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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
五 数ならぬ身
29/61

引き込まれた牧童

 彦根に住む許六の屋敷に、大坂から急を告げる使者が到着したのは、冬の気配が漂い始めた十月のことだった。芭蕉のただならぬ容態を知らせるための使者は、彦根だけでなく伊勢や京など各地の門人たちにも遣わされており、知らせを受けた京の去来は、直ちに大坂へ向かったとのことだった。

「許六様も一刻も早く立たれてくださりませ」

 そう申し述べて座を辞した使者の言葉通り、許六は今すぐにでも身一つで芭蕉の元へ赴きたかった。が、藩士としての勤めに縛られた許六にとって、それはできぬ相談であった。許六ができるのはこの地に毎日届く、容態を知らせる文を読みながら、ただ芭蕉の回復を願うこと、それだけだった。

 許六は回想した。江戸の芭蕉庵で別れたのが昨年の夏、あれから一年半も経たぬ内に、このような事態が訪れるとは……しかし、許六にその予感がないわけではなかった。別れ際の芭蕉は甥の桃印を亡くし、既に衰えを見せ始めていた。加えて、今年の六月には最愛の寿貞尼を失っている。打ち続く悲しみが老いを迎えた芭蕉の気力を奪い、身体を弱らせていったのだろう。だが、まだ逝くには早すぎる。各地に撒かれた蕉門の種はようやく芽吹き始めたばかり。ここで宗匠を失っては瓦解の危険さえある。なんとか持ち直し、更なる隆盛のために尽力していただきたい、それが許六のみならず門人一同の願うところであった。

 来客ありの知らせを受けたのは、そんな焦燥感に苛まれる日々の只中だった。取次ぎの者が告げた立花牧童という者に面識はなかった。しかし名は知っている。金沢にて数年前に門人となった立花北枝、確かその兄が牧童だったはず……許六の覚えはその程度であった。

 このような時にいかなる用向きであろうか。客座敷にて対面した許六は、まずは互いに挨拶を交わした後、品定めをするように牧童を眺めた。背筋を伸ばして正座する牧童の瞳からは、ただの刀研師とは思えぬほどの気迫が感じられる。そこにはこれまで許六が手合わせしてきた多くの武士たちに勝るとも劣らぬ威圧感があった。知らぬ間に、許六は自身の身が引き締まるのを感じた。

「まずは、これをお受け取りください」

 牧童が差し出したのは一尺にも満たぬ桐の小箱である。許六はそれを手に取ると蓋を開けた。中には小柄小刀が収められている。

「ほほう」

 思わず感嘆の声が漏れ出た。許六は武人として剣術、槍術は名人の域に達している。武具の類にもそれなりの興味はある。

「刀身と一体の小柄とは、随分と古いもののようですな」

「刀研ぎをしておりますと、様々な方から依頼を受けます。その小柄は、少々懐具合が寂しいお武家様が、研ぎ料の足しにして欲しいと差し出されたもの。ひどく傷んでおりましたが、研ぎ直すと見事な仕上がりになりました」

 許六は箱から小柄を取り出すとしげしげと眺めた。刀身は繰り返された研ぎ減りによって痩せ細ってはいるが、小柄の富士と果実の細工はなかなかに風情がある。

「うむ、良き趣向の小柄ですな」

 許六は小柄の裏を返した。真っ先に目に付いたのは、彫り込まれた十余りの刀身の金文字。一目で発句であることがわかった。

「金箔象嵌の真似事です。親しい友人に白銀師(しろがねし)がおりまして、手ほどきしていただいたのです」

 許六は顔を上げた。小刀ながらこれだけの手間を掛ければ、費やした金子も安くはあるまい。互いに名を知っているとはいえ、初対面の自分に何故このような物を差し出すのか……無言で自分を眺める許六の心中を察し、牧童は頭を下げた。

「ご推察の通り、許六殿にお願いがあって参上したのです」

「願い……身どもの如き新参者に願いとは、いかなるものであろうか」

「私が言霊の俳諧師になれるよう、お力を貸していただきたいのです」

 力の込もった牧童の一声は客座敷全体を轟かすようだった。それでも許六は動じることなく即座に言葉を返した。

「無理ですな。荷が重過ぎる。ご存知の通り、蕉門の末席に座してまだ一年余り。芭蕉翁とさして懇意なわけでもない。そのような願いは芭蕉翁の信頼篤き、京の去来殿になされるがよかろう」

