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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
六 花は散れども想いは散らず
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父つぁんの思い出

 ゴールデンウィークが終わると、僕らの高校は中間試験一色に染まる。試験期間前の部活動停止は既に始まっており、放課後ぐずぐずしていると、「早く帰宅しろ」と知らない教師からも尻を叩かれる始末だ。

 授業中だけでなく休み時間も何となくピリピリし始めた教室内。しかし昼の弁当の時間だけは別だ。やはり食事は楽しく取らなくては消化によろしくない。しかも今日は一週間振りに四人揃っての昼食である。全員席に着くと、さっそくモリがコトに話し掛けた。

「こうして一緒にご飯を食べるの久し振りね。コトさん、もう普通に食べられるの」

「すっかり元通りよ。本当の怪我じゃなかったのだもの」

 コトの姿を見るのは病院で別れて以来だ。数日前の集中治療室での出来事は、思い出すたびに笑いが込み上げてくる。

 吟詠境で本復丹丸を使った後、その効果は即座に現れた。僕らが退室する寸前、コトの意識が戻ったのだ。驚く医師。喜ぶコトの母親。何よりリクの喜びようは常軌を逸していて、「コト先輩!」と叫びながら、コトの首にしがみついた。勿論、すぐさま退室を命じられたのだが、その時の「君たちは一体何をしたんだ」とでも言いたげに僕らを見た、あの若い医師の顔は今でも忘れられない。

 もっともそれですぐ退院とはならなかった。念のために翌日も集中治療室から出ることはできず、一般病棟に移ったのが連休明けの火曜日。そして水曜日に退院して、木曜日の今日、ようやく僕らに元気な顔を見せてくれたのだ。

「トツさんは元気そうね。右手の怪我はもういいの。何針か縫ったのでしょう」

「こんなのコトさんに比べたら、蚊に刺されたようなものさ」

 父つぁんの今日の弁当は、「春のおにぎり作戦」が終了して以来初となるおにぎりである。負傷して箸の扱いに不慣れな父つぁんの右手にとって、おにぎりが打って付けの弁当であることは、父つぁんの母親でなくても理解できるところだ。

「うん、やっぱり父つぁん家のおにぎりは一味違うな」

 昔の習慣とは恐ろしいもので、貰う必要もないのにひとつ貰ってしまった。病院で先輩やソノさんと一緒に食べたおにぎりと変わらないはずなのに、今食べているおにぎりの方が断然美味しい。心配を抱えた心は食べ物の味までも不味くさせてしまうのだろう。人間の味覚とは実に不安定なものだと改めて思う。

「シイちゃんとは話をしたの、コトさん」

「退院する日、あたしの病室にお見舞いに来てくれたわ。すっかり元気になっていたわよ」

 父つぁんとリクは予定通りに月曜の午前に退院し、その日の午後には僕やソノさんたちと一緒に、無事、この街に帰って来た。それに対し、シイの退院は火曜までずれこんだ。月曜になっても体力が回復せず、眠っている時間が長かったからだ。吟詠境での言霊の力の消耗は、コトに次いで大きかったのだろう。

「すまんな、俺やあいつのために大変なことに巻き込んでしまって。もうすぐ試験なのに授業を休ませてしまったし」

「二日くらい休んだってどうってことないわ。さっき見せてもらったモリさんのノートは私よりもきっちり書けているし」

 むむ、そうなのか。それは是非とも拝見したいものだ。はっきり言って中学の頃から試験は大の苦手なのだ。特に文系科目。高校最初の試験で赤点を取るのだけは、なんとしても回避したい。

「おい、ショウ、お前さっきから全然喋ってないじゃないか。久し振りにコトさんに会ったんだろう。少しくらい話をしろよ」

 父つぁんに言われて僕はコトを見る。集中治療室での蒼白さは消え、明るく勝気な表情は以前と全く変わらない。

「や、やあ、コトさん、元気そうだね」

「おかげさまで」

 おざなりな僕の挨拶に素っ気無いコトの返事。実は朝からなるべくコトを避けていたのだ。これまでコトと顔を合わせる時は、その強烈な目力の為にどうしても視線が目に行ってしまっていた。だが、今は違う。唇に行ってしまうのだ。そして視線が唇に行ってしまったら最後、あの柔らかい感触が蘇ってきてしまうに違いない。

