サプライズプレゼント
「コ、コトさん」
全く事態が飲み込めなかった。コトは来ない、ソノさんもリクもそう言っていた。そして言葉通り来なかった。でも今ここに居る。しかも見ず知らずの大人の女性と一緒に。僕の視線に気づいたコトが紹介する。
「こちらは私の母。もちろん初対面でしょ」
コトの母親! これは粗相のないようにしなくては。僕は作業着の砂や土を払って挨拶した。
「こ、こんばんは、はじめまして。いつもコトさんに、じゃなくて、えっと……」
「コトで結構ですよ。あなたがショウ君でしょ。素敵な呼び名をありがとうね」
まずい、初っ端からやらかしてしまった。最も重要な第一印象がこれでは台無しだ。これ以上心証を悪くしないように挽回しなくては。
「あ、はい。コトさんには色々とお世話に……」
「コトせんぱ~い!」
いきなりリクが飛び込んできた。まだ話の途中なのに、この傍若無人な振る舞いは目に余る。
「リク、今日一日でまた日に焼けたんじゃない」
「えへへ、これは元からです」
「こんばんは、コトさん。首の怪我はもういいの?」
今度はモリだ。僕らとは比べ物にならないほど作業着が汚れている。
「ええ、跡も残ってないわよ。それよりもモリさん、あなた髪の毛まで砂が付いているじゃない。どうしてそんなに汚れているの」
あれだけ転んだり尻餅をついたりしていたら、全身砂塗れにもなるだろう。モリは恥ずかしそうに、頭の後ろで一つに束ねた髪をポンポンと振って砂を払った。犬が尻尾を振っているようで、なんだかカワイイ。
「あら、コトちゃん、来たの。明日が待ちきれなかったのかな」
「ソノさん、こんばんは。せっかくだからトツさんのお家も見ておこうと思って」
明日が待ちきれない……どういう意味だろう。考えていると先輩と父つぁんがのんびりと歩いてきた。
「あれ、コトさんじゃないか、なんだ、来ないんじゃなかったのかい。それにこの人は?」
先輩の言葉と、その横に立っている父つぁんの表情から、この二人は僕同様コトの来訪を意外に思っているようだ。
「ライさん、トツさん、こんにちは。こちらは母です。ソノさんから聞いていませんか」
首を横に振った後、コトの母親にお辞儀をする先輩と父つぁん。ソノさん、さてはまた何か隠しているな。いや、ソノさんだけじゃなくリクもモリも、コトが来たことにさほどの驚きを見せていない。さては三人ともグルか。
「みなさん、おかえりなさい。お風呂、沸いていますよ」
昼と同じく、おばあさんが入り口で僕らを出迎えている。リクに引っ張られるように歩いて行くコト、それに従うコトの母親とモリ、そして一番遅れて歩き出したソノさん、その腕を僕は掴んだ。
「ソノさん、これ、どういう事ですか。説明してくれませんか」
「ふふ、お姉さんからのサプライズプレゼント!」
佐保姫の時もそんな事を言っていたなあ、このお姉さんは。変なところで子供じみた真似を仕出かすから、驚きを通り越して途方に暮れてしまう。
「そんなプレゼント要りませんよ。いいから説明してください」
僕の困惑顔を実に満足そうに眺めてから、ソノさんは歩きながら話してくれた。あの店でもう一度コトに話してみると言ったソノさんも、コトの頑固さを考えると、改めて一緒に来るよう説得するのは難しいと思ったそうだ。そこで、わざわざコトの家へ出向き、母親にお願いしたのである。せっかくの連休なので家族で北陸旅行はいかがですか、と。なんとも大胆で図々しい申し出ではある。だが、滋賀の旅でのコトの送り迎えのために、既に二度、コトの家を訪問していたソノさんに、コトの母親は少なからぬ信頼を抱いていたようだ。なにより娘を一度旅に連れて行ったもらった恩もあるので、快くソノさんの願いを受け入れ、母娘の二人旅を実現させてくれたのだった。
「今は市街地のホテルに滞在中らしいわよ。本当は明日ショウちゃんに会わせてビックリさせるつもりだったのに、まさかここにやって来るとは思わなかったわ。あたしもコトちゃんからサプライズプレゼントされちゃったみたい」
そこまで尽力してくれたソノさんには、さすがに感謝しなくてはいけないだろうが、それでもちょっと騙されたような気がして素直にお礼の言葉が出てこない。
「でも、ソノさん、コトさんは来れらないって、お昼に言ってましたよね。それって僕らに嘘をついたことにならないですか」
