彼女の呼び名
境内を取り囲む桜は既に満開、その中でも一際目立つ大木が鐘楼堂を包むが如く枝々に薄桃色の花を咲き誇らせている。時折吹く風にはらはらと花びら舞う参道に、玉砂利踏みしめて立つ男が二人。一人は和服の町人姿、もう一人は制服を着た少年、ショウである。激変した周囲の情景と目の前に立つ見知らぬ男の登場に、ショウは戸惑うばかりだった。
「こ、これは一体」
「なるほど、気配がほとんどなかったのはこのような理由であったか。姿ばかりか意識までも現し身のままだとはな。まあ無理もない。芭蕉翁の言霊を完全に宿すには、お主は小者過ぎるからのう、ショウ殿」
「ここはどこなんだ、そしてお前は何者だ」
不安気な表情ながら、気丈に振舞おうとするショウを見て、町人姿の男は薄ら笑いを浮かべた。
「ふっ、ここに来るのが初めてでは、その有様も仕方あるまいな。ここは吟詠境、発句によって開かれた連歌の座。そしてその発句をお主と共に詠んだのは、作者たるこのわし。号を維舟と言う。お主が部長と呼ぶ男に宿る言霊よ」
ショウは維舟を見た。姿も声も部長とは似ても似つかないが、顔や髪型は部長そのままだ。
「それで、僕をこんな所に連れてきて何をするつもりなんだ」
「知れたこと。俳諧師が座に着けば、言葉のやり取りをするしかないであろう。連歌の座といえども、ここには式目の縛りはない。脇でも第三でも季の詞でも好きな言葉を詠めばよい。さあ、お主の番だ」
ショウは頭をフル回転させていた。維舟の言葉、本で読んだ俳諧の知識、そして以前まで見ていた様々な夢の内容。あの夢の中の二人は確かに言葉を掛け合っていた。そして今、自分の番だとこの男は言っている。何を言えばいいのかわからないが、何か言わなければ事態は進展しないようだ。ショウは覚悟を決めた。脇、第三は思い浮かばない、だが季の詞、きっと季語のことだろう。ならばあの言葉しかない。
「さ、桜!」
ショウの言葉と共に数枚の桜の花びらがチラホラと舞い落ちてきた。そして、それだけだった。桜の木を見上げるショウの気抜けした顔を見て、維舟が大声で笑う。
「ははは、これが芭蕉翁の言霊の宿り手とは笑止千万。この吟詠境で最も力のある季の詞でさえこの程度とは、なんと情けないことよ。よいか、季の詞はこのように使うのだ」
維舟は傍らの木に右手を伸ばすと、満開に咲いている桜の枝をポキリと折った。そして花びらを散らしながら顔の前に枝を据えると、気合いを込めた一声を発した。
「花!」
枝の花びらが一斉に散り、枝に咲いていた何百倍もの花びらが強風に乗ってショウを襲った。たまらず両手で顔を覆うも花びらの勢いは防ぎきれず、後ろへ仰向けに倒された。かろうじて両手で受身を取ったので頭は打たなかったが、尻をしたたかに打ち付けてしまい、すぐには起き上がれない。痛みに呻き声をあげるショウの側へ維舟はゆっくりと近寄った。
「芭蕉翁との手合わせとあって大いに楽しみにしていたのだが、実に残念至極。かような若輩者であったとはな。宿り手として似つかわしい者は他にも大勢居ろうものを、何故このような御仁を選ばれたのか」
維舟は倒れているショウの上に身を屈めると、右手をショウの胸に置いた。
「これ以上の言葉の掛け合いは無意味。なればお主の言霊の力、貰い受けるといたそうか。芭蕉翁の言霊なれば、我が言霊の活力は十分に取り戻せよう」
何かに集中するように維舟の目が閉じた。言霊の力を奪われたらどうなるのかショウにはわからなかったが、本能的にそれを避けようとする意識が働いた。両肘に力をこめると、ショウは地面を這って逃げようとした。しかし胸に置かれた維舟の右手は石のような重さで体を押さえつけている。カッと維舟の目が開き、その口から言葉が出ようとしたその時、
「お待ちなされ」
誰かの声、それも女の声がした。ショウと維舟が声のした方に目をやると、そこには一人の尼僧が立っていた。黒い真衣に輪袈裟を付けているが帽子は被らず長い黒髪が背中まで伸びている。その尼僧の顔を見てショウは我が目を疑った。野武士にそっくりだった。
「維舟殿、ここまでにして退いてはくださらぬか」
思いがけぬ人物の登場に維舟は顔を曇らせた。ショウの胸から右手を離し、ゆっくりと立ち上がると、尼僧に向かい合った。
「お主、俳諧師ではないな。何故ここに来られる。それに、その尼僧姿……」
訝しげに尼僧を見詰める維舟は、ふと、何かを合点したようだった。その顔に不敵な笑みが浮かんだ。
「そうか、あの女がお前か。言霊の正体すらわからなかったが、今ようやく合点がいった。あの時、吟詠境が開かなかったのは、お主が俳諧師ではなかったから。のう、そうじゃろう、寿貞尼殿よ」
寿貞尼の眉がピクリと動いたのを見て、維舟の言葉は正しいのだろうとショウは感じた。そして維舟の言うあの女とは野武士以外に考えられなかった。それはショウにとって驚きであると同時に、心嬉しいことでもあった。理由はどうあれ野武士がここに来てくれたのだから。維舟の右手の束縛から解放されたショウは立ち上がった。寿貞尼は維舟の言葉に耳を貸さず、再度の懇願をする。
「退いてくだされと申しておるのです、維舟殿。既にそなたの言霊の力が尽きかけているのはわかっております。こうして吟詠境を維持するだけでも精一杯ではないのですか。これ以上の力を使うのは無意味」
「なればこそよ。尽きかけた力のために力を使い力を奪う、言霊として当たり前のことではないか。丁度よい、お主の力から先にいただこうか。季の詞を詠めぬお主なぞ、この小僧よりも容易い相手。先ずは季の詞で動きを封じてやろう。覚悟せい」
維舟は両手を合わせ目を閉じた。それを見るや寿貞尼は手にした数珠を握り締め目の前に掲げると、大声で叫んだ。
「無季!」
「むっ!」
閉じた目を開いた維舟は何か言おうとしているかのように口を開けてはいるが、言葉は発せられない。やがて観念したように維舟は組み合わせた両手を解いた。
「なるほど全ての季の詞を無効にしたか。そんな業を持っているとはな。だがそれは束縛詠、縛っている間、言霊の力は消耗される。長くは持つまい」
寿貞尼の顔が次第に青ざめていく。ショウはふらつきながら彼女に近付いた。何もできないことはわかっているが、せめて側に居たかった。ショウの気配に気づいた寿貞尼はか細い声を出す。
「ショウ殿、季の詞を発してくだされ。俳諧師でない私にはできぬのです」
「いや、でも僕は、」
寿貞尼の必死の言葉に、否定的な返答しかできない自分を情けなく感じながら、ショウは自分の非力を説明する。
「僕の季の詞は弱すぎるんだ。花びらを散らすくらいしかできなくて」
「なれば私に発句を与えてくだされ。さすれば私にも発することが叶います。お急ぎくだされ、この宿り手の初めての吟詠境ゆえ力を十分に出せぬのです。もう長くは持ちませぬ」
