小さな疑念
「珍しいですな、朝には強い子なのですが。お待たせしてすみませんね」
申し訳なさそうなおじいさんの顔。朝食の席に着いている僕は、とんでもないと両手を振った。
「いえいえ、昨日は僕が迷惑を掛けてしまいましたから。これでお相子ですね」
とは言うものの確かに珍しいことだった。父つぁんの性格として人に迷惑を掛けるのを嫌う傾向があるのは、これまでの付き合いでおぼろげにわかっていた。寝坊のせいでみんなの朝食を待たせている今の状況は、父つぁんらしからぬ振る舞いである。ただ、そのせいで昨日の僕の失敗の印象が薄れたかな、と思うと少し気が楽になった。
横に座っている先輩は目を閉じてじっとしている。食べる速さは風の如く、食べる静かさは林の如く、食べ尽くすこと火の如く、食べるのを待つ間は山の如く動かない。食の風林火山を自認する先輩らしい落ち着きである。
そんな先輩を眺めながら、もう一度今日の予定を頭の中で確認することにした。蕪村さんに教えてもらった住所に行くのは午前中。先方が午後より午前を希望したため、そうなったのである。行くのは僕と先輩とソノさんの三人。その他の者は別行動。ここまでは出発前に先輩とソノさんの話し合いで決まっていた。飛び入りとなったコトは元々来るつもりではなかったし、用があるのはあくまで去来なので僕らとは別行動になった。コトの母親は気を遣って今日は一人でのんびり過ごすとのことだ。僕らを除く五人は、午前中は美術館を見学するつもりだと言っていた。なんでもテーマパークのような面白い美術館があるらしい。
昼食はどうなるかわからないから未定。こちらの用が済み次第、連絡を取り合って一緒に食べるか別々に食べるか決める。午後は合流して八人で観光地を見物、特に芭蕉の足跡などを訪ねて回りたい、と思っていたのだが、昨晩、寝る時になって先輩から予定の変更を告げられた。
「父つぁんの希望でな、午後は総合体育館で開催される地元の高校の剣道大会を見学しに行くことになったんだ」
それは花火見学を打ち切って、母屋で甘エビの頭の唐揚げを食べていた時に突然言われたらしい。中間試験が終われば自分たちも高校総体予選が始まるから、参考までに見ておきたい、父つぁんはそう提案したそうだ。
父つぁんの剣道部入部は自発的ではなく先輩の少々強引な勧誘によるもの。なのに剣道の試合を見ておきたいとは、なかなか勉強熱心ですねという僕の感想に返ってきた先輩の言葉は驚きだった。予選の団体戦には父つぁんを補欠で参加させる予定なのだそうだ。
中学は水泳部、高校に入っても筋トレばかりで、体育の時間以外は竹刀を握ったことのない一年生を、補欠とはいえ参加選手にするとは無茶振りにも程がある。が、それは同時に剣道部の人材の少なさの証明ともなる。なんでも参加予定の三年生が急遽出場を見送ったため、やむを得ず父つぁんを補欠に加えた、とのことだった。
「補欠だから実際に試合に出ることは恐らくないと思うんだが、大会の雰囲気くらいは事前に知っておきたいだろうからな。一緒に行くことにしたよ。午後からは俺の分までこの土地の芭蕉の足跡を見ておいてくれよ」
そう言う先輩の顔には「なんなら、お前も一緒に剣道の試合を見に来てもいいんだぜ」という文字がクッキリと浮かび上がっていた。さすがにそれは遠慮したのいで、「わかりました。しっかり見てきます」とだけ言っておいた。
それにしても父つぁんはそんなに剣道の見込みがあるのだろうか。先輩にその点を尋ねると、父つぁんの体はボディビルダー並に筋肉が発達しているらしい。と同時に胸毛も相当生い茂っているそうだ。
