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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
二 去来と其角
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先輩の違和感

「あのう、コトさん、別におしゃれなカフェとか期待していたわけじゃないんですけど」

 僕とコトは駅前のとある店の中に居た。昼時ということもあって少々混雑しているにもかかわらず、二人で四人掛けのテーブルに座っていた。コトは上機嫌の顔をして店内を見回している。そんなウキウキ気分のコトとは対照的に、僕は少々不満げにコトに訊く。

「どうしてこの店なの?」

「あら、嫌い?」

「いや、そんなことないけど、」

「なら、いいじゃない。今、春の割引セール中なんだから。これでもショウ君の懐具合を考えてあげたのよ」

 と言っているうちに店員が料理を運んできた。混雑していても注文してから数分で食べられるとは、さすがは全国展開のチェーン店である。コトは嬉しそうに丼を持ち上げると箸で牛肉をつまんで口に入れた。

「へえ~、意外と美味しいのね」

 そう、僕たちが居るのは牛丼屋。安い早いがモットーのチェーン店。これはどう考えても女の子と一緒に行く店ではないだろうと、僕は言いたかったのだが、コトに向かってそんな主張ができるはずもない。丼をがっしりと掴んで牛丼を食べているコトを見ていると、肉食女子とはこういうものかと妙に納得してしまう。ただ注文したサイズはミニでサラダセットである。その辺は摂取カロリーを気にする乙女心というものだろう。何にしても彼女が喜んでいるのだから文句を言う筋合いもない。僕も注文した牛丼並おしんこセットを食べ始めた。半分ほど食べたところでコトが話し掛けてきた。

「ね、ショウ君ってお昼はいつもパンを食べているわよね。パン好きなのかしら?」

「いや、好きでも嫌いでもないよ」

 そう、別に取り立ててパンが好きなわけじゃない。単に弁当を用意するのが面倒なだけなのだ。

「お弁当、作ってもらえないんだ。両親、共働きとか?」

「う、うん、まあそんな感じかな」

 僕はあやふやな返答をした。コトに母親の不在を知られるのは、新たな弱みを握られるような気がして嫌だったのだ。

「それならトツさんみたいにおにぎりにしてみたら。あんなに美味しくは無理かも知れないけど、作るだけなら簡単よ」

「あんなに美味しくって、食べたことあるの?」

「あるわよ」

 思いがけぬ事実を知らされて、僕は入学してからの昼食時の記憶を手繰り始めた。最初の数日は一人で食べていたが、父つぁんの席は僕の後ろだ。コトがおにぎりを貰っていたのなら気づかないはずがない。二人で食べ始めてからは無論そんな記憶はない。どういうことだ。

「一体いつ貰ったの? 君がおにぎりを食べているところなんて見たことないけど」

「三時限目の体育が終わった時にお腹が空いて、いつもショウ君におにぎりをあげているんだから、よかったら私にも一個くれないって言ったらくれたのよ。あの時、あなた、次の授業開始時間ギリギリに戻って来たでしょ。だから私がおにぎりを食べているのに気づかなかったのね」

 そうか、居残りで運動器具の片づけを手伝わされていたあの時か。しかしまさか昼食時ではなく休憩時だったとは……父つぁん、君はなんていい奴なんだ。僕は彼の気前のよさに深く感動して、箸に挟んだ牛肉を思わず落としそうになってしまった。それにしてもコトの大胆不敵さは見上げたものだ。自分の弁当で早弁するならまだしも、他人の弁当をねだるとは。いや、しかし考えてみればそれは自分も同じことか。毎日平然と父つぁんのおにぎりを食べているのだから。

「おにぎりなんて中身は何でもいいし作るのも簡単。ラップに包めば容器も不要だから、帰宅後に弁当箱を洗う手間もない。怠惰で面倒くさがりのショウ君だって毎日続けられるんじゃないかしら」

 そうかもしれない。いつまでも父つぁんの好意に甘えているわけにもいかないだろう。さっそく明日から実行してみようか。

「そうだね、チャレンジしてみようかな」

「そう、よかったわ、ふふふ」

 よかった……僕はコトのこの言葉に妙な引っ掛かりを感じた。僕がおにぎり弁当にすることと、コトが喜ぶことに何の関係があるんだろう。不意に僕の頭の中で二つの姿が結びついた。早弁をするコトと僕におにぎり弁当を勧めるコト。そうか!

