獄中の俳諧師
凡兆が投獄されている牢屋を、凡兆の妻、羽紅尼と共に去来が訪れたのは、芭蕉の死後数年を経てからである。出獄を許されて二人の前に立つ凡兆は見る影もなく衰えてはいたが、その面構えは以前と同じく剛毅な性格を露わにしていた。
「凡兆殿、長きに渡る苦難をよく辛抱なされた。今はゆるりと休まれるが良かろう」
「まさか貴殿に迎えてもらおうとは思いも寄らぬこと。去来殿」
凡兆と去来は手を取り合うと、過ぎ去った昔を懐かしく思い起こした。
去来が新たな句集編纂の志を抱いたのは、芭蕉が陸奥、北陸の旅を終えた翌々年のことである。旅に出立する直前に入門した凡兆と共に、芭蕉の助言を仰ぎながら、時に激論を戦わせて句撰に没頭した日々。二人が数ヶ月を費やして生み出した俳諧撰集――それは芭蕉の巻頭句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」から「猿蓑」と名付けられた――は、当時の蕉門俳諧最高の出来と言っても過言ではなかった。
「あの頃が懐かしいですな」
猿蓑に収められた凡兆の発句は、師の芭蕉すらも抜いて門人一同中最多である。この頃の凡兆は俳諧師としての絶頂期であった。が、それは長くは続かなかった。芭蕉との軋轢が生じ始めたのである。蕉門でも奇人として知られた漂白の俳諧師、路通の振る舞いに我慢できなくなったのだ。その点に関しては凡兆のみならず、意を同じくする門人も多数居た。だが、芭蕉はあくまで路通を庇った。頑迷な凡兆はそれに耐えられず次第に芭蕉から遠のいていった。
更に追い討ちをかけるように凡兆は投獄された。密貿易に加担したとの罪である。凡兆の生業は医者、その治療に使う薬は薬種問屋より入手する。問屋が扱うのは簡単には手に入らぬ薬種であって、基本的に高価である。特に支那より入ってくる生薬は、その希少性から一般の庶民に処することなど、おいそれとできるものではなかった。凡兆はそれが不満だった。
交易品が高いのは幕府の海禁政策のためである。海禁とは他国との外交を絶つ政策ではない。貿易による利益を幕府が独占する為の外交手段であり、その利益の犠牲になっているのが庶民なのだ。梅毒の治療に使う唐山帰来、癩病の治療に使う大風子、そして古来より妙薬として名高く、国内での栽培の試みが続けられている人参。世に出れば大いに人々の役に立つこれらの生薬も、「高価である」ただそれだけの理由で、求める人々が手にすることもなく薬種問屋の百味箪笥の中に眠っているのだ。それは人を助ける医者として凡兆には我慢ならないことだった。
そんな凡兆が安価な薬種を求めたのは無理からぬことであった。それがご禁制の抜け荷であろうことは凡兆自身にもわかっていた。しかし禁を破る後ろめたさよりも、多くの病人を助けたいという信念の方が遥かに勝っていた。
やがて密貿易は露見し、貿易商人は捕縛され、取引を行っていた凡兆も罪に問われることになった。それでも凡兆は持論を曲げなかった。むしろ我が国の病人を救済するために海禁を解くべしとの申し立てまで行う始末であった。去来を始めとする京の蕉門たちは救いの手を差し伸べようとしたが、幕府への恭順を一切見せない凡兆には、もはや為す術がなかった。こうして凡兆は数年間に渡って牢生活を余儀なくされることとなった。
「獄中では大して苦でもなかったわ。我ら言霊の俳諧師は一人でも吟詠境に遊ぶことができるのだからな。牢番には俳諧を嗜む者も居る。奴らはわしのことを獄中の俳諧師と呼んでおったわ、ははは」
それが空威張りにすぎないことは去来にも羽紅尼にもわかっていた。凡兆の言霊の力は明らかに磨り減っていた。猿蓑編纂当時の冴えは今や見る影もない。俳諧師としての凡兆はもはや終わってしまったのだろう、去来はそう感じた。