「他の一年生と比較すると際立っていい体をしているからな。剣道にはさほど筋力は必要ないが、瞬発力や持久力を考えるとあって困るもんでもない。ただ剣道をやらせておくには勿体無い鍛え方なんだ。あのまま水泳部にいても結構活躍できたんじゃないかと思う。で、俺なりに色々考えてみたんだが、やっぱり原因はあの胸毛なんだろうな。多感な十代にはちょっと恥ずかしいほどの剛毛だ。まあ、剃ればいい話なんだろうけど、そんな事に時間と気を遣うのが嫌なんだろう。それに腕毛やスネ毛も濃いからそっちのケアもある。なるべく肌の露出が少なくて済むスポーツを探して、結局剣道部に落ち着いたってところなんだろう」
確かに他のスポーツと違って剣道は重装備だ。あれだけ体を覆われてしまえば性別さえも判別不能になってしまう。夏でも濃い体毛を気にせず動き回るには好都合のスポーツと言える。先輩の推理は多分正しいのだろう。
もっとも、濃い髭と体育の時間に見える腕毛から、胸毛の存在は僕にもある程度予測できていた。先輩の言葉から察するに、どうやら予想を遥かに超える剛毛のようだ。これで夏のプールの授業と、夏休みのスイカ収穫のお手伝いに伴う海水浴が俄然楽しみになってきた。ソノさんがキャアキャア言いながら触りまくるような気がするなあ。
昨晩の出来事をそこまで思い返したところで足音が聞こえてきた。
「おはよう、遅れてすみません」
父つぁんが決まりの悪い顔をして入ってきた。座卓を挟んで先輩の正面に座る。待ちかねたようにご飯と味噌汁が配られると、さっそく朝食が始まった。出された味噌汁には昨日の甘エビの頭も入っている。思ったよりも出汁が出てよい風味だ。殻だからと言って無闇に捨てちゃいけないな。食べ残しのエビフライの尻尾も、砕いておにぎりの具にすればいけるかも知れない。新作おにぎりへの創作意欲をいやが上にも掻き立てられる本日の味噌汁に感謝である。
「あ、お代わりお願いします」
こちらがまだ半分も食べていないのに、先輩は二杯目のご飯をご所望である。昨日と違ってすぐにお代わりを申し出たところを見ると、どうやら本日は、新屋で女子部隊が食べているであろう洋風朝食には未練はないようだ。
「ところで、父つぁん……」
言い掛けた先輩の言葉が止まった。横を見ると、右手に箸を持った状態で父つぁんを見ている。
「あ、はい。何ですか、ライ先輩」
父つぁんが返事をしても先輩は何も言わない。じっと父つぁんを見詰めている。山盛りに盛られた二杯目の茶碗を受け取っても、それを持ったまま、見えない何かを見ようとしているかのように父つぁんの顔に視線を集中させている。どうも様子が変だ。
「先輩、どうかしましたか」
「ん、うん……なあ、ショウ」
今度は僕を見る。見たまま何も言わない。こんなにはっきりしない先輩も珍しい。
「何ですか?」
「……い、いや何でもない。すまんな、気のせいだ」
先輩は茶碗を置くと、父つぁんと連絡の仕方について話し始めた。今日は公共の場所や交通機関を利用することが多くなる。そんな場所では基本的に携帯の電源をオフにするので、返事が遅くなっても気にしないでくれ、そんな内容の話だった。彦根で駐車場探しに苦労したこともあって、今日はソノさんの車ではなくバスと電車で先方に向かうことにしていた。訪問先でも吟詠境をどれくらい開いているかわからない。携帯に着信があってもすぐには対応できないだろう。
「わかりました。でも、それはこちらも同じですからね。お互い、気長に待ちましょう」