「あの、コトさん、ひょっとして僕が持ってきたおにぎりで早弁しようとか、そんなことを企んだりしていませんか」

「あら、そうだったわね。嫌だわ、全然気づかなかった。そんなこと、これっぽちも考えてはいなかったのだけれど、ショウ君のたってのお願いとあれば無下に断るわけにはいかないわね。いいわ、それほどまでに言うのなら、あなたのおにぎりを早弁してあげても構わないわよ。本当はおにぎりなんて太りそうだから食べたくはないのだけれど、ショウ君の顔を立ててあげる。どう、嬉しい?」

「……」

 完全なやぶ蛇だった。これでコトは何の気兼ねもなく、僕からおにぎりを巻き上げていくことだろう。だがむしろその方がいいのかもしれない。他人に食べさせることを意識すれば、作る時もそれなりに気合いが入る。何事も前向きに考えるのが一番だ。

「ところで、コトさんは自分でお弁当を作っているの」

「私は母と合同で作ることが多いかな。中身は昨晩の夕食の残りがほとんどだけど、果物とか好きなものを持って来たりもしているわ」

「そうなんだ」

 母と合同、それは今の僕には叶わないことだ。小さい頃、父が弁当を作ってくれた記憶もあるが、遠足や運動会の時などは隣家の先輩の母がほとんど用意してくれた。そう、今も昔も僕は人の好意に甘えっ放しだったのだ。でも明日からは違う。おにぎりは僕の食生活自立の第一歩だ。頑張ろう。

「お、おおー!」

 聞き覚えのある声がした。声が聞こえてきた店の入り口に顔を向けると、大口を開けて突っ立っている人物がいる。一瞬、僕は我が目を疑った。いや、違うだろう別人だろうと頭の中で否定しつつ、どこからどう見ても隣に住む幼馴染の先輩にしか見えぬその人物に、僕は驚きの声を上げざるを得なかった。

「せ、先輩!」

「お、おま、お前、こんな所で、デ、デートだと!」

 先輩は凄い勢いで僕たちのテーブルにやって来た。僕は弁解しようとするが、先輩の勢いは止まらない。

「いつの間にこんな彼女を。お前、俺には一言も言わなかったじゃないか」

「違うんです、先輩」

「何が違うんだよ。お前には姉も妹もいない、女のいとこもいない。小さい頃からお前を知っている俺に隠し事なんてできるはずがないだろう。くっ、俺でさえ彼女なんか持ったこともないのに、どうしてお前がこんなカワイイ娘を」

「いや、だから、彼女は彼女じゃなくて、」

「お知り合いの方?」

「うっ!」

 急に先輩が大人しくなった。声を掛けてきたコトを見たままじっとしている。コトは何食わぬ顔でみそ汁を飲んでいる。食事の方はほとんど済ませてしまったようだ。コトの問いに僕は答える。

「この人は僕の家の隣に住んでいる一つ上の先輩。幼稚園のころからずっと同じ学校に通っているので、ほとんど兄弟みたいな間柄なんだ」

「そう。はじめまして」

「あ、ああ、こちらこそ」

 先輩は挨拶をすると僕の隣に腰掛けた。その間も無言でコトを見詰め続けている。初対面のはずだが、何か気になることでもあるのだろうか。先輩が席に着くと、すぐ店員が水を持ってやって来た。「ご注文は?」という店員に「ぎゅ、牛丼並ひとつ」と答えた先輩の言葉に僕は耳を疑った。