「これから如何なされるおつもりか、凡兆殿」
「京追放を受けておる故、ここには留まれぬ。妻と共に大坂へでも行こうかと思っておる。芭蕉翁が逝かれた地でもあるしな」
芭蕉逝去時、凡兆は既に投獄されていた。師の亡くなった土地を訪れることで師の影を偲びたいのだろう。蕉門とは疎遠になり、投獄されて他の門人から見放されても、芭蕉を慕う気持ちはまだ残っているのだ。そんな凡兆に胸を熱くした去来は深々と頭を下げた。
「羽紅尼様共々、健やかにお暮らしくだされ。京の地より祈念しておりますぞ」
「うむ、去来殿も達者で。では羽紅、参ろうか」
凡兆は羽紅尼の手を取ると歩き出した。が、すぐに止まり、去来を振り返った。
「そうそう、言い忘れておった。かつて去来殿と共に夢想しておった例の丸薬。やはり無理かと一旦は諦めかけたが、長きに渡る獄中生活のおかげで実現の目処がついた。これよりは丸薬完成目指して邁進する所存。去来殿、言霊となられた芭蕉翁をよろしくお頼み申しますぞ」
凡兆の去り際の言葉は去来を驚かせた。まさかあの丸薬を! 本当だろうか、これも空威張りにすぎないのではないか……羽紅を連れて去っていく凡兆を見送りながら、去来はその言葉の真偽を測りかねていた……
清清しい初夏の陽光の中、朽ち果てた本殿を取り囲むように、幾本もの竹が天を目指して伸びている。雑草生い茂る参道に散り落ちた無数の茶色の竹葉。そこに直接腰を下ろした三人は、慎重に刃物を扱う一人の男の手元を眺めていた。柿渋色の十徳を襷掛けにした剃髪姿の男は、掘り出したばかりの筍の皮を剥き、薄く切り分けていく。その手さばきに其角が感嘆の声をあげた。
「さすが、医術に長けておられるだけあって見事な所作。凡兆殿は料理人としてもやっていけるのではないかな。同じ医者でも、藪にもなれぬ竹の子医者の去来殿とは一味違う」
其角の言葉に去来が不機嫌な顔する。
「私は本道医ですからな。刃物は不得意でも仕方なかろう。もっとも刀ならば上手く扱えるがな」
「なるほど。竹の子の扱いは人の子よりも難しいと言うわけか。これはおかしい、わはは」
笑う其角を横目で睨みながら、去来は吟詠境に入った途端に脳裏に蘇った凡兆との会合を思い返していた。出獄したばかりの凡兆。あれが生前最後に見た姿だった。だが今、目の前に居るのは宿り手の面影を微塵も感じさせぬ、猿蓑編纂当時の若々しい姿だった。ここまで本来の自分を表現できるほど、今の宿り手は凡兆を深く理解しているのだ。そう思うと、去来は若干の羨望を覚えずにはいられなかった。
「あの、凡兆さん、初めまして」
三人の真ん中に座るショウが遠慮がちに声を掛けた。凡兆は軽く会釈をすると、薄切りの筍を皮に載せショウに差し出した。
「お久し振りでございますな、芭蕉翁、いや、今はショウ殿とお呼びすべきでしょうか。まずはこれをお召し上がりください」
筍の皮を受け取ったショウは、そこに置かれた筍を指で摘んで口に入れた。甘い香りが鼻をくすぐり、程よい歯ごたえとほんのりした苦味が心地よい。思わず漏れ出た「美味しい」という声に、其角は矢も盾もたまらぬ様子になる。
「凡兆殿、わしにも早ういただけぬか」
急かす其角に薄切りの筍を渡す凡兆。続けて去来が受け取る前に「旨い」と声を上げる其角。最後に去来がじっくりと味わうのを見届けると、何を思ったのか凡兆は残った筍を皮に包んで、掘り出した穴に捨ててしまった。驚く其角。
「凡兆殿、何故捨てられるのか。一切れでは物足りぬぞ」
「其角殿、この食べ方で一番旨いのは最初の一切れのみ。あとはえぐみが強くなって不味くなるばかり。捨てるより他にない」
