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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
一 野武士の彼女
2/61

帰宅部クラブ

「まぶしい」

 と、つぶやく自分の声に、はっと目が覚めた。カーテンの隙間から部屋の中に朝日が差し込んでいる。「夢か」とつぶやきながら枕元の目覚まし時計を見て、ぼけた頭が一瞬で覚醒した。

「しまった、寝過ごした」

 慌ててベッドから飛び降りパジャマ姿のまま部屋を出て階段を駆け下りる。居間には誰かの気配がある。

「父さん?」

「よう、おはよう。今朝は随分のんびりじゃないか」

「せ、先輩」

 そこに居たのは父ではなく先輩。隣に住むひとつ上の幼馴染だ。家が隣同士なだけあって幼稚園から高校に至る現在までずっと一緒、もはや兄弟と言ってもいいほどのべったりなお付き合い。しかも幼稚園の頃から先輩は自分のことを先輩と呼ばせているので、今では「せんぱい」というのが本当の名前じゃないかと思うほどに馴染んでしまった。その先輩は居間の椅子に腰掛けて食卓のトーストをかじっている。

「父さん、もう出勤しちゃったか。まあ、こんな時間だし当然か」

「そうそう、後は君に任せたよと仰せになり、ご出勤なされました」

「それはご迷惑様でございました」

 先輩のおどけた口調に気分が和らぐ。幼い頃に母親を亡くして以来、隣に住む先輩の家族には世話になり通しだった。父の帰宅が遅くなる時は、家に上がらせてもらってよく夕食を共にした。遅くならない時でもあれやこれやと惣菜を持ってきてくれた。ただ今朝のように先輩がここで食事を取るのは滅多にないことだ。不思議に思って訊いてみる。

「それにしても、なんで先輩がうちのトースト食べているんですか。朝ごはん食べさせてもらえなかったんですか」

「いや、食べたよ、そりゃもう腹一杯。でもうちの朝はご飯と味噌汁だろ。ここに来てトーストを見たら、ちょっといつもとは違うブレイクファーストを楽しみたくなってな」

 そう言いながら二枚目のパンにジャムを塗る先輩に少々呆れはしたものの、いかにも先輩らしいと可笑しくもなった。

「それでここでパンを食べているってわけですか」

「そういうこと、まあ固いこと言うなって。お前の分はちゃんと取ってあるんだから。それより、早く支度しろよ。ぐずぐずしてると遅刻するぞ」

 そうだった、寝坊したのをすっかり忘れていた。それからバタバタと身支度を整えて、先輩が焼いておいてくれたトーストを、これまた先輩が温めておいてくれた牛乳で流し込むと二人一緒に家を出た。

「しかし入学して十日も経たずにもう寝坊か。あれほど苦労して入った高校なのに、ちょっとたるんでるぞ」

「はい、すみません」

 確かにその通りだった。家から最も近く、これまでずっと一緒だった先輩も通っているこの高校を志望校にしたのは、僕にとっては至極当然なことだった。ただひとつの障害はその入学可能学力レベルが自分のレベルの遥か上に位置していたことだ。

 親も教師も無理だと言い、必死に勉強を教えてくれた先輩も顔を強張らせ、自分自身さえもほとんど疑心暗鬼だったこの高校に合格できたのは、神のご加護としか言いようがないほどの奇跡であり、これだけの幸福を与えていただいた以上は粉骨砕身して学業に当たらねば罰が当たると重々承知してはいるのだが、やはり気分は重いのだった。

「おいおい、今頃から五月病か。まだ新生活に慣れてないのはわかるが、俺の後輩としては情けないぞ。しっかりせんかあ」

 バシッと、でかい右手が背中を叩く。先輩は運動部系のごつい体格なので手加減されてもかなり痛い。しかしその痛みをこらえ、挙手敬礼の姿勢を取ると、

「はっ、闘魂注入、感謝であります」

「よおし、それでいいんだ、はっはっは」

 と、いつも通りの受け答え。一体これまで何百回背中を叩かれてきたことだろう。きちんとカウントしてギネスに申請すれば、文句なく登録されるような気がする。世界で一番背中を叩かれた男として。