ショウの頭は混乱していた。発句、普通の句でいいのだろうか。だが何を詠めばいいのだろう。咄嗟に言われても何も出てこない自分の頭に苛立ちを感じるばかりだ。維舟はそんな二人を黙って眺めている。急ぐ必要はない、この縛りが解ければ、この二人の言霊の力を奪うのは実に容易いこと、こうして待っているだけでよいのだ。
「ショウ殿、早く!」
寿貞尼の体が力なく崩れると、その両膝が地に着いた。だが崩れ落ちるその刹那の声は、ショウの奥底にある何かに触れた。不意に、ひとつの句がショウの口をついて出た。
「花の雲鐘は上野か浅草か」
「解けた!」
縛りの消失を感じ取った維舟が再び手を組み合わせた瞬間、桜が満開の境内に梵鐘の音が響き渡った。何事か、と維舟は境内に視線を巡らした。鐘楼堂の吊り鐘は微動だにしていない、しかし鐘の音は周囲に満ちている。ハッとして視線を元に戻した維舟の目に、立ち上がって数珠を握り締めた寿貞尼の姿が映った。
「維舟殿、お覚悟召されよ」
寿貞尼の後ろに立ち、抱きしめるように前に回されたショウの両手が、握り締めた数珠の上に重ねられた。そして声を合わせてひとつの季の詞が発せられた。
「花の雲!」
鐘楼堂の傍らに立つ桜の大木の花が一斉に散ると、寿貞尼とショウの頭上に集まり出した。あたかも雲の塊のようになった花びらの一団は、獲物を補足した鷹の如く、猛烈な速さで維舟を襲った。維舟は即座に身構えると大音声で季の詞を叫ぶ。
「花散る!」
維舟の前面に一陣の風が舞い上がると、目前に迫った花びらの一団に竜巻の如く吹きかかった。だがそれは塊の周辺の花びらを吹き散らしたにすぎなかった。勢いは衰えることなく維舟に襲い掛かる。
「うおっ!」
無数の花びらに取り巻かれた維舟はそのまま体を持ち上げられ、本堂の壁面に叩きつけられた。そのまま力なく地に伏した維舟の体には、今は動きを止めた桜の花びらが、薄桃色の掛け布のように覆いかぶさっている。ショウと寿貞尼は側へ駆け寄った。維舟の体の輪郭がぼやけている。消えかかっているのだ。
「維舟殿、今の詠唱で力を使い果たされたか。さればこそあれほど申し上げたものを」
寿貞尼の言葉に維舟は力なく首を振る。
「いやいや、この宿り手は既にわしへの関心を失い始めておった。この座を開かずとも、遅かれ早かれ消え去る運命であったのよ」
ショウには事態が飲み込めていなかった。なぜこうまでして力を奪おうとするのか、なぜ今、消えようとしているのか。そして、桜の花びらに包まれた維舟に対して、先ほどまでの恐れは消え、別離の悲しみが湧き始めていた。自分を見詰めるショウに気づき、維舟は口元に笑みを浮かべた。
「そんな顔をなされるな、ショウ、いや芭蕉翁。最期に翁と言葉を掛け合うことができたのは望外の喜びであった。その力、大切になされよ」
維舟の言葉にショウは何も言えず、ただ頷くだけだった。
「もはや挙句を詠ずるまでもあるまい。わしの力が尽きると共に、この吟詠境も消え去ろう。されば、長かった漂泊の身に別れを告げ、永久の眠りにつくとしようぞ」
維舟が目を閉じると、体を覆っていた桜の花びらが一挙に舞い上がった。それはまるで春の明るい日差しの中を舞う花吹雪のようだった。ショウと寿貞尼は乱舞する花びらの美しさに心奪われ、しばしの間、見惚れていた。
気がつくと正面に部長が居た。顔を机に伏せて眠っている。どうやら僕も眠っていたようだ。頭がぼんやりする。今のは夢? これまで見てきたのと同じ、ただの夢だったのだろうか。傍らに誰かの気配がする。見上げると見慣れた顔が僕を見下ろしている。野武士だ。
「う、ううーん」
部長が目を覚ましたようだ。寝ぼけたような眼でキョロキョロと部屋の中を見回している。
「ここは、準備室。あれ、どうしてこんな所に居るんだっけ」
忘れてしまったのだろうか、とりあえずフォローを入れておこう。
「えっと、明日からはもう部室には来ないって話をしていたんです」
「ああ、そうだった。すまないね、部長なのにちょっと無責任かもしれないけど。あれ、ああ、君も来ていたんだ。ごくろうさん」
僕の傍らに立つ野武士に気づいた部長が声を掛けた。しかし野武士は何の返答もせず黙っている。やはり彼女も覚えていないのだろうか。それとも今見ていたのは、本当は僕一人だけで、他の二人とは関係なかったのだろうか。僕は恐る恐る部長に尋ねてみた。
「あ、あの部長、今、夢みたいなものを見ていませんでしたか?」
「夢? そう言えばなんだか桜の木の下で、誰かと、そうだショウ君、君とそれからもう一人、そうだ、尼さんと言い争っている夢を見ていたような気がするよ。おかしなもんだね」
「それだけ、ですか?」
「それだけって、まあ、他にもあったかも知れないけど、もうよく覚えてないよ」
「そうですか」
ここまで内容が一致するのだからあれは僕一人だけの夢じゃない。でもどうして部長の記憶は曖昧なんだろう。僕はしっかり覚えているのに。
「維舟」
突然、野武士が声を出した。
「維舟って、覚えていますか?」
「ああ、松江重頼の号だろう。よく知ってるね。まあ、先週は俳句の話が出たからショウ君にその人を紹介したけど、実は最近は短歌の方に興味があるんだ。受験対策としても俳諧より短歌の方が重要度が大きいしね。でも、それがどうかしたのかい?」
「いえ」
野武士はそのまま黙ってしまった。部長は拍子抜けしたような顔をして席を立った。
「それじゃ、僕はこれで失礼するよ。もしかして新入部員歓迎会とか期待していたのならごめんね。本当にウチは帰宅部クラブだから」
部長はそう言って準備室から出て行った。野武士は相変わらずだ。出て行くでもなく、何か言うでもなく、ただ僕の横に立っている。これまでの経験から野武士と会話すれば散々な目に遭うことは十分承知しているものの、いつまでも黙っているわけにもいかない。彼女に聞きたいことは山ほどあるのだ。僕は思い切って口を開いた。
「あの、君は覚えているの?」
「覚えているわ」
「部長はほとんど忘れているみたいだったけど」
「宿していた言霊が消えたからでしょう、きっと」
言霊! その言葉を聞いたのは初めてだった。いや、正確には現実の人間の口からその言葉を聞いたのが初めてだった。夢の中では散々聞かされた言葉だが、それはこれまで僕の頭の中にだけ存在する言葉だったのだ。だが今、野武士はその言葉を喋った。やはり彼女は何かを知っている、それもきっと僕よりも多くのことを。僕は立ち上がって野武士に向かい合った。
「ねえ、教えてくれないか。さっきのあれは何だい。部長や君の姿は変わっているのに僕だけ僕のままだし、それに、言霊とか力とか季の詞とか、一体何が起こったんだ」
「少し落ち着いてくれないかしら」
野武士の冷静さは天下一品だった。こんな時でも動じることなく表情も変えず、いつも通りの口調で話す。
「聞きたいのはこちらも同じ。私にとっても初めての体験だったのよ」
「でも、君は僕を助けに来てくれたんじゃ」
「勘違いしないでちょうだい。あなたを助けたのは、あの尼さんよ。私じゃないわ」