「どうしたんですか、先輩が並ひとつっておかしいですよ。体調でも悪いんですか」

 そう、自分の家の朝ごはんを食べた後で、よその家のトーストまで平らげるほどの大食漢の先輩が、並ひとつなんてあり得ない。

「う、うん、いや、今日の夕食がご馳走らしいんで、昼は控えようと思ってな。ところでお前たちはどういう関係なんだよ」

「あ、そうだ。まだ話してませんでしたよね。僕と彼女は同じクラスで同じクラブの部員。今日は部活動のことでちょっと話があって会っていたんです」

 もちろん後半は嘘である。今日会っている理由を説明するのは少々骨が折れるので、適当にごまかしておいた。

「クラブか。そう言えばどこに入部したかまだ聞いてなかったな。何部にしたんだ?」

「文芸部です。先輩の希望に添えなくてすみません」

「文芸部……そうか思い出した。中学の時、全学年一斉百人一首大会で、二年連続優勝した女子……」

「先輩も知っていましたか。その通りですよ。もっとも先輩が卒業した後も優勝したので、正確には三年連続ですけどね」

 先輩と会話しながら、僕には微妙な違和感があった。いつもの陽気な先輩とはどこか違う。何かに心奪われているかのような上の空の受け答えだった。すっかり食べ終わったコトがまた口を開く。

「この方は何部なの、ショウ君?」

「先輩は中学の時からずっと剣道部。次期主将候補ですよね、先輩!」

 僕は景気づけに先輩の背中を叩いてみせた。ついでにこれはいつもの仕返しも兼ねている。このような仕打ちに対して先輩が取る行動は倍返しなので、当然、この後、僕の背中は先輩のでかい手の平で二回叩かれることになるのだが、

「ショウ……お前、ショウって呼ばれてるのか」

 という、何とも気の抜けた問いしか返ってこなかった。叩かれるのを待っていた背中に寂しさを感じながら説明する。

「彼女が付けたあだ名なんです。芭蕉に興味があるって言ったら、じゃあ、芭を取ってショウね、って感じで。かなりお手軽な付け方ですよね」

「芭蕉、まさか!」

 先輩の僕を見る目付きが変わった。今までに見たこともないほどの鋭く厳しい眼光。それは見覚えのある輝きだった。

「お待たせしました」

 店員が牛丼を運んできた。先輩は僕から顔を逸らすと牛丼を受け取った。そしてすぐさま紅生姜の容器に手を伸ばし、丼に紅色の山を築き上げる。いかにも先輩らしい食事作法なのでホッとするものの、いつもは赤く染まるほどに振り掛ける七味唐辛子を一振りもせずに食べ始めた。やはり今日の先輩はどこかおかしい。しばらくバクバク食べていた先輩は、一息入れて水を飲むと、急に思いついたように訊いてきた。

「お前がショウなら、彼女のことは何て呼んでいるんだい」

「えっと、一応コトって呼んでます。まあ深い意味はないんですけどね。」

 実際には非常に深い意味があるのだが、これも説明には時間を要するので、適当に答えておく。しかし、その後に返ってきた先輩の言葉は意外なものだった。

「コト……寿のコト」

「え、どうしてそれを!」

「い、いや、事によるとそうかなって思ってな。ははは」

 先輩の笑いに元気がない。上手いこと言ったつもりの先輩なら、もっと元気のいい大笑いで背中のひとつも叩いてくるものだ。

「先輩、元気ないみたいですけど、どうかしたんですか?」

「え、何が? 別にどうもしないぞ。そうだ、俺のあだ名も考えてくれよ。カッコイイやつ」

「う~ん、そうですねえ」

 いきなり言われてもすぐに思いつくものではない。箸を置いてしばらく考えていると、

「ライなんてどうかしら」

 興味なさそうに僕たちの会話を聞いていたコトが口を挟んできた。ライ……何か意味があるのだろうか。先輩は食べるのを止めてコトを見たが、すぐに冗談っぽく笑い出す。

「ははは、ライか。信頼できる先輩ってことでライなのかな。ははは」

 先輩の笑いはやはり精彩を欠いている。それに、普通ならどうしてライなのか理由を訊くものだと思うのだが、それもしない。先輩が聞かない以上僕も尋ね辛いし、先輩自身がそれを認めてしまっているので調子を合わせておく。

