授かる者、授からぬ者
三月に江戸を発って早や四ヶ月。奥州路から北陸に入り、加賀金沢の地を踏んだ芭蕉と曾良は大歓迎を以って迎えられた。当地の俳人たちによって幾度も句会が設けられ、誘われて各地の名所に遊び、気がつけば滞在は既に十日目。折しも曾良の体調が優れず、早々にこの旅を切り上げる必要に迫られた芭蕉は、名残を惜しみながらも、小松に向けて金沢を後にした。
見送りと称して二人に付き従う数名の俳人たち。その中には立花牧童、北枝兄弟の顔も見える。刀研ぎ師の職にありながら俳諧にも良く通じていた二人は、芭蕉の金沢訪問を機に門人となったのである。
道が進むに連れ見送りの数は一人二人と減っていく。やがてこの兄弟のみになった時、芭蕉は歩を止めて牧童に言った。
「これより後は我ら三人で向かいましょう。牧童殿、お見送り感謝致す」
芭蕉の言葉に合わせて頭を下げる曾良と北枝。しかし牧童はその場に立ったまま動こうとはしない。何か大きな決意でもしたかのように、風呂敷包みを握り締めた右手を僅かに震わせ、顔を伏せている。
「牧童殿……」
不穏な兄の気配を察した北枝が声を掛けると、牧童はいきなり両膝を折って風呂敷包みを置き、己の額を地に着けた。
「芭蕉翁、北枝の同行をお許しになるのなら、私もご一緒させてください」
それは芭蕉にとって思いがけぬ懇願ではなかった。それまでの牧童の態度で彼の心持ちは十分わかっていたのである。だがそれはまた受け入れられぬ願いでもあった。
「牧童殿、路銀も持たぬ我らは、行く先々の人の情けに縋って旅をしておる。大人数になれば方々の迷惑にもなろう。北枝を連れて行くのは、体調優れぬ曾良といつ離れてもよいようにとの思惑あってのこと。そなたの気持ちは嬉しいが、同行を許すわけにはいかぬ」
「ならば……」
そう言って顔を上げた牧童の目からは、並々ならぬ決意が感じ取れる。
「ならば、ここで言霊の業をお授けくださいませ」
芭蕉の顔が曇った。牧童の本意はやはりそこにあったのか、そう思うと、この一本気な門人が不憫で仕方なかった。
「私には解せぬのです。何故、弟の北枝には言霊の業を授け、私には授けられぬのか。蕉門に加わる以前より、俳諧の研鑽は弟以上に積んでおります。どうしても言霊の業を授けてもらえぬのなら、その理由をお聞かせ願いたい」
「牧童殿、我らの宗匠に対して、それは余りに失礼な物言いではないか」
「源四郎は黙っておれ」
宗匠の前にもかかわらず俳号ではなく名で自分を呼ぶ、それは一種の侮蔑には違いなかった。けれども北枝はそこに、あくまでも兄としての威厳を保ちたいという牧童の気概を感じ、哀れみに似た想いを抱かずにはいられなかった。芭蕉もまたその目に憐憫の色を浮かべている。
「のう、牧童殿、言霊の業に魅せられるそなたの気持ちはよくわかる。だが、この業は本来、人の手に余るもの。使い方を誤れば己が身を滅ぼしかねぬ。刀研ぎを生業にしておるそなたなら容易にわかるはず。未熟な者が刀を振るえばどうなるか、考えるまでもなかろう」
「この私は言霊の業を使いこなせぬほど、まだ未熟者だと仰るのですか」
芭蕉は何も言わず、ただ牧童を見詰めるばかりだ。牧童は続けて芭蕉に問う。
「では、俳諧の道を究め、剣豪の如き達人になりさえすれば、言霊の業を授けてくださるのですか」
「考えなされ、牧童殿。言霊の業に相応しい己になるにはどうすればよいか。その答えがわかった時、そなたに言霊の業を授けよう」
牧童は強い眼差しで芭蕉を見た。炎が燃え上がるが如き熱き決意が、その目には宿っていた。
「しかとお約束しましたぞ」
牧童は立ち上がって北枝に近寄ると、ここまで大切に持参した風呂敷包みを手渡した。
「兄じゃ、これは」
