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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
五 数ならぬ身
32/61

託したかったもの

「力ある者もいつかは滅びる。この廟もまた然り」

 己への戒めのようにそう言うと、凡兆は周囲を見回した。破壊された拝殿、雑草に覆われた参道、倒れたままの燈籠。荒れ果てた境内は目を覆いたくなるほどだ。

「あれだけ権勢を誇った太閤殿が眠るこの豊国廟ですら、徳川の時代となればかくの如く打ち捨てられ、誰一人訪れる者もなく時の流れの中で忘れられていった。蕉門とて同じこと。我らが一丸となって対していた相手、宗鑑は封じられ、我らをまとめていた宗匠、芭蕉翁も亡くなられると、我ら門人は要を失った扇の如く、散り散りに各々の道を歩き始めた。そして俳諧そのものが師の目指した高みから転がり落ちていった。そうであろう、其角殿」

 返事をする代わりに、今度は其角が自分の坊主頭をパシリと叩いた。其角が談林派の西鶴と親しくよしみを結んでいたのは、門人の中で知らぬ者はなかった。其角自身も己の洒落風の俳諧が蕉風から外れていたのは十分承知していたのだ。凡兆は話を続ける。

「わしは言霊となった後、宿り手を替えながら蕉風の廃れ行く様を傍観するしかなかった。そう、あの俳諧師、画と発句を得意とし、まるでこの地に生え出た竹の子のように真っ直ぐに、そして天の高みを目指すが如きあの俳諧師が出現するまでは」

「蕪村殿か」

 其角の言葉に凡兆は頷いた。蕪村が俳諧師として名を知られるようになる頃には、芭蕉と直接関わっていた門人のほとんどは世を去っていた。ただ宿り身の業を使った門人たちだけが、宿り手の俳諧師として蕪村を知ることができた。芭蕉に封じられずに言霊の宿り主となって時代を生きてきた其角もまた、凡兆と同じく当時の蕪村のことは知っていたのだ。

 図らずも其角の口から出たその俳諧師の名を聞いて、去来は身を乗り出した。

「そうだ、お二方、その蕪村殿について話してくださらぬか。かの俳諧師に関する知識は我が宿り手から得られるのみ。去来自身としては何も知らぬ。芭蕉翁亡き後、蕪村殿がどのようにして言霊の俳諧師になられたのか、何故、逆宿り身の業を使われたのか。知っておられるなら教えてくだされ」

 封じられた言霊の多くはその封の中で眠りにつく。力を使えば世の移り変わりを眺めることもできるが、大切な言霊の力を使ってそこまでする言霊は少ない。去来も例に漏れず、封じられている期間のほとんどを眠りの中で過ごした。その間の知識はないに等しい。

 懇願する去来に凡兆と其角は顔を見合わせた。互いに互いの答えを探り合っている、しばらくはそんな様子の二人だったが、やがて凡兆が口を開いた。

「わしも其角殿も宿り手の俳諧師として蕪村殿との面識はある。また蕪村殿の門人の中にも蕉門の宿り手の俳諧師が数人居た。だが、蕪村殿は言霊の業を持っていなかった。共に吟詠境に行ったことは一度もなかった。そしてそのまま亡くなられた。それ以後、今の宿り手が蕪村殿に出くわすまでは一度も会ってはおらぬ。そうであろう其角殿」

「うむ、凡兆殿の言葉通り。わしも蕪村殿に言霊は見出せず、鬼籍に入られた後は今に至るまで一度も蕪村殿に会ってはいない。ただの俳諧師に過ぎぬと思っていた。それ故、ショウ殿から蕪村殿について教えられた時には、俄かには信じ難い思いだった」

「なんと。ではお二方とも、蕪村殿と言霊についての関わりはわからぬ、ということですか」

 去来の言葉に黙って頷く二人。一気に意気消沈する去来。ショウもまた蕪村についての手掛かりがほとんど得られそうにないとわかって、当てが外れた気分になった。それでも凡兆が自分たちよりも蕪村について多くのことを知っているのは間違いなかった。蕪村が自分と別れてから数日で凡兆の宿り手を紹介できたのは、事前に知っていたからだ。つまり凡兆の宿り手と蕪村は、少なくとも二度は会話をしていたことになる。その会話の中で何か有益な情報はなかったのだろうか。ショウは凡兆に尋ねた。

「あの、凡兆さん。蕪村さんが言霊を得た経緯や、今まで生き長らえた理由はわからないにしても、他に何か知っていることはないですか。凡兆さんの宿り手はどうやって蕪村さんを知ったのですか」

 ショウに問い掛けられた凡兆は、まるで遠い昔を思い出そうとでもするかのように静かに目を閉じた。

「あれは、もう数十年も前。わしがこの宿り手を得てまだ幾ばくも経っていない頃。医者の資格を取ってこの地に戻り父と共に働き始めたある日、具合が悪そうに道端にうずくまっている老人を見つけたのだ。最初はただの老人にしか見えなかった。しかし、医院に連れて帰り治療を施すうちに、わしは気がついた。この老人は紛れもなく蕪村殿であると。問いただすと老人は決まりが悪そうに『凡兆殿、久しいのう』と仰られた。気がつかなければ知らぬ振りをして別れるつもりであったようだ」