「そしたら、君はどうやってあそこに来たんだい。来る方法を知っていたんじゃないのかい。それに先週、部長に気をつけろって忠告してくれたのは、どんな意味があったんだい」
「以前、私もあの部長に維舟の句を詠まされたことがあったのよ。先週のあなたと同じようにね。でもその時は何も起こらなかった。今日はあなたたち二人が向き合って座っているのを見て、試しにその時と同じ句を詠んでみたのよ。そしたらあの場に入ることができた。もっとも句を詠んだのは私ではなくあの尼さんだったのだけれどね。今の私にわかるのはそれだけ」
「それだけって……」
野武士の説明は明瞭ではあったが、知りたいことは何もわからなかった。何の推測も無く、ただ淡々と自分の身に起こった事実を語っただけで、その原因や理由は不明のままだ。僕は少し苛立ってきた。
「だから、どうして僕たちにそんなことが起こるのか、それが知りたいんだよ」
「さっきの言葉、もう忘れたのかしら。聞きたいのはこちらも同じ。私だって知らないことだらけなのよ。でもいいじゃないの、理由なんかどうでも。あんなの、夢と大差ない出来事で、現実世界には何の支障もないんですもの。放っておけば言霊なんか消えてしまうんじゃないのかしら、あの部長みたいに」
確かにその通りではあった。たまたま同じ夢を三人で見ていただけ、それだけのことなのかも知れない。夢ならば夢の理由を追い求めることには意味が無い。夢とは元々理不尽なものなのだから。野武士にそう言われて、僕はこれ以上言うべき言葉を見失ってしまった。
「それにしても」
僕が黙ってしまったのを見て、野武士が見下したように言う。
「あなた、情けなかったわね。現実だけでなく夢の中でも腰抜けだなんて。もしかしたらヘタレ願望でも持っているのかしら。あんな調子なら、あなたの言霊が愛想を尽かしてどこかに行ってしまうのも時間の問題ね」
この言葉は僕の中の反抗心を奮い立たせはしたものの、言い返す言葉は見当たらなかった。同じことを僕自身も感じていたからだ。あの二人に比べて自分の無力さは自己嫌悪に陥りそうなほど不甲斐ないものだった。完全に言葉を失った僕を哀れむように眺めながら、野武士は部屋を出て行った。一人残されて、もう一度椅子に腰掛けると、僕は今までの出来事を振り返った。しばらく見続けた奇妙な夢、さっき三人で見た夢のようなもの、野武士の言葉、桜の木の下で会った老人の言葉。
「そうだ、あのおじいさん」
昨日会った老人。確かあの老人は別れ際、僕に芭蕉の句を詠ませたのだ、まるでさっきの部長みたいに。もしかしたら何か知っているかもしれない。僕は準備室を飛び出した。会えるかどうかわからないが、とにかくあの川べりに行ってみようと思った。
老人に出会った場所は学校からだと家よりは大分近くなる。日頃の運動不足のせいで、ほとんどジョギング並みの駆け足しかできなかったが、まだ日が明るいうちに川べりに着けた。夕日を浴びて立つ桜の木の下にあの老人は居ない。木を離れて辺りを探してみるが見当たらない。やはり休日の午前中しか居ないのだろうか。諦めて帰ろうとすると僕の背後から声がした。
「また会いましたな」
振り向くと昨日の老人だった。あんなに探しても見つからなかったのに一体どこから現れたんだろうと不思議に思ったが、今はそんなことを訊いている場合ではない。僕は「こんばんは」と挨拶してから早口でまくしたてた。
「あ、あの言霊って何ですか、季の詞とか、力を奪うとか、それから夢のような場所、確か、」
「吟詠境、じゃな」
「そうそう、それです。知っているんですね。教えてください。あれは一体何ですか。何が起きているんですか」
「そうか、あそこに入ったのか。さて何から話せばよいのか」
老人はそう言いながら、少し離れた土手にある、花見や夕涼み用に町が設置したベンチに向かって歩いて行きそこに腰を下ろした。僕も同様に老人の横に座る。老人は遠い目で、陽が傾き始めた空をしばらく眺めていた。やがてポツリポツリと話し始めた。
「本来なら言霊が宿った時点である程度わかるのじゃ。言霊の記憶が宿り手に流れ込むからな。じゃが、お前さんの状態ではそれもないようじゃの。まあ、それほど難しい話でもない。お前さん、夢で見たであろう、俳諧連歌の祖、山崎宗鑑殿を」
宗鑑……確か夢の中で芭蕉と言い争っていた人だ。僕は頷いた。老人はそれを見て頷くと、また話し始めた。
「連歌とは数名の者が一堂に会し、上の句と下の句を詠み継いでいくもの。宗鑑殿はこれに滑稽さを加え、より気軽に楽しめるようにしたのじゃが、更に大きな改新を施された。一同の意識をひとつにまとめ、現世とは別の夢幻の境地に導き、そこで連歌の座を開く、吟詠境の構築じゃ。そこでは言葉、特に季の詞が目に見える形で現れる。お前さんも体験したじゃろう。まず発句を基礎として吟詠境が開き、続いて詠まれる季の詞が、その想いの通りに具現化する。宗鑑殿がその業をどうやって身に付けたかはわからぬが、とにかくこれは連歌を嗜む者にとっては大きな驚きじゃった。宗鑑殿はこれを言霊の業と名付け、吟詠境に現れる意識を言霊と呼んだ。良い言葉は良い事を招き、悪い言葉は悪い事を招くという言霊信仰になぞらえたのじゃろう。もっとも、それができるのは最初は宗鑑殿ただお一人、業を持たぬ他の者たちは吟詠境に招かれても、ただその業を見て感心することしかできぬ。当然誰もがその業を持ちたがる。宗鑑殿は業を与える試練として両吟百韻連歌を課せられ、お眼鏡に叶った者のみに業を与えられた。じゃが、そうして新たに言霊の業を得た者は、宗鑑殿のように他の者にその業を与えることはできなかった。付与の能力は宗鑑殿のみしか持ち得なかったのじゃ。その結果、多くの者が宗鑑殿の元に押し寄せた。その多さに辟易した宗鑑殿は結んだ庵を一夜庵と称して、一晩泊まりの長居の客を嫌うほどじゃった。こうして言霊の業を持つ者は世に多く生み出され、言霊の俳諧師と呼ばれるようになった。ひとたび言霊の俳諧師になれば、己一人でも吟詠境に入れる。傍から見れば眠っているか瞑想しているようにしか見えぬが、心は吟詠境に飛んで己の言葉を楽しんでおるのじゃ。季の詞も最初はただ単純にその言葉の通りに事が起こるだけであったが、やがてその言葉に想いを乗せることにより、想い通りの事を起こせるようにもなった。憂き事多き浮世を忘れ、吟詠境にて己の意のままに遊ぶのは、宗鑑殿にも言霊の俳諧師たちにとっても大きな慰めであったことじゃろう」
老人はここで息をついた。差し出がましいとは思いながら、僕はここでひとつの疑問を投げ掛けてみた。
「でも、それなら吟詠境は本来連歌を楽しむ場であるはずなのに、僕の見た夢も、さっきまで居た吟詠境でも、言葉を掛け合って争っているようでした。それはどうしてなのでしょうか」
「そうじゃな。お前さんの言う通りじゃ。じゃが、その話はもう少し先にしておくれ。さて、そうして時が過ぎ、我が身に死の影が迫り出した時、宗鑑殿は大変な業を作り出してしまった。それが宿り身の業じゃ。」
「宿り身の業?」
