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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
六 花は散れども想いは散らず
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リクの恩返し その一

 その日の放課後、掃除当番でなかった僕は、さっさと帰って試験勉強を頑張ろうと帰り支度をしていた。すると、

「ショウ君、図書室に来て」

 コトが話し掛けてきた。昼間の父つぁんと違って完全な命令口調である。

「いや、今は試験前だから部活は禁止だよ、行けないよ」

「文芸部の活動じゃないわ。図書室に行くのは試験勉強のためよ。いいから行くわよ」

 この高圧的な態度は以前と全く変わらない。僕の返事を待たずに教室を出て行く。「早く帰れ」と怒られても知らないぞと思いながら、後を付いて図書室に入ると、意外なことに普段よりも生徒の数が多かった。なるほど、家では様々な誘惑が勉強の邪魔をするが、ここでは集中して勉学に勤しめるというわけか。納得しながら部屋の隅の机に着く。正面に座るコトの顔はなるべく見ないように視線を逸らしていると、少し神妙な感じの声が聞こえてきた。

「母から聞いたわ。色々心配も掛けたみたいね。ショウ君にはお礼を言っておくわ。ありがと」

 感動である。まさかコトの口から感謝の言葉を聞ける日がやって来ようとは。昼食時に目の当たりにした命の恩人への不遜な態度も、この一言で一遍に吹き飛んでしまった。

「お礼なんていいよ。僕ひとりの力じゃないんだし」

「あら、そう。意外と遠慮深いのね。まあ、確かにショウ君にとっては素敵なご褒美もあったわけだし、今更お礼なんて必要ないかしらね」

 ご褒美……僕の視線は吸い寄せられるようにコトの唇へ向かう。再び蘇るあの感触。身の内に湧き上がる激情。

「また思い出しているのね。そんなに良かった?」

 駄目だ。この条件反射を早く払拭せねば、コトと話をすることもままならない。よし、ここは逆療法だ。敢えてコトの唇を見詰めたまま会話を続行しよう。

「べ、別にあんなの大したことないさ。人工呼吸みたいなもんだよ。それにあくまで吟詠境での出来事で、実際にやったわけじゃないんだし。相手だって君じゃなくて寿貞尼だったんだし」

「でも姿は私だったのでしょう」

「姿はそうでも意識は寿貞尼だよ」

「どうして、そう言えるの?」

「え、だって、繋離詠の業を持たない其角の現し身は意識までは移せないし、それに寿貞尼も『ショウ殿、有難う』って言っていたし」

「ふうん……」

 コトは黙ってしまった。何を考えているのかさっぱりわからない。正直なところ吟詠境が閉じる間際の寿貞尼の声は小さくて、はっきりとは聞き取れなかったのだが、ショウ殿と言ったのだからコトであるはずがない。

 コトは何も言わずにこちらを見続けている。再びあの激情が湧き上がって来そうで、僕は堪え切れずに目を逸らしてしまった。

「よ、用事がそれだけなら、これで失礼するよ。早く帰宅して試験勉強したいから」

「ショウ君、明後日の土曜日、お昼頃は暇?」

 これまた予想外の質問だ。土曜に会ってお礼をしたいという意味だろうか。

「いや、さっきも言ったように、お礼なんてしなくていいよ」

「お礼するなんて言ってないわ。暇かどうかを訊いているのよ」

「暇も何も、試験前の最後の週末だから一日勉強するつもりだよ」

「つまり予定はないのね。わかったわ。そう伝えておく」

 伝える? 誰にだろう。僕の質問を制するようにコトは言葉を続ける。

「詳しくは今日の夕方にでもライさんが教えてくれるはずよ。用はそれだけ。時間を取らせて悪かったわね」

 もうここには居たくないと言わんばかりにコトは立ち上がった。こちらの意向を無視した傍若無人な態度は相変わらずだ。立ち上がったコトは、しかしすぐには立ち去ろうとせず、窓の外を眺めながら低い声で言った。

