんです。そうしないとお願いを聞いてもらえなくなるから」
「お願い?」
「追試を無事乗り切れば、そのお礼に、ショウ君が何でも一つだけお願いを聞いてくれるって、コトさんに言われたんですけど……違うの?」
コトさん、あ、あなたという人は……まさか同じ言葉を一日に二度も、心の中でつぶやくことになるとは思いも寄らなかった。昼間よりも更に怒りに燃える視線を向けると、コトはいつの間にか頬杖をついて、何食わぬ顔で窓の外を眺めている。
さすがに文句の一つも言いたくなったが、あら、まさか何の報酬もなしに勉強を教えてもらえるとでも思っていたのかしら。甘いわね。そうそう、勿論、私のお願いも聞いてくれるのでしょう、などと言われそうなので我慢しておく。それに、期待に輝く目をして僕を見ているモリに、違うとは言えないので「あ、そうか、そうだったね」と適当にお茶を濁しておく。
「でも、徹夜ってことは僕の家に泊まるってことだろう。クラスの男子の家にお泊りなんて、親が許してくれないんじゃないかな」
「あ、泊まるのはショウ君の家じゃなく、ライさんの家です。ホラ、小さい頃はライさんの家でよく遊んだでしょ。それにウチの母はライさんのお母さんと仲良しみたいなので、許してくれると思います」
そう言われて僕は昔を思い出した。僕の母は入退院を繰り返していたし、モリの家は共働きだったので、必然的にいつも母親が在宅の先輩の家が僕らの遊び場になっていたのだ。確かに小さい頃はよく先輩の家に泊まったっけ。
「モリさん、気をつけてね。ショウ君だって男なのだし、何があるかわからないわよ」
「コトさん、くだらない心配はやめてくれよ」
「そうですよ、ショウ君はそんな人じゃないですよ。でも、そうなったらそうなったで、逆に嬉しかったりするかも……えへ」
僕もコトも凍りついたように言葉が出なくなる。このツッコミようのないモリのボケには、場を一瞬でツンドラ地帯にする驚異的冷却効果があるようだ。ツンツンドライのコトが無敵のツンドラ娘なら、文字通りの意味でモリは最強のツンドラ娘だ。もはや勉強への意欲を完全に削がれてしまった僕らは、明日の一夜漬けに全てを懸けることにして、その日はそこで勉強会を打ち切った。