「西瓜じゃ。立秋を過ぎたとはいえ、まだまだ暑い。道中の渇きを癒すのに使ってくれ」
北枝は大切に受け取ると、頭を下げた。
「お心遣い感謝申し上げる。兄じゃも気をつけてお帰りくだされ」
芭蕉と曾良が歩き始めた。北枝は牧童に未練を残したまま、二人の後を追った。
「芭蕉翁をお頼み申すぞ」
背後から掛けられた牧童の言葉に、北枝は今一度振り向くと頭を下げた。次第に遠ざかっていく三人の後ろ姿。その姿が見えなくなるまで牧童はそこに立ち尽くしていた。そしてそれが、牧童が芭蕉の姿を見た最後だった。
父つぁんが目を覚ますと既に部屋の中は明るくなっていた。不思議な夢だった。芭蕉もその他の俳人も、これまで夢に見たことなど一度もなかった。なにより不思議なのは、夢の内容を鮮明に覚えていることだった。あたかも自分が体験したかのような明瞭さで記憶に留まっている夢、それは父つぁんにとって何かの啓示のように思われた。
ベッドを出た父つぁんは机に向かうと、引き出しを開けて、仕舞っておいた小柄を手に取った。刀身に刻まれた文字、今はその一文字一文字がはっきりと読める。まるで自分の手でそれを刻みでもしたかのように。
「おい、起きてるか。そろそろ準備してくれ」
部屋の外から父親の声が聞こえた。父つぁんは「ああ」と返事をすると小柄を元通りに引き出しの中に仕舞い、寝巻きを脱ぎ捨てた。
味噌汁の匂いがする。食欲をそそられて思わず開けた僕の目に飛びこんできたのは、見慣れぬ板張り格子天井。そうだ、父つぁんの家に来ていたんだっけな。半分寝ぼけたまま布団から起き上がって横を見ると、先輩の布団は既にもぬけの殻。相変わらず早起きだな先輩は、と思いながら布団を出て、味噌汁の匂い漂う居間へ行くと、そこには先輩と父つぁん家の五人が食卓に着いていた。
「よう、やっとお目覚めか」
しまった、どうやらとんでもなく寝過ごしてしまったようだ。
「お、おはようございます。あ、顔を洗ってきますね」
一時間目の授業に遅刻して教室に入ってくる生徒は、きっとこれくらい恥ずかしいんだろうなと変な想像をしながら、洗面所へ行って顔を洗い、少々寝癖のついた髪を整えた。再び居間に戻ってくると、六人は食事に手を着けずに座っている。どうやら僕を待っているようだ。再び恥ずかしさが込み上げてきて、僕は空いている先輩の隣の座布団の上にそそくさと座った。
「さあ、ではいただきましょうか」
いただきますを言って猛然と食べ始める先輩。僕は小声で先輩に小言を言う。
「先輩、どうして起こしてくれなかったんですか」
「いや、起こそうと思ったんだがな、疲れているだろうから寝させてあげてください、って言われたんだよ」
なるほど、そう言われてみると腰や背中が鈍く痛む。あれしきの作業で筋肉痛になってしまうとは、十代の若者としては実に情けない。
「先輩は体、痛みませんか?」
「ふっ、あんな労働、準備体操にもならんぞ。今朝、父つぁんたちは朝飯前にも畑に行っていたらしいぞ。これこそ本当の朝飯前だな」
先輩の駄洒落は笑えないなあ。しかし父つぁんも先輩もさすが鍛え方が違うな。図らずも日頃の運動不足を露呈してしまった自分は、情けなさ倍増である。しかも今日はこの筋肉痛の体で一日働くのだ。少々気が滅入ってしまう。
「昨日は手伝っていただいたおかげで随分捗りましたよ。本当に助かります」
本日一回目のおじさんの「助かります」だ。この言葉を聞くと体に鞭打ってでも助けてあげたくなってくる、そんな自分のお人良しが恨めしい。
「何とか今日中に終わらせてしまいたいですね。手伝えるのは今日までですから」
先輩の言葉通り、明日は蕪村さんから渡されたメモの住所を尋ねる為に、一日自由にしてもらえるように頼んである。四日目の午前中にはここを発つから、農作業の手伝いは今日で終わるのだ。