「頼みました。以前に去来殿にも頼んだのです。しかし、断られました」

 許六は顔をしかめた。去来が引き受けなかった願いを自分が引き受けられるはずがない、この男、このような理屈が何故わからぬのか。

「許六殿はもっとも新しき言霊の俳諧師。貴殿以後、芭蕉翁は誰にもこの業を与えておりませぬ。どうして与えていただけたのですか、どうすれば与えていただけるのですか。何卒、教えてくださりませ」

 畳み掛ける牧童の言葉に、許六は諭すように言った。

「のう、牧童殿。芭蕉翁は常々こう仰られておる。俳諧を深く理解し、それを実践できる才覚を持ち、その上で言霊の俳諧師たることを望めば、いかなる者でも業を授けると。芭蕉翁が授けてくださらぬのなら、牧童殿に何かが欠けておられるのでしょう。今一度、自分を見詰め直してみられてはいかがかな」

「いいえ、私には既にその資格はあるのです。俳席に連座した門人の方々からは必ず賞賛をいただいております。我が弟北枝より優れていると言う者もおります。そして私自身、私の才を自負しております。座に着いた方々より劣った句を詠んだことは、一度もないと断言できるほどです。しかし、芭蕉翁には認めていただけません。詠み上げた歌仙を何度送り届けても、これでは業は授けられぬと送り返されるばかり。もはや直々に願い出るより他に道はないと思い至った次第。許六殿、何卒我が願い、聞き届けてはいただけませぬか」

 頭を畳に擦り付けて懇願する牧童を、許六は冷ややかに見下ろした。その目は軽蔑に満ちていたが、哀れみの色がないわけでもなかった。不快な面持ちで手にした小柄を桐の小箱に収めると、許六は元通りに蓋をした。

「今のお話を伺って合点がいった。残念ながら牧童殿には言霊の俳諧師たる資格がないとお見受けいたす」

「な、なんと仰られた」

 驚いて顔を上げた牧童の前に、許六は小柄を収めた小箱を差し出した。

「私が口添えしたところで、芭蕉翁は貴殿に言霊の業を与えることはあるまい。諦めなされ。この小柄はお返し申す。このまま郷里に戻られるが良かろう」

「できませぬ、諦められませぬ」

 牧童の語気は更に荒くなった。長年探し求めた仇敵に出会いでもしたかの如く、許六に食って掛かる。

「五年ですぞ。芭蕉翁のお言葉を信じ五年間も待ち続けたのです。約束の日から今日に至るまで、どれだけの屈辱に耐えてきたか。入門と同時に言霊の業を授けられた許六殿にはおわかりになりますまい。言霊の俳諧師ではない、ただそれだけで弟の北枝からは格下に見られ、門人の方々は私よりも弟を敬う。兄でありながらこのような扱いを受ける私の不甲斐なさ、想像もできますまい。しかも、口惜しきことには」

 怒りに紅潮した顔をゆがませて、牧童は許六ににじり寄った。

「芭蕉翁は寿貞尼殿を言霊になされたとか。俳諧師でもない者、いや、俳諧すら知らぬ者に死後の言霊を与えておきながら、何故、私には与えてくださらぬのですか。私は寿貞尼殿よりも劣ると言いたいのですか。私の何が気に入らぬと言うのですか。許六殿、答えてくだされ」

 許六の眉間に皺が寄った。表立った抗議はなかったが、寿貞尼の件は多くの門人たちの不興を買っており、許六もまた同じ不満を抱いていたからだ。この点に関してだけは許六にも牧童の悔しさが理解できた。

「うむ、牧童殿のその気持ちはわからぬでもない。だが、寿貞尼殿と貴殿の扱いについては全く別の話であろう。他人を羨むより、まずは自分を磨くのが先決のはず。時間は掛かるかも知れぬが、努力を続けられればいつかは芭蕉翁のお眼鏡に……」

「もはや一刻の猶予もないのです」

 自分の言葉をさえぎられた許六はため息をついた。相手の言葉に耳を傾ける余裕すら失ってしまっては、話し合いは成立しない。これ以上の問答は時間の無駄である。

「聞いておりますぞ、許六殿。芭蕉翁は今や重篤となり、覚悟を決めた門人もおられると。今の世に、言霊の業を授けられる俳諧師は芭蕉翁しかおりませぬ。このまま逝かれてしまっては、私は永遠に……」