「やだ、ショウちゃん、あたしは、『コトちゃんはあたしたちとは一緒に行けない』って言ったのよ。つまりあたしたちと一緒じゃなければ行けるのよ。言葉通りお母さんと一緒に来たでしょ。だから嘘なんかついてないわ」
「で、でも」
なんですか、この小学生並の屁理屈は。さりとて言い返そうとしてもセリフが出てこない。ぐうの音も出ないとはこのことだろう。やり込められた僕に代わって先輩が口を出す。
「いいじゃないか、ショウ。何はともあれコトさんが来てくれたんだ。ソノさんには感謝しなくちゃいけないぞ」
細かいことには拘らない結果オーライの先輩らしいお言葉である。もとより口達者のソノさんと口論して勝てるはずがないのだから、無駄な勝負は挑まないのが得策だ。僕は立ち止まって深々と頭を下げた。
「コトさんの言葉を翻せるのはソノさん以外にいないという事実を再認識させられました。ソノさんの有言実行には脱帽です。本当にありがとうございました」
「うん、素直でよろしい」
芝居がかった僕の感謝の辞に、ソノさんも先輩も父つぁんも笑顔になった。素直に喜べなかったのは照れのせいなんじゃないか……母屋の中へ消えて行くコトの後ろ姿を見ながら、僕は自分自身にそう問い掛けていた。
コトたちは父つぁんの屋敷と、僕らの農作業後の疲れ切った姿を見ただけで帰るつもりだったようだ。しかし、せっかくなので一緒に夕食をどうですかという父つぁん家からの強い要請で、僕らと晩御飯を共にすることになった。ホテルの方は朝食だけのプランなので問題ないとのことだった。
風呂から出て居間へ入った僕は食卓に並んだ夕食を見て驚嘆した。
「今晩はお刺身だよ~、たくさん食べてね」
ツイン娘のはしゃいだ声、和食は苦手と言っても刺身は好物のようだ。しかしはしゃぎたくなったのはツイン娘だけではない。人数が多いため居間と隣の和室の間の襖を取り去り、十五畳程になった大広間には座卓が二つ。そこに並んだ料理の豪華さは、もはや一般家庭のそれを遥かに凌駕している。尾頭つきのお造りをメインにした刺身盛り合わせの大皿が三つ。人数に合わせて、洗魚、酢の物、煮付けが並び、極めつけに、甘エビが大量に入った丼が中央に置かれている。まるで海産物が自慢の高級旅館のお食事のようだ。まあ、そんな旅館に行った経験はないので、あくまで想像にすぎないのだが。
「こちらに来たからには海のものを味わっていただきたいと思いましてな。今の時期は甘鯛やサヨリですわ」
おじいさんにそう言われても魚の種類はさっぱりわからない。とにかく天然物であることは間違いないようだ。こうして僕らと父つぁん家の総勢十五人の賑やかな夕食は始まった。
「何のお手伝いもしていないのに、こんなご馳走。ありがとうございます」
コトの母親は向こうの座卓に座り、父つぁん家の大人の方々とお話しをしている。こちらの座卓には八人。僕の隣は先輩と父つぁん。そしてコトは僕から一番離れた座卓の端に座り、その横にはリクを始めとする女子部隊が、本丸を守る土塀や櫓の如く立ち塞がっている。せっかくなのでコトと話をしたいところだが、そちらに視線を移しただけで、まるで大番頭の如く睨みを利かせたリクの強面がこちらに振り向けられるので、口を開くことすらできない。
仕方ないので話は諦めて食事に専念しようと思うものの、昨晩と同じく、あまりの豪華さに恐縮してしまい、刺身に向かったはずの箸は、なぜだかその横の大根やら人参やらの千切りを挟んで戻ってきてしまう。たまにはイカそうめんなども挟んでくるが、何の遠慮もなく大皿の刺身を攻撃している先輩の箸の勢いに比べると実に頼りないばかりだ。やがて、大皿の隅ばかりを突っついている僕に気づいた父つぁんが口を開いた。
「おい、ショウ、遠慮せずに魚も食えよ。こんなの海に行けばいくらでも獲れるんだから」
「お兄ちゃんは子供の頃、勝手に魚を獲ってきて、よく漁師さんに怒られてたもんね」
「お前だってその魚を喜んで食ってたじゃないか」
日本海が目と鼻の先に横たわっているだけあって、父つぁんは子供の頃から海に親しんでいたのだろう。しかし、どうやって魚を獲っていたんだ。獲るっていうから釣りじゃないだろうし、まさか素潜りで? そう言えば泳ぎは得意だって言っていたしな。水泳部だったのも頷ける。