「ライってカッコイイじゃないですか。雷鳴轟くって感じがして。じゃあ、今日からはライ先輩って呼びましょうか?」

「いや、お前は今まで通り、ただの先輩でもいいぞ、ショウ」

「あれ、先輩は僕をショウって呼ぶんですか。ちょっと照れるなあ」

「お先に失礼するわ」

 唐突にコトが立ち上がった。テーブルの上にはいつの間に用意したのか、コトの料理の代金分の硬貨が置いてある。突然の言葉に僕は戸惑った。

「お先って、それはいいけど、どうしてお金を? 僕がおごるんじゃなかったのかい?」

「気が変わったの、あまり借りを作りたくないから。それじゃ、あとは二人でごゆっくり、ライさん、ショウ君」

 コトは振り返りもせず出口に向かって歩いていく。その背中を見送りながら、先輩がすまなそうな声で言った。

「悪い、邪魔したみたいだな。」

「いえ、もう用事は済んでいるので構わないんですけど」

 コトの無口が気になった。初対面の人間でも臆することなく物言う彼女が、あの『ライ』というあだ名を提案した時以外は、尋ねるばかりで自分の意見をほとんど言わなかった。コトも先輩と同じように、何かに気を取られていたのだろうか。食後の満腹感でぼんやりした頭の中で、僕はコトと一緒に過ごした今日の一こま一こまを思い返していた。

「おい、今日の晩飯、うちに食いに来いよ」

 いつの間にか牛丼並を食べ終わっていた先輩が僕の肩に手を回してきた。

「え、でも父さんが、」

「親父さんには俺から言っといてやるよ。最近、自炊でろくな物食ってないんだろ。たまには昔みたいに一緒に食ってもバチは当たらんさ。それとも、もう夕食の支度がしてあるのか」

「それはないですけど」

 いつもなら休日は父と一緒に三食を済ますのだが、今日はコトと会った後、一日どうなるかわからなかったので、昼も夜も一人で食べると父には言ってきてある。せっかくの先輩の申し出を断る理由はない。

「わかりました、行きます」

「よおし、それでいいんだ。はっはっは」

 背中に先輩のでかい手がぶち当てられた。いつも通りの痛さだったが、この時ばかりは嬉しく感じた。

 店を出た所で先輩と別れた後、僕はスーパーへ寄って一週間分の食材を買い込んだ。取り敢えず今週一週間は毎日おにぎりを作って登校するつもりだ。これまで朝食は父に合わせてずっとパンだったが、これを機に朝もおにぎりに変えてもいいかなと思う。いや、ついでに僕のおにぎりを父に食べさせてもいいかもしれない。その方が経済的にも安上がりである。帰宅後、休日はほとんど家でくつろいで過ごす父に、さっそくこの提案をしてみたところ、朝におにぎりは胃に重過ぎると即座に却下されてしまった。長年続けてきた食生活を息子の提案一つで変えられるはずもないのであろう。ここは引き下がるしかなかった。

 夕食の件は先輩が既に電話を入れてくれていて、父もすんなり許してくれた。日が暮れた頃、僕は一ヶ月ぶりに先輩の家のドアの呼び鈴を押した。

「いらっしゃい、お久し振りね」

 先輩の母親は優しい声で僕を迎えてくれた。先輩も僕と同じく一人っ子なので、ここの家族には昔から先輩の弟のように可愛がってもらっている。

「こんばんは、ご無沙汰しています」

「お、来た来た、待ちかねたぞ。早く来い来い」

 僕の声を聞いて先輩が奥から顔を出した。どうやらもう食べ始めている様子だ。招待したお客が来ない内に食べ始めてしまう、この傍若無人なまでのざっくばらんさのおかげで、反って余計な気を遣わなくて済むのがありがたい。さっそく居間へ直行してみると、先輩と先輩の父親が食事の真っ最中だ。その料理の内容を見て、僕は声をあげそうになった。すき焼きだったのだ。先輩が箸につまんだ牛肉を高く掲げて愉快そうな顔で笑った。