「午後からは娘さんたちにも手伝ってもらえますから、頑張れば終えられるかも知れませんね」
ソノさんたちは昼頃到着と聞いている。さほど力が要る仕事ではないので、女性でも十分戦力になるだろう。
「あいつは今日も遊びに行くのか」
父つぁんの不機嫌そうな声。あいつとは勿論ツイン娘のことだ。中学生でも手伝える簡単な作業なのだから、それをしない彼女をよく思えない父つぁんの気持ちはよくわかる。
「いや、今日は一日家に居ると言っておった。娘さんたちに早く会いたいようじゃの」
「お客さんが来ているこんな時くらい、一緒に朝飯食えばいいのに」
「女子中学生の朝はやっぱりパンと牛乳だよね、と言っておったな」
「また。変な小説読みすぎなんだよ、あいつ」
「パンと牛乳か。ショウも朝はそうだよな」
「な、何をいきなり、先輩」
おじいさんと父つぁんの会話に、唐突に割り込むだけでも驚きなのに、突然、話をこちらに振るのだから、先輩の夜討ち朝駆け奇襲話法には、白旗揚げて降参するしかない。
「ほう、朝の和食はお口に合いませなんだか」
「い、いえ、最近は毎日おにぎり弁当を持参しているので、朝もおにぎりを食べているんですよ。父はパンですけどね。ははは」
最後は笑って誤魔化す僕。まったく、こっちの身にもなって欲しいものだ。そんな言い方をしたら、こんなに美味しい朝食を用意してくれた父つぁん家の方々の気分を損ねてしまいかねない。先輩は一体、何を考えてこんな余計なことを言うんだろう。
「あれ、そうなのか。てっきり、和食もいいけどパンもいいですね、とか言い出すのかと思ったんだが」
「隣の新屋でも、今頃、パンの朝食を取っているはずだから、行けば食べさせてもらえるはずだぜ」
「だってさ、ショウ。どうする?」
父つぁんの言葉を聞いた先輩の目が輝いている。なるほどそういう事でしたか。つまりこの鮭と卵焼き和風朝食だけでは飽き足らず、パンとミルクの洋風朝食も味わいたいが為の、先程の振りだったのですね、先輩。そんなことに僕を巻き込まないで、食べたいのなら一人で行ってください。
「僕は結構です。もうお腹一杯ですから」
「なんだ、つまらん。あ、ご飯、お代わりお願いします」
食物に関しては遠慮がないなあと改めて思う。ご飯をお代わりしたのだから、先輩も洋風朝食獲得作戦は諦めたことだろう。だからと言って食物への情熱が消えたわけではない。今日も一日、先輩の大食いが見られそうだ。
朝食を済ませてしばらく一休みした後、昨日と同じく父つぁん家提供の作業着に着替えて外に出た。軽トラックの前にツイン娘が立っている。
「なんだ、今日はお前も手伝うのか」
「まさかあ、お見送りだよ。はい、これ。麦茶が入った水筒。今日は昨日と違って暑くなりそうだから、働いている最中でも喉が渇いたら飲んだ方がいいよ」
父つぁんの眉間に皺が寄る。何か言おうとして我慢しているのがありありとわかる。昨日の先輩の忠告に従って、ツイン娘への文句を自制しているのだろう。
「夢と逆だな」
ボソリと父つぁんがつぶやいた。父つぁんの独り言か。初めて聞いた気がする。ここに来てからの父つぁんは、どうも普段とは微妙に違っている。
「夢って……あ、お兄ちゃん、もしかして女の子に振られた夢でも見たのかな。これをやるから俺を捨てないでくれ~、とか」
「ショウ、ライ先輩、行きましょう」
父つぁんは水筒だけ受け取ると、ツイン娘の戯言を無視して、軽トラックの荷台に乗り込んだ。どうやら本日も道路交通法違反の疑いのある行為をしなければならないようだ。僕と先輩も続いて乗り込むと、定植を待っているスイカ畑向けて、車は出発した。