父つぁんが快諾したので、先輩はすぐに二杯目のご飯を食べ始めた。ただ、その勢いが一杯目ほどにはない。喉に魚の骨でも引っ掛かっているんじゃないかと思われるほど緩慢な食べ方だ。常人並みのスピードで食事をする先輩、それは珍しい光景ではあるが、僕はどこかで同じ姿を見たような気がした。つい最近、確か……そうだ、コトと一緒に初めて牛丼を食べた時。あの時の先輩も今と同じように勢いのない食べ方だった。何か気になることでもあるのだろうか。
「あの、先輩。今朝はなんだか元気ないですよね。どうかしましたか」
「ん、そんな事ないぞ。それよりも無駄口叩いてないで早く食えよ。俺たちは早目に出発するんだから」
言葉とは裏腹に、やはり先輩には何か気懸かりがある、僕はそう感じた。だが、先輩がそれを否定するのなら、これ以上の追及はしない方がいい。僕はもう何も言わずに今日の朝食を片付けることにした。
蕪村さんに教えてもらった住所は市街地の駅から更にバスで数十分の郊外にある。僕らの時間に合わせて全員一緒に出掛けると、別働隊は美術館の開館時間よりもだいぶ早く着いてしまうので、別々に出発することになった。朝食と身支度を済ませて屋敷の外で待っていると、新屋からソノさんが姿を現した。
「おはよう、今日も晴れそうでよかったわね」
ソノさんの明るい声と陽気な笑顔。が、歩き方が少しぎこちない。ピンときた僕は、いつもからかわれている仕返しをするのはここぞとばかりに、ソノさんに言ってやる。
「ふっふ、ソノさん、昨日の畑仕事で筋肉痛になったんでしょう。もう若くないんですから無理しちゃ駄目ですよ」
ソノさんは一瞬ギクリとした表情を見せたが、僕の冷やかしなぞどこ吹く風という顔をして言葉を返した。
「あら、ばれちゃった。でもねショウちゃん、逆よ。翌日に筋肉痛になるんだから、あたしはまだまだ若いってことなのよ」
「まあ、年を取ると痛みが出るのに数日掛かるって言うからな」
また、先輩はどうしてソノさんのフォローに回るんですか。ここはツッコンで欲しかったなあ。もう少しでソノさんの白旗万歳姿が拝めたのに。
「それよりお前の筋肉痛はもういいのか」
「やだショウちゃん。筋肉痛を起こしてるの。若くないのはあたしじゃなくショウちゃんの方だったりして」
薮蛇である。切りつけたはずの刃がこちらに返ってきてしまった。この二人は変な所で息が合うから困る。
「さあ、じゃあ出発しましょうか」
こうなってはさっさとこの話題から遠ざかるのが一番だ。僕はスタスタと歩き出した。後ろからソノさんのクスクス笑いが聞こえる。今日もソノさんのオモチャにされるのは間違いなさそうだ。
屋敷を出た僕らは父つぁんに教えてもらった通り、バスに乗り、電車に乗り、またバスに乗って郊外の町にやってきた。ここからは地図を頼りに目的地を探す。区画整理のされていない入り組んだ町並み。しかも初めて足を踏み入れる土地ということもあって、少々不安ではあったが簡単に見つかった。
「やっぱり医者か」
地図を頼りにたどり着いた僕らの目の前には、古びてはいるもののしっかりした造りの木造家屋と、消えかけた文字で黒く「医院」と書かれている風化しかかった木の看板。前もってネットで住所を検索して地図を作成していたソノさんから、どうやら目的地は病院のようだと事前に知らされていた。一般住宅とは違うので初めての土地でも容易に見つけられるだろうとの予想が見事に的中した形だ。そこは屋敷の一部を診療所にしている個人経営の病院だった。
「そうね。でも、もう診察はやってないみたいね」
祝日だからという理由だけでなく、建物自体に活気がない。文字が消えかけた看板以外は診察内容や時間を記したものがない。ソノさんの言葉通り、もう何年も病院としての機能は果たしていないようだった。
