リクの恩返し その二
僕はさっそく僕自身の提案をする。
「それならしばらくの間、僕の妹になるっていうのはどうだ?」
「い、いもうと!」
リクの驚いた顔。僕の中の悪い部分がほくそ笑む。普段、さんざん生意気な言葉を聞かされて、頬を打たれたりもしているんだからな。いい機会だ。今日はちょっとその仕返しをしてやろう。
「そう、妹。ホラ、僕って一人っ子で兄弟はいないし、先輩には弟みたいに扱われていたから、妹や弟にちょっとした憧れを抱いていたんだ。だからさ、少しの間でいいから、リクっちがその夢を叶えてくれよ」
「ま、まあ、ショウ先輩がそう言うのなら、そうしますけど。それで具体的にどうすればいいんですか」
「そうだなあ。まずは、僕のことはショウお兄ちゃんと呼んでくれ。それから自分のことはボクとは言わずリクと言う、こんなところかな」
「わ、わかりました」
意外に従順なリクの反応にちょっと拍子抜けの気分だ。本当は素直な性格の女の子なのかも知れない。
「じゃあまずは、ありがとうショウお兄ちゃん、迷惑掛けてごめんなさいって言ってみて。はい」
「あ、ありがとうショウお兄ちゃん、迷惑掛けてごめんなさい」
「これからもリクと一緒に仲良く遊んでね。大好きなショウお兄ちゃん。はい」
「ど、どうしてボクがそんな事を言わなきゃいけないんですかっ!」
「妹なら当然だろ。それにボクじゃなくてリク。ホラ、早く言って」
さすがにこの言葉には抵抗があるようだ。強張った両肩がぶるぶる震えている。しかし観念したように口を開く。
「こ、これからも、リクと」
「声が小さい。それにどっちを向いて喋っているんだよ。きちんとこちらに顔を向けて話す、はい」
「こ、これからもリクと一緒に、仲良く遊んでね。だ、大好きなショウお兄ちゃん」
こんな言葉を言わされて余程悔しかったのだろう。僕を見上げるリクの頬はほんのり上気し、両目には薄っすら涙が浮かんでいる。その恥じらいの表情は僕の中に新たな感覚を呼び覚ました。
妹萌えという言葉を聞いたことがあるが、なるほど、確かにこれはグッと来るものがある。同じようにお兄ちゃんと呼んでくれたシイにはそれ程のインパクトは感じなかった。しかし、リクの場合は日常の態度からのギャップが相当あるので、萌えが格段に増幅されて僕の精神に作用しているのだろう。
「うう~、ボクの中の大切なものが壊れていくような気がする~」
リクが頭を抱えて呻いている。かなりの効果があったようだ。だが、これで終わらせるのは勿体無い。
「ホラ、またボクになっているぞ。きちんとリクって言えよ。さて次は、っと」
「ま、まだ何かやらせるつもり!」
やらせるつもりなのだが、何をやるか思いつかない。何となくリクのワンピース姿を眺めてどうするか考える。と、急にリクが両手で自分の胸を覆い隠した。
「ショウ先輩、ま、まさかヤラシイ事を考えているんじゃないでしょうね」
「いや、妹だからそれはないよ。でもどうしようかな……あ、そうだ。リクっち、ソフトクリームは好きか?」
「好きか嫌いかと言われれば、好きですけど」
「ちょっと待ってて」
僕は公園を出ると近くのコンビニに入った。ソフトクリームを一つ買う。とぐろを巻いたクリームがコーンの上に乗っている、お馴染みの商品だ。公園に戻り「お待たせ」と言って、リクと一緒にベンチに座る。
「はい、リクっち、どうぞ」
右隣に座ったリクに向かってソフトクリームを差し出すが、渡しはしない。あくまで僕が握ったままだ。「あ、はい」と言いながら、リクは舌を出して素直にクリームを舐める。リクの舌が掠め取っていったのは僅かな量だ。変な所で遠慮深い奴だなあと思いながら、僕もクリームを舐めた。途端にリクが声を上げた。
「シ、ショウ先輩。何をやっているんですか!」
「ああ、これ。いや実は父つぁんが、小さい頃にシイと二人で西瓜を分け合って食べた話をしてくれたんだよ。分け合いながら食べるって、いかにも兄と妹って感じがするだろ」
「で、でも、それって間接キスになるんじゃ……」
そうか、そう言われてみれば確かにそうだな。そこまで考えてなかった。