「おっと、話は変わるが来週からは一緒に登校できないぞ」

「どうしてですか?」

「剣道部の朝練が始まるんだよ。だからいつもより一時間は早く登校しなくちゃならん。今年は新入部員が多いからしごき甲斐があるな、うん。ところでお前の剣道部入部届けはまだ来てないようだが」

「先輩、それは何度も言ったでしょ。僕は文化系のクラブにするって。中学の時も部活動はやってなかったんだし」

「いや、高校入学を機に肉体改造に目覚めるかと思ったんだが。まあ、まだ決めてないなら今一度の再考を期待したい。じゃあな」

 校門を過ぎたところで先輩と別れ、一人で校舎の入り口へ向かう。校庭の隅にある水溜りには、無数の桜の花びらが変色して沈んでいる。満開だった頃の華やかさが嘘のようにしなびた花びらを見て、僕の口から無意識にひとつの句が転がり出た。

「さまざまの事思ひ出す桜かな……」

 と同時に、僕の脳裏にあの忌まわしい思い出が蘇った。季節はこんなに春なのに、気分は今でも真冬なのは全てあの出来事のせい。あの人生最大の汚点ともいうべき大失態さえなければ、こんなに暗い高校生活のスタートを切ることもなかっただろう。


 中学の卒業式の日、一人の女子に告白をした。三年で初めて同じクラスになったその子を僕は密かに歌姫と呼んでいた。別に彼女の歌が上手いとか美声であるとかそんな理由で付けたのではない。背中まで伸びた黒檀のような髪や、物静かで口数の少ない普段の態度はいかにも姫という感じだったが、それ以上に特筆すべきは毎年正月明けに開催される全学年一斉百人一首大会で三年連続優勝という偉業を成し遂げたことだ。

 短歌が得意な姫、称して歌姫、今考えるとかなり安直な名付け方であるが、当時は相当気に入っていたのだと思う。卒業と同時に処分してしまったノートや教科書のあちこちに歌姫の文字が散在していたのは、今となっては早く忘れたい思い出だ。

 学力不相応なこの高校を選んだ動機として、実は彼女が進学を希望していた高校であるという事実が大きな要因でもあった。当たって砕けろ的な挑戦だったのだが、奇跡的に合格が決まった時、僕はそこに運命を感じた。これは神が僕と彼女を結びつけるために仕組まれた天の意志なのだと。ならばそれに応えないわけにはいかないだろう。そんな大いなる勘違いが彼女への告白という暴挙に僕を導いたのだ。

 式が終わった後、制服の第二ボタンをやり取りする男女、ピースサインをして携帯で写真を撮る仲良しグループ、大急ぎで色紙を回して書き殴る男集団、そんな光景が校庭のあちこちで繰り広げられている中、偶然にもひとりでいる歌姫を見つけた僕は思い切って声を掛けた。

「あの、こんにちは」

「あら、こんにちは」

 ほとんど無表情な顔での受け答えに少し気後れしたものの、一旦声を掛けてしまったら、あとは突っ走るしかない。

「これ、受け取ってもらえませんか」

「私に? 何かしら」

 差し出したのは一枚の短冊。百人一首が得意な歌姫への恋文なら、ありふれたラブレターよりも歌で表現するのが一番だと考え、受験勉強の合間に練り続けてモノにした傑作を墨で短冊に書きつけたのだ。

「短歌が得意みたいだから、今の気持ちを歌で表現してみました」

 そんな僕の声を聞いているのかいないのか、歌姫は何も言わずに短冊を眺めている。予想以上に長く続く沈黙の時間に、いたたまれない思いが募り始めた僕は更に付け足す。

「高校も一緒なんですよね。それで、もしよければただの友達としてじゃなく……」

「恥ずかしいわね」

 僕の言葉をさえぎって、つぶやくように言った彼女の言葉は少し意外だった。どんな時でも常に沈着冷静で、恥ずかしいなんて素振りを見せたことはこれまで一度もなかったからだ。