「む……いや、しかしすぐに食べれば、それほど味は落ちぬだろう」
説明を聞いても食い下がろうとする其角を見て、まるで去来の宿り手のようだとショウは感じた。彼が其角の宿り手と妙に気が合うのは、共に食い意地が張っているからかも知れない。
「其角さん、吟詠境での食べ物の味は詠み手の想いに左右されることを忘れちゃいませんか。こんなに美味しいのは、宿り手のおじいさんが余程この食べ方が好きだからなんでしょう」
「そう、竹の子は我が宿り手の好物。そして食べさせたいのは最初の一切れのみ。二切れ目には我が宿り手の想いは込められておらぬ。恐らく極端に不味くなるはず。其角殿、諦めてくだされ」
「うむむ、そうか。ならばやむを得ぬな」
それでも名残惜しそうに捨てられた筍を眺める其角。駄々をこねる子供を諌める母親のような顔をして凡兆が手を差し出す。
「お三方、竹の子を載せていた皮を渡していただけぬか」
言われた通りに三人は筍の皮を渡すと、凡兆はまるで大切なものでも扱うかのように、丁寧に折り畳んで懐に収めた。筍料理を振舞って満足そうな凡兆を見て、今度はこちらの番とばかりに去来が凡兆に尋ねた。
「ところで、凡兆殿。私に渡したい物があると聞いておるのだが。まさかこの竹の子というわけではなかろうし、一体何であろう」
凡兆は襷掛けを解くと、居住まいを正して去来に向き直った。そのまま返事をせずに両手を合わせ、詞を発する。
「猿蓑!」
言い終わって開いた凡兆の手には、古ぼけた四つ目綴じの和本が載っていた。去来の目の色が変わった。
「これは、芭蕉七部集のひとつ、猿蓑。凡兆殿が持っておられたのか」
「僭越ながら我が手元にて預かっておった。ようやく去来殿にお返しできる。お役立てくだされ」
まるで長らく会わなかった旧友に出会いでもしたかのような感激に打ち震える去来。その様子を見てショウはややも不思議になった。猿蓑という本は知っているがただの句集である。去来がこれほど有難がるほどの物でもないはずだ。
「吟詠境で本を持つことに、何か意味があるのですか」
「それはわしが説明しよう」
熱心に和本をめくり始めた去来に代わって、其角が勿体振った口調でショウの問い掛けに答えた。
「吟詠境で我らが口にする発句は、基本的に己が詠んだもの。他人の発句も詠むことはできるが、己の発句に比べればその発現力は著しく低下する。そこで我らは他人の発句も己の発句の如くに詠む方法はないかと考えた。行き着いた結論が撰集を用いる方法であったのだ」
「句集を? どう使うのですか」
「これはただの書ではないのですよ、ショウ殿」
去来はようやく和本から目を離すと、手に持った猿蓑をショウに掲げた。
「この撰集に載せられた発句の作者一人一人が吟詠境に集い、己の発句を言霊の力に変えて一句ずつ練りこんで作り上げたのです。それ故、この書を手にした者は、ここに載せられた発句の全てを、己の発句と同じように詠むことができるのです」
「じゃあ、僕がその本を持てば、去来さんや其角さんの発句を使えるってことですか」
「左様。そして私や其角殿が持てば、芭蕉翁の発句を己の発句の如く詠めるのです。ただし、それは一度きり。他人の発句を詠めばただちに消え失せ、二度と詠むことは叶いません。我らは芭蕉翁の存命中にこのような撰集を七部作り上げ、芭蕉七部集として編纂に当たった門人に一部ずつ持たせたのです。無論、これは我らだけの秘密。蕉門以外の俳諧師には公にはしなかった、のですが」
言葉を切って去来に視線を移された其角は、まるで渋柿を食べさせられたかのような顔になった。苦々しげな口調で去来の後を継ぐ。