「己が生命力を全て捧げ、己が言霊を己が言葉に宿らせる業じゃ。そしてもし、その言葉を強く意識している者があれば、その言葉を通じてその者に宿ることが出来る。今のお前さんがそうじゃ。お前さん、芭蕉の句に興味を抱いたのじゃろう。恐らくその時に宿られたのじゃ。言霊に宿られた者を言霊の俳諧師とは区別して言霊の宿り手と呼ぶ。どちらも吟詠境を開ける点では両者に差異はない。しかし、俳諧師だった時と何から何まで同じではない。その能力においてどうしても宿り主の言霊は劣ってしまう。一人で吟詠境を開くほどの力もないし、言霊を持たぬ者を吟詠境に招くだけの力もない。言霊を持つ者同士が力を合わせてようやく開く、その程度にまで宿り主の力は落ちてしまう。じゃが、それでも肉体が滅びた後も吟詠境で遊ぶことが可能になったのじゃ。宗鑑殿がこの宿り身の業を完成させた時、再び多くの言霊の俳諧師たちが、その業の教えを請いにやって来たそうじゃ。中には独力で身に付けた者も居たようじゃが、とにかく誰もがこう考えた。これは不老不死に近い業ではないかと。命尽きても尚、言葉と共に生きられるのじゃからのう。それ故この業を身に付けた者は自ら死を選び、喜んで言霊になった」
「それって凄いですね。自分の句と共に生きられるなんて。句を作るものとしては最高の幸せですよね」
「そう、誰もが初めはお前さんと同じように考えた。じゃがな、考えてみなされ。お前さん、芭蕉以外の者の句を何か知っているかね」
「い、いえ、ほとんど知りません」
「そうじゃろう。生きている間は多くの人の口に上り、書き物になり、広く知れ渡っていた己が言葉も、死後は次第に忘れられていく。言霊とて永遠の存在ではない。生きている者の生命力が時と共に老いていくように、言霊の力も時と共に減っていく。人の興味は目まぐるしく変わる。自分の句を愛唱してくれた宿り手も時と共に別の句に関心が移る。そうなればまた新たな宿り手を探さねばならぬ。やがて宿るべき者も見つからなくなり、己も己の言葉も世の中から忘れられていく。その有様を己が言葉の中でじっと見詰めながら力が尽きるのを待っているだけの状態になる。肉体が滅びる時には親しい者に見送られて逝くことができたが、言霊が逝く時には、誰からも忘れられ一人寂しく消えていく、ほとんどの言霊の末路はそのような辛く哀れなものであったようじゃ」
老人の顔は色づいてきた夕陽に照らされて昨日よりも赤く染まって見えた。僕はその横顔を眺めながら、この老人は何者だろうと思い始めていた。書物から得た知識ではない、まるで実際に体験したかのような語り方だった。あるいはこの老人もまた言霊を宿した、あるいは現に宿しているのかもしれない、そんな考えが湧き始めていた。老人は話し続ける。
「じゃがな、そんな運命に抗う言霊も居たのじゃ。宿り手の中に居る限り、宿り主の言霊の力は減らぬ。むしろ増えていく。宿り手が言霊に抱く想いが深ければ深いほど、言霊は宿り手から多くの力を得ることができる。その力を使って吟詠境で遊ぶ。これが宿り主たる言霊の本来の姿じゃ。じゃが、宿り手が関心を失えば宿り主にはもうどうすることもできぬ。そこで言霊の力を得るための別の方法が考え出された。別の言霊の力を奪い取る、というやり方じゃ。宿り主はその気になれば現し身の状態の宿り手に己が言葉を喋らせることができる。これは言霊の力を多く消費するので、よほどのことがなければ宿り主も行わぬが、これを利用して、別の言霊の宿り手が身近に現れた時、己が宿り手を操って相手の宿り主である言霊を吟詠境に誘い込み、季の詞で弱らせ、力を奪う、そんな言霊が多く現れ始めた。これが特に顕著になったのは、宗鑑殿以外にも言霊の業を付与する能力を持った俳諧師が出現してからじゃ。貞門派の貞徳殿、談林派の宗因殿、そして蕉風を説いた芭蕉殿じゃ。これらの流派の門人たちは、言霊の力を得るためだけでなく、己が流派を守るために他の流派と吟詠境で争った。まさに俳諧の戦国時代という風情であったろうな。言霊の俳諧師も言霊の宿り手も区別なく他の流派と争った。特に宗鑑殿は、己だけが持っていた言霊を付与する能力を持つ各流派の宗匠に対し、大いに敵対心を抱いておられたようじゃ。宿り手には言霊を持たぬ者を選ぶのが普通じゃが、宗鑑殿はわざわざ各流派の門人を、それも言霊の俳諧師を宿り手に選んだ。戦いを挑まれた貞徳殿は宗鑑殿に屈し、言霊とならずに世を去られた。宗因殿は言霊の力を完全に奪われ、晩年は俳諧を捨て元の連歌に戻られた。そして芭蕉翁は」
老人は言葉を切って僕の顔を見た。その続きは言うまでもなかろうという顔をして。そう、僕は知っていた。それこそ夢で見たあの光景だったのだ。
「芭蕉は嵐雪に宿った宗鑑の言霊と戦い、封じ込めた……」
「やはり夢で見ておったか。その通りじゃ。そして自らも言霊になられた。それ以後、言霊の業を伝授できる俳諧師は現れておらぬ。ふう、すっかり話し込んでしまったのう。尻が痛くなってきたわい」
老人が立ち上がった。話はこれで終わりなのだろうか。いや、まだ訊きたいことはあるはずだ。だがすぐには思いつかない。とにかく何でもいいから言ってみよう。
「あ、あのお尋ねしてもいいですか」
「なんじゃ、まだ何かあるのか。もうほとんど喋ってしまったと思うがのう」
「えっと、あの、どうして僕なんでしょう。だって芭蕉の句をもっと深く知っている人は他にもたくさんいるはずです。なのにどうして僕を宿り手なんかにしたんでしょう」
「そう、そうなのじゃ。それがわしにも不可解なことでな」
老人は再びベンチに腰を下ろした。それを見て僕はホッとした。まだ話が聞けそうだ。
「句を知っている程度の人間でも宿ろうと思えば宿れる。その人間の意識にその言葉は存在しているのじゃからな。だが、その程度の人間に宿ったとしても言霊の力はほとんど回復せぬ。また吟詠境に入っても、言霊の意識も力も体現できず、ほとんど無力な宿り手の姿となって現れるだけじゃ。お前さんも恐らくはそんな状態なのじゃろう。はてさて芭蕉翁ともあろうお方が、何故そのようなことをなされるのか」
老人の言葉を聞いて僕は落胆した。そうだ、何もかも知っていると思い込むのは早計なのだ。僕に話すべき老人の知識は、きっと今の話で全てなのだろう。僕は再び黙り込むしかなかった。老人も無言でしばらく僕の顔を眺めていたが、不意に何か思いついたように話し掛けてきた。
「そう言えば、お前さん、吟詠境に入ったと言っておったな。誰が開いた吟詠境に入ったのじゃ?」
「えっと、確か、維舟、だったかな」
「維舟……重頼殿か。それはまた大物に出くわしたものじゃな。まあ、今のお前さんなら、相手にもされず軽くあしらわれたと言ったところかのう」
「それが維舟さんの言霊は力を使い果たして消えてしまったんです」
「なんと、言霊が消えたと、信じられぬ。重頼殿は町人でありながら意を異にする武士に果たし状を叩き付けた剛毅なお方じゃ。今のお前さんの敵う相手ではなかったはず」
