試験結果
牛丼を食べて帰宅してからはひたすら勉強をした。次の週には学生生活最初の関門、中間試験が待っている。このところ俳句や言霊のことにばかりかまけていたので、本業の勉強はすっかり放ったらかし状態だ。せめて試験の前くらいは教科書を開かなければ高校生とは言えない。
猛勉強の土日が過ぎて授業が始まり、毎日四人で昼食を取りながら、その後の数日間は真面目に勉強に取り組んだ。これだけやれば大丈夫、そう思って挑んだ初めての定期試験はあっという間に始まり、あっけなく終わってしまった。
一応進学校なので、試験の上位成績者は張り出されることになっている。驚いたことにモリは学年二位の成績だった。
「医者になりたくて一所懸命勉強しているから」
と、恥ずかしそうに話すモリの顔が眩しかった。
コトも十位以内に入っていた。中学の頃から優秀だったので、こちらはさほどの驚きでもない。一番驚いたのは学年トップの人物の総合点だ。満点だったのだ。勿論聞いたことも見たこともない他のクラスの男だ。きっと勉強命って感じの奴なんだろうなと、下らないお喋りをしながら、僕と父つぁんは我が身の不甲斐なさをしみじみと感じ入った。特に僕には更に落ち込むような事態が持ち上がってしまっていた。
試験結果が張り出された日の放課後、僕はコトに図書室で会ってくれるように頼んだ。さんざん迷った末の苦渋の選択である。読書するでもなく勉強するでもなく閲覧室で待っていると、ようやくコトがやって来た。
「コトさん、わざわざすみません」
「別にいいけど、何の用事」
あれから毎日コトと顔を合わせ、更には邪念を振り払って試験勉強に邁進したせいか、コトの唇による条件反射はほとんど消滅していた。今では顔を見ても昔どおり平然と会話ができるまでに回復している。
それでもコトの口調は相変わらず冷淡でとっつき難い。これはもう彼女の元々の性格なのだろう。言い難い内容の話が更に言い難くなってしまう。だが、言わないと話が進まないので、思い切って言う。
「えっと、あの、勉強を教えてくれないかなと思って」
コトは表情も変えずに僕の顔をじっと見る。また僕の心を読んでいるんだろうなあと思いつつも、こちらからは言い難いことなので、むしろそちらの方が有難いかもと思う。
「試験が終わったのに勉強を教えて欲しい、か。さしずめ赤点を取って追試になったって所かしら」
「さ、さすがコトさん、よくわかっていらっしゃる」
そう、事もあろうに最初の定期考査で赤点を取ってしまったのだ。自分を優秀だとは思っていないが、ここまで出来が悪いとも思っていなかったので、かなりのショックである。
「それで、何の教科が追試になったの?」
「国語総合です」
コトの顔が少し曇った。
「ショウ君、あなた何部だったかしら」
「ぶ、文芸部です」
「文芸部の部員が国語で赤点を取るなんて、恥ずかしいにも程があるわね。高校の野球部が少年野球チームに完封負けするよりもひどいのじゃないかしら」
本日もコトの毒舌は絶好調である。しかしここは忍耐あるのみだ。もはや自力では追試は乗り切れないことは目に見えているのだから。
「それで、追試はいつあるの」
「次の土曜日です」
「あきれた、今日を入れても残り三日しかないじゃない。答案が返ってきた時点で追試かどうかわかるでしょう。どうしてもっと早く言わなかったの」
「それが自分で何とかなるかと思って頑張って勉強したものの、やっぱりうまく勉強できなくて、これはもうコトさんの力を借りるしかないと……」
「どうして私なの」
「えっ?」
「クラスにはモリさんという、私より優秀な子がいるじゃない。どうして私じゃなくモリさんに頼まないの」
「それは、モリさんに追試を知られるのは恥ずかしいと言うか、照れ臭いと言うか」
「ふうん……」
コトの目が悪戯っぽい輝きに変わった。嫌な予感がする。
「私に恥ずかしいことを知られるのは構わなくても、モリさんに知られるのは嫌なんだ」
「いや、だってコトさんには散々恥ずかしい場面を見られているから、今更って感じだし」