「え、あ、そ、そうなんだ。君はあまり物怖じしない感じの人だと思っていたけど」

「勘違いしないでくれるかしら。恥ずかしいのは私じゃなくてあなたよ」

「僕? それは、どういう……」

 またもや僕の言葉をさえぎると、彼女は短冊を顔の前に掲げ、

「春風や 恋する桜 咲きにけり」

 と、ゆっくりと間をあけて読む。自分の作品ながら、こうして人に読まれると、かなり照れくさくなり、思わず目を伏せてしまう。

「あなた、歌って言っていたけれど、これ十七文字しかないわね。下の句はどうしたの」

「あ、それが、その続きが思い浮かばなくて。でも他の本を見たら十七文字の歌もあったから、いいかなって」

「それは短歌じゃなく俳句。つまりこれは俳句と考えてよいのかしら」

「あ、俳句か、うん、そういう事になるのかな」

「なら、ますます恥ずかしいわね」

「えっ?」

「春と桜、季語が二つも入っているじゃない。それに『や』と『けり』、切れ字も二つ入っている。俳句のルールではどちらも基本的にはひとつだけ。そんなこと中学生なら常識でしょう。おまけにまだ咲いてもいない桜を詠むなんて、興ざめもいいところだわ。こんな恥ずかしい句を作って、作るだけでは飽き足らず他人にまで見せてしまうなんて、あなたみたいな人を厚顔無恥って言うのかしら。傍から見ているこちらの方が羞恥を覚えるくらいのその国宝級の恥ずかしさには、呆れたを通り越して感動さえしてしまうわ。もしかして、あなた、私をからかっているの? わざと出来損ないの句を作って、私をバカにしたいの?」

「ち、違います!」

「違う? 何が違うの?」

 詰問する彼女の顔は真剣そのものだった。加えてその眼差しには怒りさえも感じられる。完全に想定外の成り行きに僕は必死に弁解する。

「知らなかったんです、本当に。ただ七五調になってればいいだろうって、そんな単純な考えしかなくて、細かい規則なんかは本当に知らなくて」

「そう」

 彼女の目の怒気が幾分和らいだ様だ。これでは自分は無教養な人間だと宣言しているようなものだが、それが事実なのだからどうしようもない。好きな子の前だからと言ってカッコつけている場合ではないのだ。

「でも、それなら、あなた相当勇気があるのね」

「えっ?」

「誰かに自分の気持ちを伝えるのなら、それが確実に伝わるようにきちんと準備をするものでしょう。それが好きな子への告白なら尚更のこと。用意周到、諸事万全を期して臨むべきなのに、あなたは全くの準備不足、いいえ準備さえもしていない全くの行き当たりばったり。例えるなら何の装備もせず、裸一貫で矢石飛び交う合戦場に突撃していく無謀な雑兵。その勇気は褒めてあげるけれど、結局は玉砕して自分の蛮行を後悔し、涙を流しながら野垂れ死ぬ、それが今のあなたなのよ」

 何も言えなかった。反論しようという気持ちにすらなれなかった。なにもかも彼女の言葉通りだったから。ただ後悔はしていなかった。少なくとも彼女は自分が思っていたのとは全く違う人間であることがわかったのだ。それだけでも今日の自分の行動には意味がある、そう感じていた。

「で、」

 彼女の冷たい声が聞こえる。

「他に何かご用件は?」

 用件、それはもちろん決まっている。恋文を渡した後の用件と言えばその返事、つまり相手は自分をどう思っているかを聞くのが次の段取りになるのだが、もはやそんなことは聞かなくてもわかっている。僕は深々と頭を下げた。

「すみませんでした。そんなつもりはなかったのですが、随分と不愉快な思いをさせてしまったみたいで。あの、その短冊、受け取ってもらわなくてもいいです。返してください」

「嫌よ」

 それもまた予想外の答えだった。さっきまで散々に貶していたのに、どうして……

「返さないわ。だって、あなたのことだから、もし返してしまったら、こんなモノ二度と見たくないとか言いながら、クシャクシャにしてビリビリに引き裂いてゴミ箱に捨ててしまうのでしょう。それではこの短冊が可哀想だわ」