「いえ、あの、実は後から寿貞尼という人が入ってきて、助けてくれたんです。と言うか、昨日お話した野武士の彼女が寿貞尼だったみたいで」
「寿貞尼殿が!」
老人は眼を剥いて僕を見詰めたまま絶句している。維舟の言霊が消えたことより、寿貞尼の出現の方が遥かに驚きであったようだ。僕も何も言い返せずにしばらく老人と顔を見合わせていたが、やがて老人の顔から驚きの色が消え、薄っすらとした笑いに変わっていった。
「なるほど、なんとなくわかりましたぞ、何故、芭蕉翁がお前さんを選んだのか。相変わらず酔狂なお方じゃて」
老人は立ち上がった。そしてそのまま歩き出した。僕は慌てて引き止める。
「あの、わかったって、何がわかったのですか」
「いや、何、今のはひとり言じゃ。気にせんでくれ」
老人はこちらを振り返ることなく歩いていく。その背中に僕は声を掛けた。
「あの、あなたは何者なんですか。また会えますよね」
「もう会う必要もあるまい。お前さんには寿貞尼殿がおられるのじゃからな。これからは彼女と同じく、自分の助けとなる言霊を探されるがよい。わしにも心当たりがないわけでもない、手助けできるならいたしますぞ」
急に老人が立ち止まってこちらを向いた。遠い瞳に夕焼けを映しながら、まるで何かを思い出してでもいるかのような懐かしむ声で、一つの句をつぶやいた。
「菜の花や月は東に日は西に」
聞いたことのない句だった。芭蕉の句だろうか。
「この句がお前さんの助けになる日が来るやもしれぬのう。その時にまた会いすることになりましょうぞ」
そうして老人は歩いていった。僕はもう追うのを止めて夕陽に照らされたその後姿を見送っていた。
家に帰った僕は冷蔵庫に残っているありあわせの惣菜で夕食を済ませると、先週図書室から借りてきた二冊の本を開いた。まず寿貞尼を調べてみる。これは「芭蕉が愛した女性」という簡単な記述しかなかった。老人が最後に言い残した句は二冊の本には載っていなかった。こんな時にネットでもやっていれば、すぐに検索できるのだろうが、生憎、父の方針で家にはパソコンはもちろん、携帯電話すらない。先輩の家のパソコンを貸りるほどの切羽詰った問題でもないし、結局、明日、図書室で調べようという結論に至った。
翌日、いつも通り午前の授業を受け、昼食のパン&おにぎりをいただき、午後の授業が終わり、当番の掃除を無事済ませると、僕は図書室へ向かった。部活動ではなく、純然たる調べ物のために図書室へ向かったのである。
閲覧室に入ると意外なことに野武士が居た。着席して本を読んでいる。教室では一言も口をきかなかったが、さすがにここでは無視できない。一言「やあ」と言って、書棚へ向かう。野武士は顔を本から離すことなく「部活動ご苦労様」と言ってくる。いや、今日は文芸部には関係なく調べ物があって来たんだ、などと余計な事は言わずに僕は本を探し続けた。
それらしい本を手に取り、パラパラめくり、また棚に戻す、そんな作業を繰り返す内に、もしかしたら野武士に聞いた方が早いかも、という、少々横着な考えが浮かんできた。ひとたびそんな考えに捕らわれると、もう駄目だ。俳句関係の本は沢山あるし、そもそもいつの時代の誰の作かもわからない句を探し出すという手間は、途轍もなく大儀である。取り敢えず訊いてみてもいいんじゃないだろうか、この程度のことなら大した毒舌も返ってこないだろうと僕は判断し、書棚を探すのは止めて野武士に訊いてみた。
「あの、ちょっといいかな」
「何かしら」
「菜の花や月は東に日は西にって、知ってる?」
「あら」
野武士は本から顔を上げると意外そうな顔で僕を見上げた。
「人って見かけに寄らないのね。ショウ君、結構浮気者なのね」
「う、浮気者って、何を言ってるんだ、君は」
予期せぬ回答に思わず狼狽して言葉を詰まらせてしまった僕を尻目に、野武士はいつも通りに淡々と辛らつな言葉を浴びせてくる。
「だって、そうでしょう。芭蕉が大好きですとか言っていたのに、もう別の俳人に心奪われているんだから。まあ、あり得ないとは思うのだけれど、もし万が一、何かの間違いで、神がかり的偶然によって奇跡的にあなたに彼女ができたとしても、それだけ重度の浮気癖があるなら、蝉が孵化して命を終えるよりも早く、その彼女はあなたに愛想を尽かしてしまうでしょうね。お気の毒」
いったい、どうしてこうも憎まれ口が叩けるのか、その才能に脱帽してしまいそうなくらいだ。しかもこちらの疑問には全く答えてくれていない。少なくとも芭蕉の句ではないことだけはわかったが、それだけではどうしようもないのでもう一度訊き返す。
「いや、別に彼女の心配はしてくれなくてもいいから、知っているのなら誰の句か教えてくれないかな」
「蕪村よ。与謝蕪村」
今度はあっさりと教えてくれた。蕪村、聞いたことがある。芭蕉の後に活躍した江戸時代の俳人だ。ではあの老人は蕪村の言霊の宿り手なのだろうか。蕪村ほどの俳人ならば独力で言霊の俳諧師になれても不思議ではないし、そう考えればあれだけの知識を擁しているのも納得がいく。
「そうか、あの人は蕪村の、」
「あの人?」
「うん、日曜日に初めて会ったおじいさん……」
と言いかけて、あの老人のことを野武士に話すのは早計かもしれないと考えた。なにしろあの老人には野武士の悪口を散々言ってしまっている。勘のいい彼女のことだ、老人について話している途中で下手に突っ込まれたら、こちらからボロを出してしまうかもしれない。とにかく、当初の目的はもう達成できたことだし早々にここを立ち去ろうと、こちらを疑わしそうに凝視している野武士は無視して、僕は出口に向かおうとした。
「来て」
本を閉じて野武士が立ち上がった。そのまま準備室に向かって歩いていく。僕の背中に悪寒が走った。これは明らかに危険な展開だ。野武士は昨日から続く僕の言動に間違いなく不信感を抱いている。あの狭い部屋に連れ込まれてしまってはもう逃げ道はない。いや、待て。その前にこのまま聞こえなかったフリをして逃げてしまえばいいのではないか。「来て」だけじゃ誰に向かって言っているのかわからない。そうそう、あれは僕に向かって言ったんじゃないんだ。別の誰かに言ったのさ、と都合よく解釈した僕はそのまま出口に向かおうとする、が、
「聞こえなかったのかしら、ショウ君。早く来なさい」
あなたは僕の上司か何かですかと言いたくなりそうなほどの命令口調が聞こえてきた。ここまで言われてしまっては、もう従うしかない。無視して立ち去りでもすれば、翌日さらにひどい状況を招くことは火を見るより明らかだ。すごすごと野武士の後に続き、開いたドアから準備室の中に入る。そのドアを後ろ手に閉めた彼女はドアの前に立ち塞がった。これでこの部屋から出るには野武士を倒してドアを開けるしかない状況に陥ってしまった。取り敢えず場を和ませようと僕は無理に笑顔を作る。
「えっと、何か用事があるのかな。こんな狭い部屋に若い男女が二人だけって、ちょっと不健全だと思うんだけど」