「何ということを申される」

 許六は立ち上がった。その表情は憤怒に満ちている。それ程に牧童のこの一言は許六の逆鱗に触れたのだ。

「牧童殿は今、どのような言葉を口にしたかわかっておるのか。言霊を欲する者なら、自ら発する言葉の重みを知らぬはずがなかろうに」

 許六の剣幕に牧童は我に返った。同時に大きな後悔に襲われた。激情に駆られていたとはいえ、病と闘う芭蕉翁に対して何ということを……もはや弁解の言葉すら出なかった。

「ここまで己を見失っておるとは思いも寄らなんだわ。お帰りくだされ。そして二度と姿を現さんでくだされ」

「お、お待ちください。許六殿に見放されては、私は」

「誰か」

 許六が手を叩くと次の間に控えていた従僕が姿を現し、牧童を背後から抱え込んだ。

「許六殿、今一度お話しをお聞きくだされ、許六殿」

 未練がましい言葉を吐きながら、牧童は屈強な従僕に引き摺られるように部屋から出され、戸外へ追い立てられ、敷地の外へと放逐された。眼前で音を立てて閉じられる屋敷の門、それは牧童にとって全ての希望を閉ざす門だった。足元に打ち捨てられた桐の小箱を拾うと、牧童は打ちひしがれた心を抱いて許六の屋敷を後にした。


 北陸道を北へ歩く牧童の足取りは重かった。北枝に宛てられた文によって芭蕉の容態を知り、時には早駕籠を飛ばして昼夜兼行で街道を急いだ数日前の勢いは、今の牧童にはもうなかった。ひどく寂しかった。この世には自分ひとりしか居ないのではないか、そんな想いさえ湧き上がった。

「さすがに冷えるな」

 吹く風は冷たく汗に濡れた体が震えた。牧童は歩みを止めると、傍らの石に腰を下ろした。既に日は暮れ上弦の月が琵琶湖を照らしている。

「これも、所詮は無駄な骨折りであったか」

 牧童は懐から桐の小箱を取り出すと蓋を開けた。丹精込めて仕上げた小柄小刀。手に持ってかざすと、彫り込んだ金文字が月明かりにきらめいた。行き場を失った献上品、しかしそれは自分も同じだった。このまま金沢へ戻ったとしても、そこに居場所はない。牧童にはわかっていた。門人たちの賞賛も世辞も、全ては自分が言霊の俳諧師たる北枝の兄であるが故に、与えられているに過ぎぬことを。座に列するときには常に北枝が居た。牧童一人だけで句会に招かれることはだたの一度もなかった。必要とされているのは自分ではなく弟。そう、これまで身を置いていたのは蕉門の中ではなく外、そしてその門は固く閉ざされていたのだ。あの許六の屋敷の門のように、決して開かぬ扉を自分は五年間も叩き続けていたのだ。ひとりであることにも気づかずに……

 ――お主をひとりにした者が憎かろう、牧童よ。

 声だった。牧童は周囲を見回した。誰も居ない。空耳だろうか、あるいは自分の想いが声となって自分自身に語りかけたのかも知れない。牧童は夢を見るような面持ちで小柄を眺め続けた。

 ――発句を詠め。わしがお主を吟詠境に連れて行ってやろう。

 まただ。牧童は立ち上がった。間違いなく聞こえる。頭の中に直接響いてくる幻聴にも似た声。そして、その声は確かに言った、自分を吟詠境に連れて行ってくれると。手の中には月光を浴びて妖しく光る小柄、その刀身に自ら彫り込んだ発句を牧童は詠んだ。

「月薄きもし魂あらば此のあたり……」


 夕暮れの空に浮かんだ眉月は、薄れていく陽光を慕うように今にも沈もうとしていた。茜色に染まった薄暮の湖面には暗い波頭が無数に現れ、落ち着かぬ心が発する言葉のようにざわめいている。海かと見まごうほどの広大な湖、その水辺に牧童は立っていた。その正面にもう一人、黒い法衣をまとった高齢の出家僧が牧童を見詰めている。

「あ、あなたは、一体」

 ここが吟詠境なのは間違いなかった。そして、それを開いたのが自分の前に立つ男であることも牧童にはわかっていた。知りたいのはその男の正体だ。牧童は今一度、自分の前に立つ老人の顔を見た。やはり見覚えはなかった。