「いや、でもそんなモノ、手元に置いても迷惑なだけなんじゃ」

「そうね、確かにあなたの言うとおり、こんなモノを所有していてはそれだけで私の人格まで疑われかねないわね。でもこんな劣悪最低なグッズにだって役に立つことはあるはずよ。そうね、例えば、もし将来、私が何か大変な失敗をしでかして、凄く落ち込んだとしても、この短冊を見ることで、奈落の底まで突き落とされたような今のあなたのみすぼらしい姿を思い出せば、どんなに落ち込んでいたとしても立ち直れるはずだし、もし将来、私がとんでもない大恥をかくことになったとしても、この短冊を見ることで、生き恥を晒しながらも堂々と生きているあなたの姿を思い出せば、決して挫けることはないはずよ。ね、だからこれは私が大事に預かっておいてあげる。そして時々眺めては今日のあなたの恥ずかしい姿を思い出してあげるわ。どう、嬉しいでしょう」

 はっきり言って、ここまで人に侮辱されたことはなかった。そして彼女の言葉を借りれば、それこそ呆れたを通り越して感動を覚えるほど、完膚なきまでに痛めつけられてしまった僕の心は、このまま悪夢のような会話を続けて、これ以上傷を広げられることを拒否し始めていた。潮時だ。

「今日はご迷惑をおかけしてすみませんでした。さようなら。もう二度とあなたと話すことはないと思います」

 僕はそう言って、後ろも見ずに駆け出した。初めての失恋だったが不思議と涙は出なかった。その代わりに時間が経つにつれ怒りがこみ上げてきた。それは彼女に対してではなく、人を見る目を持たなかった自分に対してである。歌姫などと呼んで、彼女こそこの世で最高の女性だなどと思っていた自分を本当に愚かに感じた。

 そう、歌姫と言うよりはむしろ野武士。無抵抗の相手を情け容赦なく斬り捨て、それだけでは満足せずにその傷口を広げ、更にそこに塩を塗り込んでしまう無慈悲な所業を平気で行える人物、それこそが彼女の真の姿だったのだ。それ以来この出来事は心の中に重く沈殿し続けている。


 これがこの春に起きた人生最大の汚点だ。忘れようとしても繰り返し蘇るあの日の光景を頭から振り払いながら、靴を上履きに替え廊下を歩き教室に入る。男女が一列ずつ名簿順に並んでいる僕の席は真ん中の一番前。そしてその右後ろの席に座っている人物を見て、僕の気持ちはさらに落ち込む。

 この思い出だけでも十分憂鬱なのに、あろうことかあの野武士の彼女と同じクラスになってしまったのだ。しかも席が右斜めひとつ後ろという常に監視されているような位置取り。授業中、前からは教師の視線、後ろからは凶悪な野武士の睨みに挟まれて、それこそ緊張の解ける暇すらない僕は、前門の虎後門の狼という諺の意味する恐ろしさを骨の髄まで体感できた気分だった。

 もちろん、彼女とは入学以来一言も口をきいてはいない。向こうも完全に無視を決め込んでいる。もっとも、こちらとしてはその方が有難い。口達者な野武士と会話なぞしようものなら、傷だらけにされてしまうのが落ちである。

 昼休みはこの緊張状態から開放される唯一の時間だ。入学当初は各々自分の席で弁当なりパンなりを食べていたが、このごろではグループもでき始めて、あちこちで机を並べ替え複数で食べあっている。野武士の彼女は窓際の席で、他の女子生徒と二人で弁当を広げている。僕も自分の椅子を後ろ向きにして、二人で向き合って昼食を食べ始めた。

 一緒に食べている彼は、中学での知り合いとか何かの切っ掛けがあって仲良くなったとかではなく、言わば自然発生的な友人だった。なにしろ朝礼でも音楽室でも理科室でも体育の授業でも席順や並び順は全て名簿順である。つまり、いついかなる時でも僕の前後左右のどこかには彼が居る。一日中無言でいるわけにもいかないので、近くの彼と話をする。その内に気心が知れて仲良くなる、という具合だ。