当然のことだが、野武士はこんな言葉には全く動じない。まるで何も聞こえていなかったかのように、自分の言いたいことを喋る。
「ショウ君、月曜日の朝は私を見るだけで何も言わず、夕方は何か言いかけて走って逃げてしまったわよね。それって、日曜日に会ったっていうあの人と何か関係があるんでしょう。今日こそは話してもらおうかしら。あの人って誰? その人と何を話したの?」
口調は丁寧なのだが、恐ろしいほどの威圧感が言葉の端々に漂っていた。別に昨日教えてもらった言霊に関する内容については、野武士に話しても構わないし、むしろ話して情報を共有すべきである。しかし、日曜日の話の内容はできるなら伏せておきたい。このように知らすべき内容と知られてはいけない内容が混在している情報を相手に伝達するにはいかなる手段を講じるべきか。この難所を乗り越えなければ全員討死の危機に直面している足軽隊の物頭のように、急速フル回転を始めた僕の頭が出した結論は、いつものように適当にごまかすという安直な方法だった。
「い、いやあ、それは君の思い違いで、僕が君に言いたかったこととあの人とは何の関係もないんだよ。会ったのは普通のおじいさんでね、とても俳句のことに詳しい人だったんだ。あ、そうだ言霊のことも知っていたから、もしかしたら僕たちと同じく、言霊を宿している人かもしれないかなあ」
野武士はまるで東大寺南大門の仁王様の如く僕を睨みつけている。到底直視できるはずもなく泳ぎまくっている僕の目は、何も知らない人から見ても疑わしさ満載なのであるから、野武士が僕の言葉を信用するはずもないが、嘘だと決めつけることもできかねている様子だ。これ以上自白を促しても無理と悟ったらしく、野武士は遂にトンでもないことを言い出した。
「そう、どうしても言いたくないのね。いいわ、それなら私が直接会って話を聞きます。その人とどこで会ったのか教えてくれない、ショウ君」
一瞬、地が動いたかと思えるほど僕は動揺した。将に驚天動地の一言だ。駄目だ、それだけは絶対にさせちゃいけない。あの老人には見栄を張って、彼女を野武士と呼んでいるなんて言ってしまったのだ。顔を合わせて開口一番「お、この娘が例の野武士かね」などと言われたら一巻の終わりである。なんとしても阻止しなくては。
「え~っと、その人は日曜日の午前中しか居ないと思うんだ」
「いいわよ、都合つけるから」
「で、でも僕が用事があって行けないかも」
「構わないわ、一人で行きますから。場所を教えてちょうだい」
「でも、え、え~っと、あ、そうだ、そのおじいさん人見知りで、僕が勝手に知らない人を連れてきたら困っちゃうかも」
追い込まれた人間は時として思いも寄らぬ理屈を考え出すものである。言った後で何を言ってるんだ自分は、と少々後悔したものの、意外とこの一言は効果があったようだ。野武士はしばらく考えた後、言った。
「そうね、確かにその人を私に会わせる義務はあなたにはないし、私にもその人に会う権利はない……わかりました」
凌いだ、野武士の猛攻を凌ぎ切った! 僕は心の中で自分自身に拍手喝采をした。野武士に勝利した今日は記念すべき日となろう、野武士記念日として永遠に僕の記憶に残るに違いない。一方、初の黒星を喫した野武士は特に気落ちするでもなく、いつもどおり涼しい顔をしている。
「ところで話は変わるのだけれど、ショウ君、いつも一緒にお昼を食べている人がいるわよね、確か、トツさん」
「いや、トツさんじゃなくて、父つぁんだよ」
普段なら野武士に口答えなどしないのに、初勝利の余韻に酔いしれている僕の頭は、相当大胆不敵になっていたようだ。つい、訂正発言をしてしまった。必然の結果として野武士の反論が返ってくる。
「あのね、どこかのアニメの主人公じゃあるまいし、そんなオヤジ言葉、うら若い女子高生が口にできるわけないじゃないの。トツさんでいいのよ」
「あ~、そうですか、わかりました。で、父つぁんがどうかしたの?」
そもそも父つぁん自体、本名ではなく僕が付けたあだ名なので、呼び方を巡って議論するほどの価値もない。早く用件を聞いたほうがいい。僕の問い掛けに、野武士は意味ありげに口元に微笑を浮かべると、思いがけない言葉を口にした。
「ショウ君、私、あの短冊まだ持っているのよ。あなたが卒業式の日にくれた、あの恥ずかしすぎる短冊」
勝利の美酒に浮かれていた僕の陽気な気分は一瞬にして打ち砕かれた。嫌な予感が頭をもたげてくる。いや、ここで勝利を手放してはいけない。自分を信じて頑張ろう。
「そ、それが、何か?」
「今でも時々取り出して眺めているの。見る度に羞恥心を感じる短冊なんて天然記念物モノよね。それで、こんな傑作を一人で見るのは勿体無いから、トツさんにも見せてあげようかなあって考えているのだけれど、ショウ君はどう思う。ついでにその時の恥ずかしいお話もしてあげようかなあ」
僕の勝利は完全に粉砕した。脅迫、この二文字が頭の中をぐるぐる回り始めた。
「そ、それは脅しですか」
「まあ、何を人聞きの悪いことを言っているのかしら。トツさんに短冊を見せるのを止めて欲しいのなら、あの人に会わせて、なんて言ったら脅迫なのだろうけれど、私はそんなことは一切言ってないわ。あの人に会いたいのとトツさんに短冊を見せるのは、全然無関係なのですもの。ふふふ」
そう言って笑う野武士の目は完全に勝利の輝きに満ちている。なんということだろう。これこそ文字通りの天国から地獄。秀吉迫るの報を受けた明智光秀の気持ちが、今こそ心の底から理解できたような気がする。だが、このまま屈するのは悔しすぎる。僕は最後の抵抗を試みる。
「わかった、君の希望通り、今度の日曜日にあの人に会いに行こう。でも、その代わりにあの短冊を返してくれないか」
「あら、駆け引き? ショウ君もただじゃ転ばない性格なのね。でもね、あなたは自分の立場がわかっていないわ。私はあの人に会わなくても全然困らない。ショウ君は短冊を見せられると困る。ね、わかるでしょ、あなたは駆け引きできる立場にはないのよ。ふふ、日曜日が楽しみだわ」
野武士は愉快そうに笑いながらドア開けて出て行った。一人準備室に残された僕は、敗北の悔しさを噛み締めていた。結局、ほとんど野武士の希望通りになってしまった。いや、それよりももっと恐ろしいことは彼女に弱みを握られているという事実を思い知らされたことだ。今後、僕は一切彼女に逆らうことはできないのだ。まさか、あの軽率な行動がこんな結果になってしまうとは……若気の至り、後悔先に立たず、死んでからの医者話、はまった後で井戸の蓋をする、などと取りとめもなく諺が浮かんでは消えていく頭を抱えて、僕は、とにかく済んでしまったことは仕方がない、取り敢えず、今度の日曜日をどう乗り切るかを考えることにした。あの老人に余計なことを言わせないようにするには……根回し、そうだ、今すぐあの老人に会いに行こう。そして一昨日に話したことは言わないでくれと頼めばいいのだ。何だ簡単なことじゃないか。準備室を出ると野武士の姿はなかった。僕は焦る気持ちを抑えながら図書室を出た。走ってはいけない廊下を早足で通り抜け校舎の外に出ると一目散に駆け出した。