「鈍い男よ。わしがお主の持つ小柄に宿った言霊であることにも気づかぬとは」

 見れば男の手には先程まで牧童が見詰めていた小柄が握られている。

「言霊……しかし、言霊を持たぬ者を吟詠境に誘えるのは言霊の俳諧師だけ。しかも人ではなく小柄に宿った言霊がそのような事を」

「そうだな。そのような事の出来る言霊は滅多におらぬ。よほど力がなければ叶わぬ業だからな。だが、わしはその力を持っておる」

 牧童の顔が蒼ざめた。他人の発句を即座に己の発句と成して共感を持ち、それが刻まれた小柄に宿る行為には、相当な力を必要とするはずだ。それを平気で行い、言霊を持たぬ者を吟詠境に招き入れる……これだけ強大な力と業を持つ言霊は、今の世において芭蕉以外には一人しか居ない。

「ま、まさか、俳諧の祖、山崎宗鑑殿の言霊……」

「いかにも」

 不敵な笑みを浮かべる宗鑑を見て牧童は後ずさりした。蕉門に座する前、牧童は談林派に属していた。その宗匠である西山宗因の言霊を奪ったのがこの宗鑑なのだ。しかも宗因亡き後、次の狙いは蕉門の俳諧師たち、そしてその宗匠たる芭蕉であるとの噂も耳に入っている。自分にとって味方であろうはずがない。牧童は身構えると、厳しい眼差しで宗鑑を睨みつけた。

「そう怖い顔をするな、牧童。言霊の業が欲しいのであろう」

 自分の急所を狙い澄まして放たれたかのような宗鑑の一言に、牧童の心は大きくぐらついた。欲しい、喉から手が出るほど。だがこれほどまでに欲して授けられなかった言霊の業を、宗鑑が易々と授けてくれるとは思えなかった。牧童は疑心暗鬼のまま訊き返した。

「私を……この私を言霊の俳諧師にしていただけるのですか」

「いや、それは出来ぬ。お主は俳諧連歌をわかっておらぬからな」

「では、何故、言霊の業を欲しているのだろうなどと仰るのですか」

 宗鑑が歩き始めた。牧童に向かってゆっくりと近寄っていく。

「お主を言霊の俳諧師には出来ぬ、が」

 牧童の間近に迫った宗鑑は、触れるばかりに顔を寄せて言った。 

「我が言霊の片鱗にならば、してやってもよいぞ、牧童」

 その言葉は牧童にとって驚愕と共に絶望でもあった。言霊の片鱗になれば確かに業は使える。だが、それはあくまで本体の詠唱を補う形に過ぎない。しかも自分単独では吟詠境を開くことすらできぬのだ。片鱗になることは宗鑑の言霊の一部になるのと同等である。

「そ、そのような申し出、引き受けられるはずが」

「出来ぬか。だが、考えてもみよ。お主はこのままでは言霊にはなれぬぞ。命尽きればそれで終わりだ。それでいいのか。片鱗といえども、この宗鑑の言霊の片鱗ぞ。俳諧師の言霊と同等、いや、それ以上の力を発揮出来よう」

 再び牧童の心が揺らぎ始めた。芭蕉から言霊の業を授けてもらうことは、今となっては叶わぬ願いだ。さりとて芭蕉亡き後、業を授けられる力を持つ俳諧師の出現を待つことは、この百年の間に貞徳、宗因、芭蕉の三人しか現れなかった事実に鑑みれば、余りにも望みが薄い。

「牧童よ、蕉門が憎くはないのか。お主をひとりにした門人たちを見返したくはないのか。業を望んでも授けてくれず、俳諧師でもない者を言霊にした芭蕉に恨みはないのか。悪い事は言わぬ。わしの片鱗になれ。共に蕉門の鼻をあかしてやろうではないか」

 小柄を持つ宗鑑の右手が薄っすらと光り始めた。しかし、心乱れたままの牧童はそれに気づかない。

「宗鑑殿のお言葉はごもっとも。さりとてそれは蕉門への裏切りにも等しい行為。怨嗟の情に駆られて道を踏み外すような真似をするのは……」

「やれやれ小者はこれだから困る。ならば」

 宗鑑の小柄の輝きが一際大きくなった。それに気づいた牧童は声を上げた。

「宗鑑殿、何をなさる!」

「開、心意!」

 身を捩ってかわそうとする牧童の胸に、眩い光を放つ宗鑑の右手の小柄が容赦なく撃ちつけられた。息が止まるような衝撃と共に、自分の意識が急速に失われていくのが牧童にはわかった。