「旧知の仲なのに、どうして知らない振りをしようとしたんでしょう」

「それはわしにもわからぬ。確かなのは蕪村殿は己を死んだことにした後、他の言霊の宿り手たちに気づかれぬよう、ひっそりとこの世を渡って来られたということだけだ。そして今の世まで生身の体を保てた以上、逆宿り身の業を使ったとしか考えられなかった。さすがにわしも尋ねずにはいられなかった。言霊の業を持っていながら、どうしてただの長生きの老人と成り下がったのか。何のために逆宿り身の業を使ったのか。その問いに蕪村殿はこう答えてくれた。ある約束を果たすため、それ以上は言えぬ、と」

「約束……」

 ショウの口から思わず言葉が漏れた。その約束が何なのか、蕪村が凡兆に話さなかった以上、自分が訊いても教えてくれないに違いない。それだけに、今、この時代にまで生き続ける蕪村が一層不気味な存在に思われた。

「蕪村殿はそれだけを言って去って行かれた。そして長い年月が過ぎ、出会ったことすら忘れてしまっていた頃、蕪村殿は再びわしの前に姿を現し、こう告げた。芭蕉翁の宿り手が見つかったと。遂に門人たちの封が解け始めたことを知ったわしは、去来殿の宿り手への言付けを頼んだ。それが数日前のこと」

 凡兆はそこまで話すと閉じていた眼を開いた。蕪村についてこれ以上語ることはない、開いた凡兆の瞳はそう告げていた。それでもショウは訊かずにはいられなかった。

「あ、あの、凡兆さんは、蕪村さんと宗鑑はどのような関係だと思いますか。」

 口籠りながら尋ねるショウに、凡兆の眼差しが幾分優しくなった。

「わかっておる、ショウ殿。蕪村殿は宗鑑の宿り手なのではないか、そう思っておられるのであろう」

 頷くショウを見て凡兆は続ける。

「言霊の俳諧師がこの世に存在するなら、宿り手としてこれ程好都合な者は居ない。そして封が解けた宗鑑がそれを見逃すはずがない。わしもそう考えた。だが、最初もそして二回目も蕪村殿に言霊を見出すことは出来なかった。逆宿り身の業を使えば、己の言霊の力は無いに等しくなる。それ故、蕪村殿の言霊が見えないのは至極当然のこと。宗鑑の言霊が見えなかったのは、宿っていないからか、あるいは言霊隠しの業を使っているからか、それはどちらとも言い難い。ただ、蕪村殿は二回目に会った時こう言われた。宗鑑は黒姫の業を持っている、用心なされるがよい、と」

「黒姫、冬の女神の季の詞か」

 即座に其角が声を上げた。佐保姫は春の女神の季の詞。冬の女神は多くの季の詞を持ち、その中のひとつが黒姫である。

「左様。逆宿り身の業は佐保姫や龍田姫の業を応用したもの。女神は言霊の力を女神の力に変え、逆宿り身の業は言霊の力を己の生命力に変える。どちらも言霊の力を別の力に変えるのがその本質。宿り身の業はその逆、生命力を言霊の力に変える。しかしその本質は、何かの力を言霊の力に変えるのではない。生命力を別の力に変えること、これが黒姫の業の本質」

「つまり、黒姫が生命力を女神の力に変えるように、宗鑑は生命力を言霊の力に変えることが出来る、と」

 今度は去来が凡兆の言葉を継いだ。その通りとばかりに頷く凡兆。たまらずショウは声を出した。

「そんな事まで知っているのなら、やはり蕪村さんは宗鑑の言霊を宿しているのではないですか。しかも黒姫の業を使えば、宗鑑は蕪村さんの生命力を奪って自分の言霊の力に出来る。それを防ぐために蕪村さんが宗鑑の言い成りになってしまっている可能性だって」

「憶測でものを申すのはよくないですな、ショウ殿」

 去来は諌めるように言うとショウの肩に手を置いた。知らぬうちに自分の頭が熱くなっていたことに気づいたショウは、恥ずかしそうに身を固くして顔を伏せた。

「ショウ殿も我が宿り手たちも、蕪村殿を己の敵に見なしたいようですな。しかし、蕪村殿は芭蕉翁を深く尊敬し、再び蕉風を世に起こそうと尽力されたお方。容易く宗鑑になびくとは思えませぬ」

「うむ、去来殿の言われる通り、わしも蕪村殿は我らのために動いていると思っておる。しかも逆宿り身の業を使っておる蕪村殿は、宿り主の言霊の力を己の生命力に変えられるのだ。仮に宿り手になっていたとしてもその点で両者は互角。早合点は禁物であろうな」

 ショウの頭を混乱し始めていた。去来も其角も、蕪村はあくまで宗鑑の側に立ってはいないと思っている。そればかりか宿り手であることすら懐疑的だ。ライやソノとは逆の見解にショウはどう考えればいいのかわからなくなってきた。三人の意見が出尽くしたところで、凡兆が口を開く。