コトは返事をせずにじっと僕を見ている。まるで蛇に睨まれた蛙のような気分だ。こうなったらもう無理やり始めるしかない。僕は鞄を開けて教科書を取り出した。
「そ、それでもう、あまり日もないことだし、さっそく今から教えて欲しいんだけど」
「無理ね」
コトはそっけなく言い放った。
「突然すぎるわよ。私にだって予定ってものがあるんですから。悪いけど今日は教えられないわ」
「そ、そうか、そうだよね。ごめん。じゃあ明日から頼めるかな」
「どうかしらね、明日にならないとわからないわ」
まるでやる気のない返事に僕の意気込みは急速に萎縮していく。コトに対する本日の僕の用件は、これで完全に終わってしまった。もう次の言葉も出てこない。
「用がそれだけなら帰るわ」
「あ、うん。手間を取らせて悪かったね」
振り返りもせず図書室の出入り口へ向かって歩いて行くコト。その背中を見送る僕の心の中には、援軍来ずの報を受けた篭城中の武将のような物寂しさが広がっていた。
帰宅後、自室で机に向かうもなかなか捗らない。そもそも僕は国語の勉強の仕方がわかっていないのである。数学や英語のように練習問題が載っている訳でもなく、ただ文章が書いてあるだけの教科書、これでどうやって勉強をすればいいのか皆目見当もつかない。ただ読んで漢字や熟語を覚えて、それで終わりだ。
せめて佐保姫でも居てくれればなあと思う。あの唯我独尊女神様が勉強を教えてくれるとは到底思えないが、ちょっとした忠告ならばしてくれたかも知れない。そう思うと、残念な気持ちと一緒に寂しさが込み上げてくる。結局、その日も何の成果も無く終わってしまった。
次の日、いつものように僕らは四人で昼食を取っていた。モリとコトは以前にも増して仲良くなったようで、この時ばかりはコトも結構話をする。
僕は相変わらずおにぎり弁当だが、モリが自分のおかずをお裾分けしてくれたりするので、最近は箸を持参している。今日もモリは、おにぎりを包んでいたアルミホイルの上に、野菜の肉巻きを置いて話し掛けてきた。
「はい、どうぞ。野菜はちゃんと食べているの」
「うん、まあ、そこそこ」
置かれた肉巻きを有難く頂戴した僕は、次にモリの口から出てきた言葉に、思わす肉巻きを喉に詰まらせそうになった。
「ところで聞いたよ、ショウ君。追試なんだって」
「ぐふっ!」
誰から教えてもらったのか訊くまでもない。僕は真っ先にコトを見た。怒りの視線を物ともせず、個人情報漏えいの張本人は涼しい顔で自分の弁当を食べている。コトさん、あなたという人は……
「でも大丈夫だよ。今日と明日の放課後、私とコトさんで勉強を見てあげるからね」
「あ、う、うん、ありがと」
外見は平静を装い、内面では恥ずかしさに震えながら、僕はコトに文句の一つでも言ってやろうかと思った。しかしどう考えてもこちらに勝算はなさそうだ。秘密にしてくれと頼んでもいないし、むしろ、強力な助っ人を呼んだのだから感謝しなさいよ、とでも言われるのがオチである。ここは我慢しかない。
「へえ、ショウは追試か。でも良かったじゃないか」
「なんだよ、父つぁん、良かったって」
「いやな、この高校は期末で追試だと中間の点数に関わらず夏休みは補習確定らしいんだ。でも、今はまだ中間、期末で頑張れば補習は免れる。追試が期末じゃなく中間で良かったじゃないか。それにこんな優秀でかわいい女子二人に勉強を教えてもらえるなんて最高だよ。俺も赤点取ればよかったなあ」
父つぁん、君のそのポジティブシンキングは僕の心の支えだよ。願わくは一生そのままの君でいてくれ。
だが、よく考えてみれば父つぁんの言う通りだ。何はともあれ二人から二日間勉強を教えてもらえるのだ。僕にとっては願ったり叶ったりの状況ではないか。やはり素直にコトに感謝すべきだろう。