「心を決めさせてやろう、牧童よ。お主の中にある蕉門への嫌悪、それを憎悪と敵意に昇華させてやる」

 撃ち込まれた宗鑑の小柄から、何かが自分の中に入り込むのを牧童は感じた。その何かが、次第に薄れていく意識を取り巻いた。弟、北枝の顔が見えた。穏やかな笑顔を浮かべている。兄を慕う柔和な笑顔、いや違う、それは冷笑。言霊の業を持てぬ兄を蔑み見下す嘲りの笑顔なのだ。門人たちの顔が見えた。自分を褒め美辞麗句を並べ立てる彼ら。勿論それも嘘だ。門人はこちらに顔を向け、その目は北枝だけを見ている。誰も自分を見ていない。誰も自分の声を聞いていない。口だけが空々しい称賛を吐き、虚飾の表情を装っているに過ぎないのだ。許六の顔が見えた。芭蕉の顔が見えた。門を閉ざして決して中には入れてくれぬ言霊の俳諧師たち。期待を抱かせたまま自分を放置し続けた宗匠。浮かび上がった顔のひとつひとつは、牧童にとっては今や憎むべき対象だった。どのような手段を講じても倒すべき不倶戴天の相手だった。枯野を焼き尽くすように燃え広がった憎悪は、やがて牧童の全ての感情を支配した。もう、何も迷うことはなかった。

「片鱗となりましょう。共に蕉門を討ち滅ぼしましょう」

「ふっ、手を焼かせおって」

 遂に心を決めた牧童の言葉を聞いた宗鑑は、満足げにそう言うと小柄を左手に持ち替えた。そして右手を牧童の胸に当てると力を込めて言い放った。

「お主を我が言霊の片鱗となし、我が分身をこの小柄に封じよう」

 言葉と共に宗鑑の両手から発せられた言霊の力は、小柄と牧童の体を薄く光らせた。瞬時に牧童は理解した。遂に自分は言霊を手に入れたことを。言霊の力は体の隅々にまで満ち溢れ、新たな何かに生まれ変わったかのようだった。

「宗鑑殿のお力、有難く頂戴いたします」

「牧童よ、これでわしが居らぬ時でも、お主と小柄、この二つの言霊で吟詠境を開くことができる。もっとも、わしが居らねば発句も季の詞も詠めぬ。お主には暗殺詠たる現し身の業を授けよう。時に利あらば小柄の封を解き、門人を吟詠境に誘い、現し身の業によって命を奪うのだ。牧童、出来るな」

「宗鑑殿の片鱗となれば、容易たやすきことかと」

 牧童の返事を聞いた宗鑑はほくそ笑んだ。かつてないほどの手強さを見せる芭蕉とその俳諧師たち。だが、こうして外堀を埋めていけば、やがては蕉門も瓦解する。これまで打ち負かしてきた言霊の業を持つ者たちと同じように……宗鑑は西の空に目を遣った。眉月は既に沈み、夜の闇が空全体を覆い始めていた。


「……はっ!」

 汗びっしょりだった。これほどの寝汗をかいて目覚めたことは父つぁんの記憶になかった。手で顔の汗を拭い、すっかり日が昇った窓の外を眺める。昨日ショウたちが頑張ってくれたおかげで。今日の朝食前の畑作業はなくなった。それにしても寝過ごした。今頃、みんな朝食の席に着いて自分を待っているだろう。そんな他愛ない事を考えながら、父つぁんは夢の内容を頭の隅へ追いやろうとした。けれども、それは無駄な試みだった。忘れようとすればするほど、現実の出来事のような鮮明さで、牧童が、宗鑑が、夕闇に沈む湖の光景が、頭の中に浮かび上がってくる。

「くそっ。一体、何だってこんな夢ばかり……」

 父つぁんはベッドを出て机の引き出しを開けた。蔵から持ち出した錆びだらけの小柄は間違いなくそこにある。怖かった。一度でも触れてしまえば、たちまち囚われて二度と手放せなくなる、そんな予感がした。

 それはひとつの闇だった。日が暮れれば、どんなに抗っても全てを包み込んでしまう闇。誰一人として決して逃れることのできない夜の闇。だがいずれ夜は開け、闇は朝日によって消滅する。この小柄の闇にもいつか夜明けはやって来るのだろうか。眩しいほどの朝日がこの小柄を照らす時が来るのだろうか。その答えを知ることは、闇夜に飛ぶ漆黒の烏を見い出すよりも困難なことのように、今の父つぁんには思われた。

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