「初めての相手が私じゃなく寿貞尼で残念だったわね。それとも、私じゃなかったから、そんなに喜んでいるのかしら」

「な、何だよ、初めての相手って」

「あら、違うの?」

「くっ……」

 言い返せない僕を尻目にコトは図書室を出て行った。しばらくはこのネタでコトのオモチャにされそうな気がする。何とかしたいが条件反射じゃ何ともなりそうにない。コトの姿が見えなくなってから僕も席を立つと、図書室を後にした。


 コトの言葉通りだった。早めの夕食の後、自室で試験勉強をしていると、玄関の呼び鈴が鳴った。父はまだ帰宅していないので、慌てて部屋を出て階段を下りる。

「おい、ショウ、明後日の土曜、暇か?」

 インターホンに出る前から先輩の声が聞こえてくる。そこまで急ぐのなら電話にすればいいのにと思わないでもない。玄関の戸を開けて返事をする。

「えっと、土曜は一日試験勉強の予定なんですけど」

「午前十一時半に駅前の公園に行けよ。いい事があるぞ」

「はあ?」

 僕の返答はまるで無視である。これじゃ、土曜は暇かと訊く意味がないではないか。僕はもう一度繰り返す。

「いや、だから土曜は試験勉強……」

「いいから行け。先輩命令だ。用はそれだけだ。あっ、言い忘れた。腹はなるべく減らして行った方がいいぞ。じゃあな、勉強頑張れよ」

 問答無用である。先輩はそれだけ言うとスタスタと自分の家へ戻って行った。詳しくは先輩が教えてくれるとコトは言っていたが、これではコトの話の内容と五十歩百歩。おまけにこんな中途半端な情報では、かえって気になって勉強に集中できない。

 その日の夜はもやもやとしたまま過ごし、翌、金曜日はコトに詳しく訊こうか、いや訊いても「行けばわかるわ」くらいの返事しかしないだろうから無駄か、などと考えて日中を過ごし、結局、コトとは満足に話をしないまま帰宅し、その夜も昨晩と同じくもやもやとしたまま過ごし、気がつけばろくに試験勉強もしないまま、土曜の朝を迎えてしまった。

 幸い天気もよく気持ちのいい休日だった。洗濯と掃除をさっさと済ませた僕は、早くこのもやもやを解消したい一心で、少々早めに家を出た。

 公園に着いて周囲を見回す。見知った顔は一人も居ない。時計を見れば約束の時間にはまだ早い。たいして広いわけでもないので見落としはないだろうし、相手はまだ来ていないようだ、そう判断した僕はベンチにでも座って待つかと歩き出した。と、

「あの……」

 背の低い女の子が話し掛けてきた。ピンクのワンピースを着たカワイイ感じの子だ。誰だ、この中学生、いや小学生かと思いつつ、その顔をしっかり見た途端、僕の口から驚愕の声が発射された。

「リ、リク……っち!」

 予想外の相手には違いなかった。しかし冷静になって消去法で考えればリクである可能性はかなり高かったはずだ。それなのにその予測を完全に排除していたのは、まさかリクが休日に僕と会おうなどと考えるはずがないと、端から思い込んでいたからだろう。

「な、何を驚いているんですか。ライ先輩から聞いてないんですか」

 少し頬を赤くしたリクが僕を見上げている。リクの私服のスカート姿は初めて見るだけにかなり新鮮だ。

「いや、先輩からはここに行けと言われただけで、相手が誰かまでは教えてもらってないんだ。でもどうしてリクっちが」

「お礼ですよ」

「お礼?」

「これでも感謝しているんですよ。ボクのせいであんな目に遭わせて、おまけに大事な凡兆の薬まで使わせて。ショウ先輩に借りを作ったままじゃ気分が悪いので、その恩返しです」

 なるほど。コトも先輩も詳しく言わなかった理由がやっとわかった。お礼なんか必要ないと僕が断るのを避けるためだったのだ。相手がリクなら尚更だからな。こいつも結構、義理堅い部分があるもんだ。