しかし物事はそううまくはいかないものである。あれから毎日、放課後は図書室へ寄ることなくあの川べりに直行していたものの、一度もあの老人には会えなかった。最初に会った時、しばらくはここに居ると言っていたけど、もしかして、もうそのしばらくが終わってしまったのだろうか。それとも月曜日の放課後に会えたのは偶然で、あそこにいるのは本当は午前中だけなのだろうか。そう思った僕は土曜日には午前も夕方も川べりに足を運んだが、やはり会えなかった。そんなこんなで老人への根回しができないまま日は過ぎていき、とうとう日曜日になってしまった。
野武士は電車で通学しているので待ち合わせは駅前になった。彼女の家はこの町の外れにあり、そのため、中学の時も徒歩ではなく自転車通学だった。高校になると更に距離が遠くなり、学校が駅の近くということもあって電車通学にしたようだ。
駅前の広場で彼女が来るのを待ちながら、僕の内心は穏やかではなかった。このままあの老人に会えなければ何の問題もないが、日曜日にひょっこり姿を現すという可能性も考えられる。実はその時の対策として、ひとつの腹案を僕は持っていた。うまくいくかどうかわからないが何もしないよりはいい。遠くから規則正しい音が遠くから聞こえてくる。電車が着いたようだ。時刻的に彼女が乗っているはずだ。
「お待たせ」
改札を通って姿を現した彼女を見て、図らずも僕の胸はときめいた。初めて見る彼女の私服姿は、制服姿から受ける印象からは別人に思えるくらいに女の子らしく見えた。もちろん、そんな感情を表に出してはいけない。これ以上彼女に弱みを見せるわけにはいかないのだ。僕はなるべく平静を装って挨拶した。
「お、おはよう」
近づいてくる彼女に合わせて微かな空気の動きが感じられた。その空気に乗って淡い香りが僕の鼻をくすぐる。
「これ、ミカンの香り……」
「シトラスって言葉知らないのかしら、ショウ君。もしかしてミントも薄荷って言う主義?」
「いや、ミントは知ってるし、そんな主義は持ってないよ。でも、この香り、学校では感じたことないね」
「洗濯洗剤の香りじゃないかしら。そんなことより早く行きましょう」
本当にそうなのか、それとも香水を付けているのか、どちらが正しいのか僕にはわからなかった。けれども、これもまた新しく発見した彼女の一面だった。
あの老人と会った川は駅と高校を結ぶ道路と平行して流れているが、その位置はかなり東側になる。ひとまず川に出ることにして僕たちは東に向かった。明るい四月の陽光を浴びて二人で並んで歩きながら、僕はこの一週間考えていたある提案を彼女にした。
「あの、テイって呼んでいいかな」
「テイ?」
「うん、ホラ、僕は芭蕉でショウだろ。だから寿貞尼の君はテイかなって思って」
野武士ではなく別のあだ名を付けてしまう、これが僕が思いついた腹案だ。今日、あの老人に会ったとしても、先に別のあだ名で呼んでしまえば、もうそれで呼び名は固定されてしまうはずである。我ながら名案だ。しかし、この提案に対する彼女の返答は否定的であった。
「テイって、最低のテイみたいで、ちょっと気に入らないわね」
「じゃあ、訓読みでサダ」
「長髪振り乱してテレビから出てきそう」
「んー、じゃあ、寿の方にして、ジュ」
「お肉を焼いているみたいじゃない」
「そしたら、そのままコトブキ」
「御目出度いのはあなたの頭の中だけにしてもらえないかしら」
なんて注文が多い女なんだ。僕なんか文句一つ言わずに今のあだ名を引き受けたのに。それにここまで拒否されたら、もうあだ名の付けようがない。しかし、ここで引き下がるのは癪である。もう一押ししてみよう。
「なら、コトブキのコトでどう?」
「コト、か。それなら許せるかな。あ、そうそう、呼ぶ時は呼び捨てじゃなく、きちんと『さん』を付けて呼んでちょうだいね」
「わかりました、コトさん」
最初の提案とは似ても似つかぬあだ名になってしまったが、両者共に納得のいくあだ名を付けるという目的は達成できた。これであの老人に会ってもなんとか乗り切れそうだ。
しばらく歩いて川の土手に出てからは、初めて老人と出会った桜の木を目指して川沿いの道を歩いた。桜の季節が終わってしまったせいか、すれ違う人はほとんど居ない。ほどなく目的の場所に着いたが、やはり老人は見当たらない。
「この木の下で初めて会ったんだ」
「そう」
コトは桜の木に背をもたれ掛けさせて、周囲を見回している。このまま待っているつもりみたいだ。手持ち無沙汰になった僕は少し離れた場所で老人を探すフリをしながらコトを眺めていた。あの毒舌が信じられないくらい、木の下に佇んでいるだけで絵になるほどの美少女ぶりだ。だが、綺麗な花にはトゲがある、彼女に潜む毒舌はバラのトゲよりも鋭い。そのトゲに刺されまくっている僕は、最近はそのトゲにも慣れてきたような気がする。慣れてしまえば、もうそれはトゲでなく花と同じく魅力の一つになるのかも、と考えたところで、それは鞭に慣らされた奴隷と同じではないかという警鐘が鳴り響く。いやいや、あの毒舌に屈してはいけない。トゲに慣れるのではなくトゲを取り除く努力をしよう、と新たな決意を固めたところで、コトが木を離れてこちらに向かってくる。
「この辺には居ないみたいだし、少し歩いてみましょうか」
「あ、うん」
僕たちは川べりを歩き始めた。歩きながら老人を探しているのだが、やはり姿は見当たらない。程なくしてベンチが見えてきた。二度目に老人の話を聞いた時に腰掛けていたベンチだ。コトは何も言わずにベンチに近づくとそこに座った。少し疲れてしまったのかもしれない。僕も並んで座る。
「居ないわね」
「う、うん。この町の人じゃないみたいだったし、しばらくしたらどこかへ行ってしまうみたいなことを言っていたから」
「そう……」
コトの気落ちした声を聞いて、やはり老人は去ってしまったのだという結論を下すべきなのだと僕は感じた。もう会う必要もあるまい……あれが老人の別れの言葉だったのだ。そう思うと僕の胸に寂しさが込み上げてきた。
「ふふふ」
いきなりコトが笑い出した。
「ど、どうしたの」
「やられたわ。ショウ君、あなたって見かけに寄らず策士だったのね」
「策士? どういうこと?」
「あの人、なんて居なかった、最初からそんな老人、存在していなかったのよ。見事に騙されたわ。月曜日の朝と夕方の、あの思わせぶりなあなたの言動は全てお芝居、私を欺くためのね。そして火曜日には架空の老人の存在を匂わせる。もちろんそれも、その人に会わせてという言葉を私から引き出すための嘘。そして私はまんまとあなたの計略に引っ掛かって、こんな所まで来てしまった。ふふ、私ともあろうものが、ショウ君如き小者の手玉に取られるなんて、どうかしていたわ」