「いやいや、兄と妹でそれはないだろ。ホラ、次はリクっちの番だよ。舐めて舐めて」
「うう~」
僕が差し出したソフトクリームを、唇を固く閉じてじっと睨んでいるリク。どうやらこの作戦もリクにはかなりの効果があるようだ。これで普段のリクの生意気さも少しは消えるといいんだけどな、と内心でほくそ笑んでいると、リクがとんでもない行動に出た。大口を開けてクリームにかぶりついたのだ。
「ああっ!」
コーンの上のクリームは大部分がリクの口の中へと消えていった。分け合いっこ作戦は大失敗である。恐るべしリクの食欲、大食いの先輩に引けをとらぬ迫力だ。
「ショウおにひはん、おいひいね。リク、うれひいよ」
クリームを頬張りながら喋っているのでよく聞き取れないが、こちらが出した言葉遣いの注文はきちんと守っているようだ。これまた変な所で生真面目な奴である。
ほぼコーンだけになってしまい、とっくにソフトクリームとは呼べなくなっている代物を眺めながら、リクをからかうのもこれくらいにしておこうかなと思う。残ったクリームを舐めてコーンをかじる。
「そんなに妹ごっこがしたいのなら、コト先輩に頼めばいいんじゃないですか」
ようやくクリームを食べ終えたリクが真面目な声で僕に言ってきた。
「あれ、いいのかい。いつもはコト先輩に近づくなって僕をけん制するくせに」
「だって、吟詠境であんなシーンを見せられたら、もう普通の友達同士じゃないって認めるしかないじゃないですか」
あんなシーン……再びコトの唇の感触を思い出し体が熱くなる。そうだった。あそこには許六も居たんだ。リクもしっかりと見て覚えているようだ。僕は照れ臭さを隠すように、少し陽気に言った。
「ダメダメ、リクっちは知らないだろうけど、コトさんって結構冷淡なんだぜ。妹ごっこしようなんて言ったら、冗談は顔だけにしてもらえないかしら、とか言われるに決まっているよ」
「え、あの、そうなんですか。でもコト先輩の悪口はあまり言わないほうが……」
急にリクの元気がなくなった。構わずに僕は続ける。
「いいんだよ。こんな時でしかコトさんの悪口なんて言えないんだから。それに結構狂暴な面も持ってるんだ。ホラ舐めて、なんて言ってコトさんにソフトクリームを差し出したりしたら、口にクリームを突っ込まれ……」
その時、誰かが僕の左肩に手を置いた気がした。誰だろうと振り向く前に、その声が聞こえてきた。
「ショウおにいちゃん」
こ、この声。同時に甘く爽やかなシトラスの香りが僕の鼻をくすぐった。全身の血液が一気に凍りつく。背中を冷たい汗が流れていく。リクを見ると両手で顔を覆っている。
ビクビクしながら顔を左へ向け声の主を確認する。コトだった。そしてコトだけではなかった。モリもソノさんも居る。
「知らなかったわ、ショウ君にこんな趣味があったなんてね」
久々に見た超威圧的なコトの顔。そのこめかみには十字の静脈マークの幻影すら見える。恐る恐る僕は尋ねた。
「あ、あの、いつから、ここに?」
「ピンクのワンピース姿の女の子を見て、リクっち! と、驚いた時から」
最初からじゃないか。つまり全てを見られていたって事か。万事休すだ。ここは何とか誤魔化さねば。咄嗟に苦しい言い訳を喋り出す僕の口。
「え、えっと。いや、これはね、その、試験勉強でやっていた問題集に兄の気持ちになって考えよって問題があって、それで、その問題を解くために、わざわざ……」
「ショウ君、ツッコミ役がボケたところで、誰も突っ込んでなんかくれないわよ」
やはり急ごしらえの言い訳では無理があったようだ。これ以上、コトと話しても怒りを買うだけだろう。それに比べてソノさんとモリは妙に嬉しそうだ。そっちに話を振ってみるか。
「えっと、そちらの二人はどうしてここに」
「あら、だってリクちゃんが今日ここに来るのはわかっていたんだもん。絶対面白い光景が繰り広げられるに違いないって思って、みんなで来てこっそり覗いていたのよ。でもまさか兄妹プレイが見られるなんて、もうサイコー!」