「これ以上蕪村殿について知りたいのなら、我が宿り手と話をしてみるのがよかろう。実際に蕪村殿と会い、言葉を交わしたのは我が宿り手であるのだからな。わしとはまた違った見方をしておるかも知れぬ」

「そうですな。では、この吟詠境もそろそろお開きといたしましょうか。少々長居が過ぎましたな凡兆殿、挙句を」

「いやっ!」

 激しい口調で凡兆は去来の言葉をさえぎった。驚いて顔を向けた去来に凡兆はもう一度力強い声を出す。

「いや、用はまだ済んではおらぬのだ、去来殿」

 凡兆は懐に手を入れると、先程三人から貰い受けた筍の皮を取り出した。丁寧に畳まれたその皮を開いて現れたのは、真珠の如き小粒の真紅の玉。去来の顔色が変わった。

「凡兆殿、それは、まさか……」

「そう、そのまさかだ。去来殿、覚えておろう。我らの今生の別れとなった牢獄の前で、わしが最後に言った言葉を。かつてわしと去来殿、そして十哲の俳諧師の中で唯一回復詠唱の業を持つ丈草殿の三人で、奪霊に打ち勝つために極めんとした丸薬、本復丹丸ほんぷくにがん。これがそうだ。あの言葉通り、わしはこれを完成させた。そしてこれこそが本当に去来殿に託したかった物」

 去来は無言でその丸薬を見詰めていた。差し出されたまま受け取ろうともせず、固く握り締めた両拳を正座した膝の上で震わせている。其角もまた何も言わなかった。その丸薬がどんなものか知っているかのように、去来と同じ険しい表情で口を閉ざしている。そんな二人がショウには奇妙に思われた。誰にともなく尋ねる。

「その丸薬はどんなものなのですか」

 答えはすぐには返って来なかった。言うのが憚られる、そんな気配さえ感じられた。が、やがて其角が重い口を開いた。

「ショウ殿は奪霊の業を知っておろう。相手の言霊の力を奪う必殺の業。それに対抗するため、失われた力を瞬時に回復する方法を我らは思案した。その結果のひとつがこの丸薬。これを服すれば、どれほど消耗された言霊の力であろうと立ち所に元に戻る」

「それは凄い!」

 ショウは単純に喜んだ。それ程の効果がある丸薬ならば、宗鑑と相対した時にどれだけ有利に事が進めるか考えるまでもない。

「ありがとうございます、凡兆さん。謹んで受け取らせていただきます」

 ショウが両手を差し出すのを見て凡兆は苦笑した。

「いや、ショウ殿が受け取っては意味がない。これは、もはや自力で丸薬も取り出せぬほどに弱った相手に飲ませるもの。それ故、去来殿に預けたいのだ。いざという時、芭蕉翁に飲ませるために」

「では、去来さん、受け取ってください」

 ショウにそう言われても、去来は拳を固く握り締めたまま身じろぎもしなかった。絶対に受け取りたくない、そんな意志がまざまざと感じられた。

「去来殿、我らの宗匠、芭蕉翁のご命令ですぞ」

 この一言には、さすがの去来も無視するわけにはいかなかった。丸薬を凝視し続けていた顔を上げ、固く閉ざしていた口をようやく開いた。

「凡兆殿、しかしこれは、この丸薬は……」

「先程も話したであろう。わしはもう俳諧師としては芭蕉翁のお役には立てぬ。今のわしに出来るのはこの丸薬を去来殿に託すだけ。もし情けがあるのなら、わしの最後の願い、叶えてはくれぬか」

「……かたじけない、凡兆殿」

 去来は体を震わせながら拳を開くと、差し出した凡兆の両手を包んだ。凡兆の顔に初めて笑みが浮かんだ。が、それは一瞬で消えると、今までにない力強い声を凡兆は発した。

「この丸薬はまだ完成しておらぬ。お三方の想いの籠もった竹の子の皮と、わしの最後の詠唱にて全き本復丹丸となる。恐れながらこの凡兆、発句を詠ませていただく」

 ショウは感じた。凡兆の全身からほとばしり出た言霊の力が、その両手に集まり始めたのを。あれだけ弱っていた力をこれ程までに集中させられる凡兆の底力に、ショウはこの俳諧師の本当の実力を初めて理解できた気がした。

「竹の子の力を誰にたとうべき!」

 吟詠境を開いた発句が凡兆によって詠まれた瞬間、凡兆と去来が合わせた両手から深紅の閃光が発せられた。その光はたちまちの内に吟詠境全体に広がると、周囲を夕焼けの茜色に包んだ。天に伸びた竹も、朽ち果てた豊国廟も、散り敷いた竹の葉に座る四人も、全てがその茜色の中へと飲み込まれていく。 

 ――去来殿、言霊となられた芭蕉翁をよろしくお頼み申しますぞ……

 去来は聞いた、凡兆の声を。牢獄の前で別れた時と同じ、生きて二度と会うことはないと覚悟した、あの時と同じ凡兆の声を……

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