「どこから聞きつけたのか、旗本俳諧師の柳居の奴めが、事もあろうかこの七部をまとめて世に出し、言霊で練られた撰集の存在をぶちまけおったのだ。その頃には去来殿は勿論、蕉門の主だった門人は言霊となって封じられていた。わしや凡兆殿は宿り手の俳諧師となってはいたが、奴の企てを阻止出来なんだわ。以来、この七部集は全ての言霊の俳諧師から狙われ、その持ち主を隠すために完全に散逸してしまった。残り六部が誰の手にあるのか、今となってはわしらにもわからぬ」
なるほど、とショウは思った。撰集を持ちさえすれば誰でもその発句を詠める。一見便利なようだが、蕉門と対立する俳諧師の手に渡れば、これ程厄介なことはない。吟詠境では同じ発句や季の詞は一度読めば二度と詠めぬ。それは相手に詠まれれば、こちらが詠めなくなることを意味する。自分の戦略の幅を狭めるに等しい。よく凡兆が守り抜けたものだと改めて感心した。
「ところで、凡兆殿、先程調べてみたが、発句が所々抜けておりますな。これは貴殿が詠まれたのか」
去来の問い掛けに凡兆は苦笑いをした。
「すまぬな。去来殿と違ってわしは封じられなかった故、宿り主となったこの身を守るために、不本意ながら幾つかは詠ませてもらった。しかし、そのおかげでこうしてこの猿蓑を去来殿にお渡しできたのだから、まあ、大目に見てくだされ」
凡兆は坊主頭をパシリと叩くと、許しを請うように頭を下げた。自分のお得意の仕草を真似されて其角も苦笑いをする。そんな二人を見てショウも可笑しくなってしまった。
「でもそうなると、やっぱりこの本は凡兆さんが持っていた方がいいんじゃないですか。これからも本に頼らないといけない場面が訪れないとも限らないでしょう」
「いや、それは違う、ショウ殿」
そう言って自分に向けた凡兆の顔を見て、ショウはこの俳諧師の頑固な性格を垣間見た気がした。例え師の言葉でも己の意に沿わねば平然と否定する、そんな傲慢さが感じられる表情をしていた。
「わしは自分を長らえるために猿蓑を使ったのではない。猿蓑を長らえさせるために猿蓑を使ったのだ。書の持ち主たる言霊が消えれば、その所有物である書も消える。そうさせぬよう書を使って我が言霊を守り抜いた、ただそれだけのこと。蕉門の俳諧師たちの言霊の結晶である撰集を残す、それが我が目的。そして今、それは去来殿の元に戻り我が目的は達せられた。もはやわしにはその書は不要」
「不要なんてことないですよ。知っているはずですよ、芭蕉は再び宗鑑と相見えるために、門人の言霊を封じ自分の言霊も封じて、今に至っていること。凡兆さんも僕らに力を貸してください。そのためにも本を使って自分自身を守ってください」
「ショウ殿……」
凡兆は言葉を詰まらせた。同時にこれまでの頑なな表情が、少し緩んだようにショウは感じた。
「その言葉、芭蕉翁よりお聞きしたかった……わしは去来殿や其角殿とは違う。封じられもせず、預かり物を託されもしなかったわしは、芭蕉翁が頼りにする門人の数のうちには、最初から入っておらぬのだ。そして、我が姿を見ればおわかりであろう。我が言霊の力が尽きかけていることを。宿り手を替えながら数百年の時を経てきたわしには、もはや芭蕉翁のお役に立つだけの力は残されておらぬ。この猿蓑にわしの分まで働いて欲しい、そう願うばかりなのだ」
それはショウにもわかっていた。凡兆の言霊の力は今の自分よりも遥かに弱い。この吟詠境で季の詞を発することすら、今の凡兆にとっては大きな苦難に違いない。筍料理の振る舞いも、久し振りに出会った師と言葉の掛け合いをできない凡兆の精一杯の持て成しだったのだろう。封じられずに時を過ごした言霊の、ひとつの宿命を目の当たりにして、ショウはただ顔を伏せるしかなかった。