呼び鈴を押すと、インターホンから老女の声が聞こえた、用件を告げた後、玄関に姿を現したのは声に相応しい齢を重ねたおばあさんだった。愛想よく挨拶をされ中に入る。通された部屋には中央にベッド。そしてそこには上半身を起こし、一目見て病人であることがわかるほど、痩せて蒼白い顔をしたおじいさんが座っていた。
「遠い所をよくおいでくださった。どうぞ、お掛けください」
ベッドの前にはテーブルと椅子が三脚置かれている。僕らは簡単な挨拶をして腰を掛け、テーブルを挟んでおじいさんと向かい合った。先程のおばあさんが麦茶と茶菓子を持って入ってきた。すぐに出せるようあらかじめ用意してあったのだろう、良く冷えた麦茶は渇いた喉に嬉しかった。出された茶菓子をつまみ一息入れたところで、先ずは先輩が口火を切った。
「こんにちは。今日はお招きいただいてありがとうございます。住所と医者であることから、大よその見当はついていたのですが、やはりあなたでしたか」
「ご無理を言ってすみませんな。本来ならこちらから出向くべきなのでしょうが、ご覧のように半分寝たきりでしてな。お手数をお掛けしました。しかし、まさか其角殿までご一緒くださるとは」
「初対面ですが、其角としてはお久し振りですね、凡兆さん」
先輩もソノさんも相手の言霊に向かって話をしている。そして僕にも見えていた。影は薄いが目の前のおじいさんは間違いなく言霊の宿り手、その宿り主は野沢凡兆。北枝ではなくこの凡兆を十哲に数える者も居るくらい、蕉門の中で特に非凡な才に恵まれた俳諧師である。
「そして、芭蕉翁。お懐かしゅうございますな」
僕に向かって言ったおじいさんの言葉にはさすがに照れてしまった。自分では芭蕉の自覚が全くないので、ちょっとこそばゆく感じる。
「あ、はい。でもまだ完全な宿り手にはなっていなくて、吟詠境でもこの姿のままなんです」
「はは、そうでしょうな。他のお二人に比べると際立って力が弱い。芭蕉翁の酔狂も相変わらずですな。ははは」
上げて落とすとはこの事か。先程こそばゆく感じた自分が情けなくなる。蕪村さんも同じようなことを言っていたし、酔狂なのはこのおじいさんも似たり寄ったりな気がする。
「ですが、去来殿と其角殿を得られれば心強いでしょう。他の門人も早く見つかるといいですな」
「あ、実は許六と寿貞尼は既に見つけているんです。今日は事情があって来られませんでしたが。えっと、それから杜国も見つけた、かな」
「ほう、あの杜国殿を……」
おじいさんの声が低くなった。どうやら凡兆も他の門人同様、杜国を好ましくは思っていないようだ。言わない方がよかったのだろうか。
「それで、杜国殿の吟詠境には行かれたのですか」
戸惑い気味の僕は「あ、はい」とだけ答えた。おじいさんの表情が少し険しくなる。
「芭蕉翁の姿すら得ていない今のあなたでは、随分と骨が折れたでしょう。よくぞ無事に戻って来られたものですな」
「え、ええ。許六の短冊とこの二人の力で、宿り手に封じ込めました」
「なるほど、そうですか、それはよかった……ゴホゴホ」
おじいさんは急に咳き込むとベッドの脇にある吸入器を口に当てた。しばらく深呼吸を繰り返した後、吸入器を外して蒼白くなった顔をこちらに向けた。
「失礼。人と話しをするのは久し振りで、体が驚いてしまったようです。無駄話はこれくらいにしてそろそろ吟詠境に参りましょうか。凡兆も皆さんと話がしたくてうずうずしておりますでな」
おじいさんの背筋が伸びた。その瞳には今までとは違う力強い輝きが宿っている。濃さを増した凡兆の影を感じながら、僕の中の言霊は詠まれたばかりの凡兆の発句に声を合わせていた。
「竹の子の力を誰にたとうべき……」