 という僕の予測は、今、完全に的中してしまった。食事をして薄く濡れたコトの赤い唇をこれ以上見ることができず、僕は思わず顔を伏せてしまう。

「ショウ君、今、思い出したでしょう。腑抜けた顔になっているわよ」

「ん、思い出したって、何をだよ、ショウ」

「な、何でもないよ、父つぁん。気にしないでくれ」

 即座にこちらの心の内を察するとは、コトの勘は相変わらず冴えているようだ。父つぁんもモリも、あの時の吟詠境には行ってないから、何の事か理解出来ないだろう。まあ、別に秘密にしておくほどのことでもないのだが、この条件反射が解消されるまでは知られたくはないな。

「ふふん」

 コトが鼻で笑っている。命の恩人に対して何という不遜な振る舞い。しかし、ここで「何だよ、その態度」とでも言おうものなら「あんな目に遭ったのはあなたのせいなのだから、助けてもらって当然」などと反論されるのは確実なので何も言わない。こっちだってそっちの出方は、ある程度わかってきているのだ。

 こうして僕らの三回目となる四人昼食は、途中退席する者もなく無事に終わった。過去二回はいずれもコトや僕が途中で席を立っていたので、初めての平和的終了と言えるだろう。これからもこの調子でお昼ご飯を味わいたいものである。

「おい、ショウ」

 机を元の位置に直していたら父つぁんが声を掛けてきた。「何だい」と返事をすると意外な言葉が返ってきた。

「今日は外で日向ぼっこするんだろ。俺も一緒に行っていいかな」

「あ、ああ、いいけど」

 休みが明けて火曜、水曜と雨だった。今日はようやく晴れたので、いつも通り校庭で残りの時間を潰すつもりだったのだが、それにしてもどんな風の吹き回しなのだろう。友人の多い父つぁんがわざわざ僕に付き合いたいとは。

 理由を訊くのも何となく憚られて、何も言わずに二人で校庭に出る。最近は日差しが強いので、今日の寛ぎ場所は体育館横で陰が多い芝生地帯に決定。建物の壁にもたれる様に腰を下ろすと、父つぁんが「何飲む? おごるよ」と訊いてくる。随分気前がいいなあと思いつつ「じゃあ、オレンジジュース」と答えると、目の前の自販機で買ってくれた。こんな父つぁんは初めてだ。

「本当は火曜日に言いたかったんだ。でも昼も放課後もお前とは時間が合わなくてな。ちょっと遅れたが謝らせてもらうよ。お前には随分と迷惑も掛けたし、嫌な目にも遭わせてしまったと思う、すまなかった」

「なんだ、そんな事か。別にもう何とも思ってないよ」

「それと感謝もしているんだ。お前たちのおかげで俺は自分の間違いに気づけた」

「間違い?」

「俺は家の手伝いばかりさせられて、他の事を何もできなかった。それであいつに対して嫉妬に近い感情さえ抱いていた。でも、ライ先輩に言われたんだよ。『もし、お前が家の手伝いをしなくて済んだとしても、あいつみたいに勉強もピアノの練習も一所懸命頑張って、きちんとした結果を出せたと思うのか』ってな。それで俺は目が醒めた。自分の出来の悪さの原因を、あいつに押し付けていただけだったんだ。ライ先輩の言う通りだよ。家が農家じゃなくお前みたいな普通の家だったとしても、結局、暇な時間はのらくらして、今と変わらない俺にしかならなかったと思うんだ。俺が駄目なのは俺のせいだし、あいつが立派なのはあいつが頑張ったからなんだ。お前やライ先輩のおかげで、ようやくそれに気づけた。礼を言うよ」

 よかった、と素直に思えた。父つぁんもシイも気立ての良い僕らの友人だ。その二人が仲違いしている姿は、こちらとしても見ているのが辛いくらいだった。何年も積み重ねられてきた二人の関係が、一日二日で急に変わることもないだろうが、少なくとも父つぁんの中からシイに対する嫌悪の気持ちが消え去ったのは間違いなさそうだ。