「それはそうと、お前も甘エビばかり食わずに魚を食えよ」
「へへ~ん、だって好きなんだもん」
父つぁんに注意されても嬉々として甘エビを食べるツイン娘を見ていたら、ちょっと興味が湧いてきた。ひとつ貰って殻を剥き、そのまま食べると、回転寿司のネタとは一味違う、とろける様な甘さが口の中に広がる。醤油を付けると更に甘さが引き立つ。甘エビという呼び名に納得である。
「面白いエビだなあ。茹でてないのに赤いなんて」
「そりゃ、お前、白身魚の鮭だって焼いてないのに赤いじゃないか。それと同じだ」
先輩は時々、こんな不思議理論を展開することがある。半分冗談かもと思いつつ、取り敢えずは真面目に受けておく。
「何言ってるんです。それなら赤身魚のマグロだって焼いてないのに赤いじゃないですか」
「いや、マグロは焼くと白くなるが、鮭は焼いても赤いままだ。甘エビは茹でても赤いままなので、鮭と通じるものがある」
う~む、そう言われてみればそうか。食物への執念はこれほど鋭い観察力を人にもたらすのかと、思わず感動してしまう。不思議理論で僕の頭を混乱させた先輩は、さっそく甘エビにも食指を動かしている。殻を剥くのが面倒なのか、殻が好きなのか、その両方なのか、先輩はそのまま頭ごと丸々噛み砕いている。これだけ全身を味わってもらえれば、本日の食料になった甘エビ君たちもきっと本望だろう。
「ねえねえ、お姉ちゃんたちってあだ名で呼び合っているんだよね。あたしにもカワイイあだ名を付けてくれないかな」
ツイン娘が突拍子もない提案を仕掛けてきた。僕らのあだ名には意味があるので付けるのは簡単だ。しかし、ほとんど付き合いのない相手にあだ名を付けるのは相当難しい。当然、僕も先輩も今日やって来た女子部隊の面々も沈黙してしまった。
「そうねえ~……シイちゃんなんて、どう?」
沈黙を破って口を開いた、これまた突拍子もないソノさんのお答え。それを聞いたツイン娘は大喜びだ。
「シイ……わあ~、なんだかカワイイ感じ。楽しいのシイだね」
「やかましいのシイだろ」
父つぁんの見事なツッコミである。コトのボケに対してもこれくらいの冴えを見せて欲しいものだ。ただ、僕はソノさんが付けたシイの意味がわかっていた。それは急に食べるのを止めて、ツインの娘の顔を凝視し始めた先輩も同じはずだ。先輩のつぶやきが聞こえる。
「シイ……ソノさん、シイって……」
父つぁんに宿っているかもしれないと僕らが思っていた言霊、牧童。その弟の名は北枝。ツイン娘は父つぁんをお兄ちゃんと呼んでいるから、彼女を牧童の弟の北枝に見立ててシイと名付けたのだ。だが、父つぁんと牧童は無関係だとソノさん自身が宣言したはずだ。どうして今またそれを蒸し返すようなことをするのだろう。まさかソノさんは、シイの中に北枝の言霊を見ているのだろうか。僕も先輩と同じくシイの目を見詰めた。何も見えてこない。
「ライ先輩、どうかしましたか、箸が止まっていますけど」
「ん、いや、ちょっと食べすぎたかな、ははは」
父つぁんの質問は適当にはぐらかして、先輩がこちらを向いた。僕は首を横に振った。先輩も同じ仕草。言霊は見えていないのだ。ソノさんはと言えば、コトたちと一緒になって「よろしく、シイちゃん」とか「シイちゃんのシイは、たくましいのシイだよ」などと言ってはしゃいでいる。その表情からはソノさんの考えは読み取れない。食事が終わったらソノさんに真意を訊かなくては。
「よくわからんな、ソノさんは」
先輩は気を取り直して、再び大皿に自分の箸を差し向けた。釣られて大皿に向かった僕の箸は、今度は桜色の切り身を僕の元へと運んできてくれた。口に入れると歯ごたえのある弾力。噛み締めるほどに増していく甘み。父つぁん家の持て成しの心を味わっているかのように、その美味しさは僕の胸に沁みた。と同時に、薄畳に正座して食事をしていた佐保姫の姿が思い起こされた。これだけのご馳走を前にすれば間違いなく「わらわにも食わせてくれぬか」と言ってくるはずなのに、今はもう、何の呼び掛けもない。食事する佐保姫の最後の顔は、味気のない和菓子を食べさせられてひどく不満そうだった。でも、今の僕ならもっと美味しい物を食べさせて上げられるはずだ、そう思うと、一人で食べている刺身が、ツマの小菊を一緒に食べているかのように、少しほろ苦く感じられた。