いきなり聞かされたコトの大胆妄想には、可笑しさを通り越して呆れてしまった。これは冗談なのか本気なのか全く判別がつかないが、一応、真面目に反応してみる。
「あ、あのうコトさん、それ何かのドラマの見すぎなんじゃないかな。そもそも、そんなことをして僕にどんな利点があるって言うの」
「わかり切ったことじゃないの。私を脅迫するためよ」
「きょ、脅迫? でもどうやって?」
「あら、いつまでシラを切るつもりなのかしら。今のこの状況、どこからどう見たってデートじゃない。私がショウ君みたいな冴えない男とデートしている、これだけで十分脅しのネタに使えるわ。きっとどこかにあなたの仲間が居て、写真でも撮っているのでしょう。もしかしたら、あのトツさんがカメラを構えてこっそり潜んでいるんじゃない。そして後日、このデート写真をばら撒かれたくなかったら、あの恥ずかしい短冊を返せと要求する、それがあなたの狙いなのよ。どう、図星でしょう」
その手があったか! 短冊を取り返す大チャンスを取り逃がしてしまうとはなんたる不覚。気づかなかった自分の不明さを恥じて大反省の気分に見舞われた僕ではあったが、自分と一緒に写っている写真が脅しのネタになるって、それはいくらなんでも無理があるんじゃないだろうか。
「いや、しかし僕とコトさんはクラスメイトで同じ部の部員。一緒に写っている写真があっても、どうとでも弁解できるんじゃないか」
「ふ、甘いわね、ショウ君」
「はあ?」
「この程度のボケにそんなツッコミしか返せないなんて、それじゃ女の子は満足しないわよ」
ボ、ボケだったんですか! と言うか、こんな壮大なボケに対してどんなツッコミをお望みなのですか。いかなるツッコミ名人といえども、あなたを満足させることは不可能と思われます、と心の中で叫んだ僕は、コトに対してはもう何も言えなくなってしまった。絶句したままの僕をしばらく眺めていたコトは、不意に真顔になった。
「ね、話したくないことは話さなくていいから、そのおじいさんとした話の内容を教えてくれない。言霊のことも知っていたのでしょう」
「あ、うん」
そんな言われ方でお願いされると随分気が楽になる。僕は二度目に出会った時に老人から聞いた話の内容をコトに話した。言霊の業を身に付けた宗鑑のことや、吟詠境のこと、宿り身の業、言霊同士の争いなどなど。言霊の俳諧師が存在する時代に生きた寿貞尼の記憶が流れ込んでいるせいか、言霊についての知識はコトもある程度持っていたようだ。ただ、宗鑑が芭蕉に封じられたことや、僕が最後に見た夢の内容は知らなかった。寿貞尼の死後に起こったことだからだろう。
「つまり、封じた宗鑑が心配で芭蕉は言霊になったってことなのかしら」
「そんな感じだね」
「それで、芭蕉がショウ君みたいに俳句の知識がほとんどない浅学非才で凡庸な人間に宿ったのには、どんな意味があるのかしら」
「いやあ、それは本当に不思議だよね」
それに関しては老人は何か気づいていたみたいだったが、僕にはわからなかったので、適当に答えておいた。それにしても相変わらず毒を含んだ物言いである。
「考えても仕方ない、か。そんな過去の人たちの思惑に振り回されるのはバカバカしいものね。ショウ君もそんなことに気を取られるより、今、自分の前にある現実に目を向けるべきかもね」
「それはそうなんだけど……」
コトの言い分はもっともだったが素直には同意できなかった。自分に芭蕉の言霊が宿ったことには、何らかの意味があるという思いが捨て切れなかったからだ。それともコトのように、宿した言霊の意識が流れ込むほどに完成された宿り手になれば、もう気にならなくなるのだろうか。僕には結論が出せなかった。
僕の話が終わってもコトはベンチに座って、陽光を反射してキラキラと輝いている川をぼんやり眺めている。もう少し話がしたくて僕はコトに訊いてみる。
「コトさん、ひとつ教えてくれないかな。寿貞尼ってどんな人だったの。俳諧師でもないのに言霊になったのには何か理由があるのかな」
「寿貞尼は芭蕉の幼馴染よ」
こちらを振り向きもせず川を眺めたままコトは話す。
「郷里を出た芭蕉を慕って彼女も江戸に下り一緒に暮らした。やがて心変わりした彼女は芭蕉を裏切って他の男と駆け落ちし、子供までもうけてしまう。男に死なれた後は尼となり、病を得ると芭蕉を頼って芭蕉庵に住み、一年後他界した」
「な、なんだかひどい女性だね。芭蕉さんを裏切るなんて」
「そう、ひどい女ね。それでも芭蕉は決して彼女への想いを捨てなかった。そうして一生を独り身のままで通し、彼女の死を知った時、その魂を捕らえ、自分の命を削って言霊にし、自分の句に宿らせた。その業によって衰弱した芭蕉は彼女の死の四ヵ月後に亡くなった」
「命を削って……」
思いも寄らぬ話だった。芭蕉と言えばひたすら俳諧の道を究め続けた人、そんな印象しか抱いていなかった。コトの話が全て真実かどうかはわからないが、俳諧師ではなかった寿貞尼の言霊が存在し、それを成し得るのは芭蕉以外に考えられないのだから、芭蕉が最後まで彼女に想いを寄せていたのは間違いないだろう。自分の命を削れるほどの想い……僕には想像できなかった。
「芭蕉って凄い人だったんだね。一人の人にそこまで尽くせるなんて、僕にはとても真似できないや」
「何事にも一途な人だったのでしょうね。そう、たった一度冷たい言葉を投げ掛けられただけで、自分の想いを捨ててしまおうとした誰かさんとは大違いね」
コトのこの言葉は僕の胸に深く突き刺さった。そうだ、確かにあの時、僕はコトへの想いを捨てようとした。それだけでなく嫌いになろうとして野武士なんてあだ名まで付けてしまった。あの時の僕の想いはその程度のものでしかなかったのだ。あの老人のおかげで捨てかけた想いを救うことはできたが、それでも芭蕉の足元には到底及ばない。こんな僕に宿り手の資格などあるのだろうか。
「ほ、本当だね、僕と芭蕉じゃ勝負にならないよ」
「あら、すんなり認めてしまうのね。でも、ついてもいい嘘だってあるのじゃないかしら」
「えっ?」
いつもハッキリ物を言うコトにしては曖昧な言い方だった。コトは相変わらず川を眺めている。その横顔が妙に可愛く見えた。
「ね、お腹空かない?」
そう言って、急にこちらを振り向いたコトの顔にドキリとしながら僕は答えた。
「あ、ああ、そろそろお昼かな」
「何か食べに行きましょう。駅前に以前から行きたかったお店があるの。あ、もちろん、ショウ君のおごりね。私を騙してこんな所まで連れてきた罰よ」
「いや、だから騙してないって言って……」
「行くわよ」
僕の言葉など聞く耳持たぬと言わんばかりにコトは立ち上がった。柔らかい微風に乗って、今日最初に会った時に感じたあのシトラスの爽やかな香りが漂う。花の季節は終わり、これからは新緑の季節だ。あの老人は別の町へ旅立った。コトはもう歩き始めている。僕は立ち上がると新しい一歩を踏み出すようにコトの後を追った。