ソノさんは既に異常なテンションになってしまっているようだ。これは無闇に刺激しない方が賢明だろう。とにかく女子四人に囲まれているこの状況は分が悪すぎる。リクの用事も済んだことだし、試験勉強を理由に帰宅することにしよう。僕はベンチから立ち上がろうとした。が、僕の左肩に置かれているコトの手は、僕の動きを完全に封じ込めていた。
「ね、ショウ君。そんなに兄妹プレイが好きなら、私もやってあげましょうか」
コトが背後から顔を寄せてきた。耳元に息が掛かるのがわかる。
「ショウお兄ちゃん、これからもずっとコトが遊んでア・ゲ・ル」
コトさん、それニュアンスが微妙に変わってますよね。
「いやーん、あたしだって出来るわよ。ショウお兄ちゃん、これからもソノを弄んでえー」
ソノさん、もはや漢字からして違っていますよ。
「シ、ショウお兄ちゃん、一緒にモリと遊ぼうね」
よかった、モリさんは普通だ。
「それにしても、リク、危なかったわね」
「え、どういう意味ですか、コト先輩」
「ショウ君って、実はキスが大好きなのよ。学校でも、私やモリさんやトツさんにまでおにぎりを渡して、それをかじらせて間接キスをしようとしているのだから」
「ちょ、ちょっとコトさん、いきなり何を」
慌てて止めようとしたがコトの暴走は止まらない。おまけに真っ赤な嘘とは言えない程度に真実が混ぜてあるので、こちらも強くは出られない。
「そして次に標的にされたのはリク、あなたよ。しかもショウ君は唇の味を知ってしまったため、間接キスだけでは収まらなかったはず。リク、あなたの唇は狙われていたのよ」
「ショウ先輩、ホントですか!」
と、止めなくては。コトのこの大言壮語なボケだけは何としても阻止せねば大変なことになる。
「いや、リクっち、聞いてくれ……」
僕の言葉はそれ以上続かなかった。リクの右平手打ちが僕の左頬に炸裂したからである。
「サイテーですね。ショウ先輩。コト先輩という人がありながら、別の女にも食指を伸ばすなんて。やっぱりただの浮気者の変態だったんですね。今度の一件で少し見直していましたが、それは大きな間違いだったようです。コト先輩には二度と近づかないでください」
何てことだ。生意気なリクの気質を多少なりとも改善できたと思っていたのに。これでは元の木阿弥だ。痛む左頬をさすりながら、こんな事なら来るんじゃなかったと、思わず愚痴りたくなってしまう。
「そうそう、ショウちゃんったらサイテーよね。リクちゃんを独り占めしちゃって」
ソノさんがおかしな事を言い始めているが、突っ込む気にもなれない。代わりにリクがソノさんに尋ねる。
「あ、あのソノさん、独り占めってどういう意味ですか」
「あたしたちだってリクちゃんと姉妹プレイしたいんだから」
「はあ?」
リクの顔が曇り始めた。そう、変態性にかけては、僕よりもソノさんの方がよっぽど手強い相手なんだぞ。
「ねえ、あたしやモリちゃんやコトちゃんだって、リクちゃんのために色々してあげたのよ。だから、少しくらいお礼してくれてもいいんじゃない」
「え、あ、はい。それで何をすれば?」
「もう、リクちゃん、わかっているくせに。だから、さっきのショウちゃんみたいに、あたしをソノお姉ちゃんって呼んで、妹言葉を喋って欲しいわけ」
リクの顔がひきつり始めている。僕の時と同様、かなり抵抗を感じているようだ。さりとて無下に断れるはずもない。覚悟を決めたリクはソノさんに近づく。
「ソ、ソノお姉ちゃん、リクが迷惑を掛けてごめんなさい」
「いやーん、萌えるう」
「リク、私にもお礼は?」
「えっ、コト先輩もですか。えへへ、ちょっと照れますね。それじゃ、えっと、大好きなコトお姉ちゃん、いつも優しくしてくれてありがとう」
「うん、これからも優しくしてあげるわよ」
コトに対してはわざわざ大好きと付けるのが、いかにもリクらしい。
「リクリク、私も」
「え、モリ先輩もですか。それじゃ、これからもずっと遊んでね、モリお姉ちゃん」
「あ~、私も妹が欲しかったなあ」
「リクちゃん、あたしもあたしも」
「ソノさんはもうやったじゃないですか」
「いいじゃない、もう一度やってよ、リクちゃん」