「いやあ、今日は牛肉デーだなあ、はっはっは」

 先輩、これは何の冗談ですか。いや、牛肉は嫌いじゃないですけど、昼も夜もじゃ牛肉のありがた味が薄れてしまいますよ、などと言いながら僕も食卓に着いて一緒に食べ始める。居心地のよい雰囲気。先輩一家のようなお隣さんを持てたことの幸せを、しみじみ感じるひとときだ。

 食べ終わると先輩の部屋へ行った。ここも小さい頃から慣れ親しんだ部屋だ。もしかすると、自分の部屋で過ごした時間より、この部屋で先輩と過ごした時間の方が長いかもしれない。良いことも悪いことも先輩と一緒に吸収した二人の遊び場だ。僕と先輩はいつものように床に直接座って話し始めた。

「しかし、今日は驚いたぞ」

「いや、それはこちらも同じです」

 先輩と一緒に牛丼屋に行ったことは数回あるが、まさかあのタイミングで鉢合わせになるとは思ってもみなかった。しかもこちらは彼女とは言えないまでも女性同伴なのであるから、先輩にしてみれば、鳩が豆鉄砲どころか機関銃で撃たれたくらいの驚きであったことだろう。あの時の大口を開けた先輩の顔を思い出しただけで可笑しくなる。

「それにしても芭蕉に興味があって文芸部を選んだとはな。何か好きになる切っ掛けでもあったのか?」

「いえ、別に。受験勉強中になんとなく興味を持っただけですよ」

 いかに先輩とは言え、これだけは正直に話すわけにはいかない。しかも結果が散々だったのだから尚更だ。いつか露呈するにしても、できれば隠しておきたい。

「まあ、いいや。実はな、俺も俳句には興味があるんだ。と言うより、ある俳人に興味があると言った方がいいかな」

「へえー、知りませんでした」

 初耳だった。先輩はどちらかと言えば理系タイプで、文芸には縁遠い人という印象だ。僕の読書傾向がマンガや雑誌ばかりなのも、この先輩の影響をモロに受けてしまったためと言っても過言ではないだろう。と、急に先輩が顔を寄せてきた。

「ある時、夢を見るようになった。俺の好きな俳人が主人公になっている夢だ。」

 僕はハッとした。先輩の目付きが険しくなっている。この目、心の奥底まで見通すかのような眼光を、僕はこれまで何度も経験している。あの老人、部長、昼間の先輩、そして今。まさか、先輩は……

「数日続いた後、ある夢を最後に見なくなった。その夢は」

「芭蕉臨終の場面……」

 震える声で僕は言った。

「そうだ。しかもその夢は俺の知っている史実とは異なっていた。臨終に立ち会わなかったはずの嵐雪がその場に居た。そして、芭蕉の病中吟、旅に病んで夢は枯野を駆け廻る、その後に芭蕉は続けてこう言ったんだ。破れた風に飛ぶ寒雀」

 同じだ、僕の見た夢と同じ。間違いない。先輩も僕と同じく言霊を持っている!

「そう、お前が芭蕉の言霊を宿し、コトが寿貞尼の言霊を宿しているのと同じく、俺の中にも言霊がいる。昼間、彼女が言ったライは、蕉門十哲のひとりに数えられ、西国の蕉門を束ねた俳諧師、向井去来のライ」

 先輩の言霊をコトは気づいていたんだ。そして先輩もコトの言霊に気づいていた。なのになぜ僕は気づけないんだろう。なぜ先輩は僕の言霊に今まで気づけなかったんだろう。先輩の告白に動転した僕の頭には様々な考えと疑問が浮かび上がり収拾がつかなくなっていた。先輩が僕を見る目は既に別人のものだった。そしてその口から発する声もまた、別人のように聞こえた。

「元日や家に譲りの太刀帯かん」

 初めて吟詠境に入った時と同じ感覚が僕を襲った。僕の中の言霊が無意識の内に同じ句を詠唱する。しかし今回は以前よりもその声が身近に感じられた。

「元日や家に譲りの太刀帯かん……」


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