「それにしても、どうして今日はそんな格好なんだい。何時になく女の子っぽいじゃないか」

「こ、これは、ソノさんに言われたから」

 リクの頬が更に赤くなる。もじもじした感じのリクもかなり新鮮だ。

「ソノさんに?」

「ショウ先輩にお礼をしたいんだけど、何をすればいいかなって、ソノさんに相談したんですよ。そしたら、ショウちゃんはリクちゃんのスカート姿を見たいって言っていたから、見せてあげればいいんじゃないかって、言われて、それで」

 ソノさんの言いそうな事だ。って言うか、スカート姿を見たいのはソノさん自身でしょ。僕はそんな話、一度だってした記憶はないんだから。

 そう思いながらもせっかくのスカート姿なので、もう一度じっくりと見てみる。ソフトボールをやっているだけあって、よく締まったいい体付きだ。幾分、肩と腕がたくましいのは、ご愛嬌と言ったところか。

「ちょ、ちょっと、あんまり見ないでくださいよ。制服と違って、こんな足がスースーする短いスカートを履くのは数年ぶりで、かなり恥ずかしいんですから。それよりも早く牛丼屋に行きましょう」

 おいおい、いきなり何を言い出すんだ、このボクっ娘は。

「何だよ、牛丼って」

「ライ先輩に言われたんですよ。ショウ先輩にお礼をしたいんだけど何をすればいいかなって訊いたら、じゃあ牛丼を食わせてやってくれって。ショウ先輩、三食共毎日自分で作っているそうじゃないですか。普段から粗末な物しか食べていないし、俺と一緒に牛丼屋に行っても、食費節約のため並盛りしか注文しない。だが、あいつは一度でいいから特盛りを腹一杯食べてみたいと思っているはずなんだ。リクっち、その願いを叶えてやってくれ、って」

 先輩の言いそうな事だ。って言うか、特盛りを食べたいのは先輩自身でしょ。僕の胃袋は並盛りで十分満たされる容量しかないんですよ。腹を減らして行けと言われた理由がやっとわかった。まったく、ソノさんも先輩もロクな提案をしないなあ。

 ここまでリクの話を聞いて、他の面々はどんな提案をしたのか気になった。さっそく訊いてみる。

「ところでモリさんやコトさんには尋ねなかったのかい。僕にどんなお礼をすればいいか」

「モリ先輩は、お礼なんて必要ないよ、ありがとうの一言で十分だよって言っていました。でもそれじゃボクの気が収まらないです」

 うーむ、さすがはモリ。僕の心中を見事に察した常識ある提案だ。

「コト先輩も同じ意見でした。でもせっかくお礼をするのなら、私の分も含めてって事にしておいてね、と言っていました。だから今日のボクのお礼はコト先輩からのお礼も含まれています。コト先輩に新たにお礼を求めるような真似はしないでください」

 うーむ、さすがはコト。リクのお礼に自分のお礼も兼ねさせるとは、見事な便乗提案だ。

「それよりも、早く牛丼屋に行きましょう。来月のお小遣いを前借りしてきたから、特盛りの三杯や四杯どうってことないです。とっとと済ませてこんな服は早く脱ぎたいんですから」

 スカート姿は有難く拝見させていただいたが、こちらの提案は素直には従えなかった。わざわざ小遣いの前借りまでさせて、牛丼を食べさせてもらうなんて、年上の自分としては気分がよろしくない。

「いや、いくらお礼とはいえ、年下のリクっちにおごって貰うのは気が引けるよ。お小遣いは自分のために取って置きな」

「でも、そしたら、ボクはどうすれば……」

 そうだなあ、このままお礼なしじゃリクも納得できないだろう。僕は改めてリクの顔を見た。目鼻がはっきりして美形の部類に入る顔立ちをしている。日焼けした肌が白くなり、刈り上げた髪をもっと伸ばせば、コトみたいにクールな感じの美少女になりそうだ。

 不意に、その顔がシイの顔と重なった。シイも今のリクと同じように、話す時はいつも僕を見上げていたっけ。そうだ、いい事を思いついた。

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