「うう~、ボクの中の大切な何かが壊れていく~」
哀れだなあ、リク。完全におもちゃにされているよ。どうやら僕だけでなくリクにとっても今日は厄日のようだ。しかしこれで女子部隊の関心は僕を離れてリクに移ってしまった。コトもベンチから離れて向こうに行ってしまったし、そろそろ帰るとしよう。僕は立ち上がった。
「じゃあ、皆さん、僕は帰って試験勉強しますんで」
どうせ誰も聞いちゃいないだろうと思いつつ、ベンチの向こうでキャアキャア言っている女子部隊に挨拶を済ませた僕は、公園の出口へ向かおうとした。
「ちょっと、ショウちゃん、どこ行くの」
ソノさんの声だ。僕なんか眼中にないと思っていたのに、どうやらそうでもなかったらしい。
「え、いや、もう用も済んだことだし、帰って勉強でもしようかと」
「駄目よ、これから牛丼屋さんに行くんだから」
「最初から居たんなら聞いていたでしょ。年下のリクにおごってもらうことなんか出来ないって」
「おごるおごらないに関係なく行かなきゃいけないのよ」
「どうして?」
「あたしたちがここに来たってことは、牛丼提案者のライちゃんだって牛丼屋に行っているに決まっているじゃない。今頃、まだかまだかって思いながら、牛丼を食べて待っているはずよ」
先輩なら十分あり得る話だ。と言うか、自分が週末に牛丼を食べたいからそんな提案をしたんだろうしな。待たせたまま放置ってのも気の毒だ。
「わかりました、行きますよ。でも自分の分は自分で払いますからね」
「はーい、じゃあみんなで牛丼屋さんにレッツゴー」
ソノさんが先頭になって歩き始めた。ようやく解放されてげっそりした顔のリク。まあ、日頃、生意気風を吹かしているんだから、これくらいのお仕置きならいいだろう。僕も後に付いて公園の出口へ向かう。
「きゃっ!」
誰かが声を上げた。僕も声を上げそうになった。水に浮かべた板の上に乗ったような不安定な感覚に襲われたからだ。
「地震だわ」
コトの冷静な声。確かに地震だ。ゆらゆらする感覚は次第に収まっていく。それ程大きくも長くもなかったが、突然なので驚いてしまった。
「最近、地震多いわよね、リク、大丈夫だった」
「平気ですよ、モリ先輩。これくらいの揺れ、何てことありません」
「もう、ソノお姉ちゃ~んとか言いながら、半泣きのリクちゃんがしがみついてくるのを、ドキドキしながら待っていたのに、残念」
ソノさんの変なテンションの高さは、まだ継続しているようだ。牛丼屋でも妹ごっこをやるつもりだろうか。リクも大変だな、と、そこまで思ったところで、
「んっ!」
急にソノさんがこちらを振り向いた。鋭い目付き、其角の目だ。
「ソノさん、どうかしたの?」
隣のコトが声を掛けた。ソノさんは「コトちゃん」と言って、コトを見る。僕の後方に目を遣って首を横に振るコト。僕もソノさんの見詰めている方を振り返ってみた。そこには緑を茂らせた立ち木が数本あるだけだった。
「ごめんなさい、気のせいだったみたい。さあ、みんな、行きましょう」
歩き出すソノさん。妙な気懸かりが残ったが、今、全力を傾けるべきは目前に迫った中間試験である。牛丼を食べたら気合いを入れて勉強しよう、心の中でそう決意して、先輩が待っているはずの牛丼屋へ足を向けた。
公園のベンチからさほど遠くない木陰に立っているのは、高校生らしき少年。姿を隠すように木の幹に体を密着させている。
「ふっ、さすがは其角の宿り手ですね。あんな喧騒の中でも私の気配に気づくなんて」
遠ざかるショウたちを幹の陰から覗いている銀縁メガネが、陽光を反射してキラリと光る。
「それにしても迂闊でした。まさか同じ高校の同じ学年に、三人も宿り手が、しかも芭蕉の宿り手まで居るとはね」
もう大丈夫と思ったのか、少年は幹から体を離し、遠ざかる五人を眺めた。
「しかも、封じられているとはいえ、彼女にも言霊が宿っているとは。これはヤル気が出てきました。今回の中間試験、絶対に私がいただきます」
薄笑いを浮かべながらじっと見詰める少年。その目が狙っているのは楽しそうに歩いて行くモリの後ろ姿だった。