午後の授業も終わって放課後になると、さっそく図書室で僕ら三人は追試克服勉強会を開始した。丁寧に教えてくれるモリと厳しく指導してくれるコト。二人の先生の監督の下、あるかないかわからぬ貧弱な国語力を搾り出して、僕はこの授業に付いて行こうと頑張った。が、時間と共に二人の先生の表情は、次第に険しくなっていく。どうやら僕の学力が予想以上に低いようなのだ。遂にモリがこんな事を言い出した。
「ねえ、ショウ君ってよくこの高校に入れたわね」
この言葉はかなりの衝撃で僕を襲った。同じ言葉をコトに言われてもさほど動じない。わざとひどく言おうとしている意図が見えるからだ。しかしモリは百パーセント本音である、それだけにこの言葉の破壊力は尋常ではなかった。僕のプライドは轟音と共に崩壊し、瓦礫だけの無残な姿になってしまった。
「モリさん、言いすぎよ」
「あ、ごめん」
コトに同情されるとは、なんという屈辱。恐らくこうなることを見越して、僕の本能はモリに頼むのを拒絶していたのだろう。二人は僕をそっちのけでなにやらヒソヒソと会話を始めた。どうしたら僕に合格点を取らせられるか、対策を練っている様子である。
「やあ、こんな所でお勉強ですか」
突然、見知らぬ男子が声を掛けてきた。モリはその顔を見ると、いきなり立ち上がった。続いてコトも、そして僕も椅子から立ち上がった。名前も知らない初対面の男子生徒、しかし、銀縁メガネの奥に光るその瞳には強烈な力が宿っていた。其角と同等のその力、間違いなく言霊の宿り手、そしてそれが誰かはすぐにわかった。嵐雪……其角と共に江戸蕉門の双璧と言われた、十哲のひとり、服部嵐雪だ。
元禄七年五月、芭蕉は上方へ向けて江戸を発った。最後まで付き添ってくれた門人、曾良とは箱根で別れ、寿貞尼の子二郎兵衛と共に三島に投宿。折から五月の雨に打たれ難儀の箱根下りであったが、ぬまづ屋九郎兵衛の飛脚宿は居心地が良く、旅の疲れを忘れさせてくれた。
夕食の後、早々と床に着いた二郎兵衛の傍らで、芭蕉は一冊の和書を丹念に眺めていた。能書家の門人、素龍に清書させた俳諧紀行文。この五年間、幾度も清書と朱入れを繰り返し、この四月にようやく完成させた。それでも読み返しているとまた朱を入れたくなる。これではいつまで経っても完成は覚束ぬな、芭蕉は一人笑いをしながら書の頁をめくった。
「芭蕉翁」
部屋の襖の向こうで低い声がした。芭蕉は書を眺めたまま返事をする。
「お入りなされ」
音もなく襖が開く。入って来たのは、手に網代笠を持った一人の雲水姿の男。旅装すら解いておらぬ風情から、忍んで入ってきたのであろう。芭蕉は男に向き直ると、労わるように声を掛けた。
「嵐雪、苦労をかけるな」
「自ら進んでの行動なれば苦労はございませぬ。宗鑑の言霊の片鱗、気づいているのは芭蕉翁と我が身のみ。もし門人どもに知られることになれば、誰がその宿り手かを巡って疑心暗鬼を生じましょう。このまま密かに探り続けるのが最上の策かと」
宗鑑の言霊の片鱗が蕉門の中に広がりつつあるのを、最初に見抜いたのは嵐雪である。門人の中でも随一の眼力を持つ彼は、生半可な言霊隠しの業ならば至極容易に見破ることができたのだ。
「門人たちの中には、そなたが繋離詠の業欲しさに宗鑑の一派に近づいていると噂する者もおる。足元をすくわれぬようにな」
「我が雪門の門人たちの働きにより、嵐雪は常に江戸に居ることになっております。其角殿も杉風殿も我が動きはわかりますまい」
芭蕉の心には少なからぬ危惧があった。他の門人の助力なく、ただ一人で宗鑑に立ち向かおうとしている嵐雪が、健気にも、また危なげにも見えていたからだ。
「くれぐれも言う。無理をせぬようにな、嵐雪」
その言葉から芭蕉の心の内を悟った嵐雪は、それを真っ向から否定するように、内に抱く心情を吐露した。
「宗鑑が己の片鱗を束ねて我らに戦いを挑もうとしているのは、最早自明の理。その前になんとしても宗鑑を亡き者にし、蕉門に蔓延る片鱗を消滅させねばなりませぬ。その為ならば我が身を……」
続く言葉を断って己を見詰める嵐雪の揺ぎ無い瞳。そこに悲愴なまでの決意を見た芭蕉は、それを押し留めるのは師である己さえも叶わぬことだと改めて感じるのだった。