 それにしても父つぁんの目の曇りを拭き取った先輩の言葉、ちょっと出来すぎの気もする。去来が言わせたんじゃないだろうか、そんな気がしないでもない。

「うん、仲直りできて良かったじゃないか。じゃあ、これからはあいつなんて言わず、シイって呼んであげなよ。喜ぶぞ」

「シイか……」

 父つぁんは自分用に買ったウーロン茶のペットボトルを握り締めて、青い空を眺めた。

「不思議なんだ。あの木の下での事はほとんど覚えていないのに、あいつと、シイと一緒に居たことだけはしっかり覚えているんだ」

「一緒に居たって、どういう事だい」

「昔の思い出を見ていたんだ。ガキの頃から夏になると、俺たちは毎日スイカを食べていた。俺は種を取るのが面倒で、そのまま噛み砕いて食べていたんだ。ところがシイの奴、どこかで『スイカの種を食べると腹痛を起こして死ぬこともある』って耳にしたらしくてな。俺に対して、死んじゃうから種を食べるのはやめてって、真剣な顔で言うんだ。俺はそんなの嘘って知っているから、無視して今まで通り食べていた。そしたら、ある日、シイの奴、スイカを小さく切って種を全部ほじり出してしまったんだ。どうしてこんな事するんだよって怒ったら、だってお兄ちゃんが死んじゃうのは嫌だからって、涙を流しながら言うんだ」

「シイらしいな」

「そんなのはツマラナイ昔の思い出のひとつに過ぎなかった。だが、病院で目が覚めて、さっきまで見ていた幻影のようなこの夢を思い出した時、俺は今まで本当に大事なものを見落としていたことに気づいた。こっちに来てから多くの友人を作った。でも、その中にスイカの種を取ってくれるような奴が居るだろうかって考えると、友達が欲しくておにぎりを持ってきたりしていた自分が急に馬鹿らしく思えてきた。本当に大切にしなきゃいけない奴は自分のすぐ側に居たんだ」

「灯台もと暗しってやつだね」

 父つぁんが見ていたスイカの夢。それは北枝が牧童の宿り手に見せた幻影の一つだったのだろうか。芭蕉の意識になって北枝と共に発句を詠んだ時、彼の業は牧童を超え宿り手の意識にまで及んでいた気がする。十哲中最高の幻術詠の遣い手なら、そんなことも可能なのかも知れない。

 同時に僕は父つぁんの記憶が気になった。宿っていた牧童の言霊が消えた以上、吟詠境での記憶はほとんどないはずだ。だが完全に忘れているようにも見えない。

「なあ、ところで父つぁん、それ以外には何か覚えてないのかい。例えば牧童の事とか、それと、あとは、言霊の事とか」

 父つぁんはこちらを見た。僕の心中を探ろうとするかのように、じっと見ている。そしてその視線を外すことなく答えた。

「正直、牧童という言葉すら不確かなくらい、あの男のことは忘れている。だが、言霊のことは覚えている。お前やライ先輩にそれが宿っていることも。そしてお前たちが宗鑑という人物を敵視していることも」

 やはりそうか。牧童から流れ込んでいた記憶は、言霊が消えた瞬間、父つぁんの中からは消えてしまったようだ。しかし、宿していたのは牧童の言霊であると同時に宗鑑の言霊の片鱗でもある。宗鑑の言霊が存在する以上、その記憶は完全には消えていないのだろう。

 言霊や僕らのことについて説明しておいた方がいいだろうか。しかし、既に言霊の宿り手ではない父つぁんに対して、どうやって、どこまで話せばいいだろう。

「えっと、父つぁん、あの、話せば長くなるんだけど……」

「いいよ、話さなくていい」

 父つぁんは僕の言葉をさえぎると、ペットボトルのウーロン茶をごくりと飲んだ。

「俺には話したくない、俺を巻き込みたくない、お前はそう思っているんだろう。なら、話さなくていいよ。俺もこの件に関してはお前たちには干渉しない。実際、もう二度と思い出したくない出来事だったからな。でも、もし俺にも何か役立てる事があるなら言ってくれ。その時は、喜んで協力させてもらうよ」

 他人の事をあれこれ詮索しない父つぁんらしい心配りだ。こちらの肩の荷を降ろすだけなく、一緒に背負ってくれる父つぁんには本当に感謝である。

「さあ、そろそろ戻ろうぜ。男二人だけでこんな所に長居していると、あらぬ誤解を招くかも知れないからな」

 こんな冗談も言えるようになったとは、父つぁんも初対面の時に比べると随分変わったものだと思う。せっかくの父つぁんのボケなので「そんな事を考えるのソノさんくらいのもんだよ」と、一応突っ込んでおいて、僕らは立ち上がった。校舎に向かって僕の前を歩く父つぁんの、白い包帯を巻いた右手が、今はとても頼もしく見えた。

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