 もっとも彼自身、気さくでいい奴だったのも仲良くなれた一因かもしれない。年の割りに髭が濃く老けて見えるので、勝手にとっつぁんと呼んでいるのだが、そんなあだ名も笑って許してくれる大らかな人柄なのだ。

「で、クラブ、何にするかもう決めたんだっけ?」

 父つぁんがおにぎりを頬張りながら尋ねる。彼の弁当はおにぎり率が非常に高い。最初は、おにぎりなんて何だか遠足みたいだな程度にしか思わなかったが、日が経つにつれ、学生生活におけるおにぎり弁当の有益性に次第に気づき始めた。

 第一におにぎりの最大の利点は容易に早弁できることにある。ご飯詰めの弁当箱ではまず机の前に座り、箸などを用意し、どこで食べるのを止めるか迷いつつ、食べた後には弁当箱、箸などを片付けなくてはならない。しかし、おにぎりは容器からひとつ取り出せば、あとは歩きながらでも食することができ、食べる分量で悩むこもとなく、食べ終われば後には何も残らず、パンよりも満腹感が味わえる。手軽さと腹持ちの良さにおいて右に出るものはないであろう。

 もうひとつの利点は他人に容易に分け与えられることだ。これは友人関係が希薄な入学直後においては、絶大な効果を発揮する。父つぁんは昼食時に声を掛けてきた級友には、「あ、ひとつどう?」と言っておにぎりを差し出す。食べ物を貰って喜ばない人間は滅多に居ないので、それだけで好感度は上昇。こうして信頼関係を築いておけば、今後、宿題のし忘れ、試験前のノートの貸し借りなどの際、極めて有利に働くのは疑いの余地がない。

 かく言う自分も毎日父つぁんからおにぎりを頂戴している身分である。しかし、これは何かを期待してというよりは、同情によるものが大きいようだ。母が居ないので弁当は自分で作るか父に作ってもらうしかないが、どちらの選択も負担が大きいので、入学以来ずっと学内購買部のパンと牛乳で済ませている。

 父つぁんは、僕が弁当を持参しない理由を聞くこともなく、まるでそれが当然であるかの様に、弁当がおにぎりの日には必ずひとつくれる。一緒に食べ始めて数日した頃、さすがに毎日貰うのは心苦しくなって、

「そんなに気を遣ってもらわなくってもいいんだぜ」

 と言ってはみたが、

「いや、一人で食べるには多すぎるし、残すとうるさいから」

 と、まるで意に介さない様子で、食べ終わったパンの空き袋の上におにぎりを置く。以来、好意を有難く受け取る日々が続いている。

「クラブか、まだどこにも入部届けは出してないなあ」

 さっそく本日のおにぎりを食べながら答える。今日の具は子持昆布の佃煮。父つぁん、お気に入りの一品である。

「そろそろ決めないといかんだろ。期限までに届けないと呼び出し食らうぞ」

 この高校の部活動は基本的に一年生は全員参加になっている。これまで放課後の部活動の経験なぞ全くない身としては、そう軽々しくは決められない事柄であった。

「父つぁんは水泳部だっけ」

「いや、俺は剣道部にしたよ」

「えっ、どうして」

 驚いた。以前、クラブの話題が出た時、父つぁんは中学三年間は水泳部で、しかもジュニアライフセービング教室に参加したこともあると言っていたからだ。

「泳ぎは得意だって自慢していたじゃないか。この高校って確か水泳部もあったはずだし、どうして剣道部なんだよ」

「うん、高校でも水泳部にするつもりだったんだけど、たまたま剣道部に見学に行った時、物凄く勧誘熱心な人がいてな、俺の腕や胸を触って、君は剣道をする星の元に生まれている、これは運命なのだ、さあ入部しよう、とか言って背中を叩くもんだから、つい」

 僕は耳を塞ぎたくなった。それが誰か大体の想像はつく、と言うか、先輩以外あり得ない。

「ごめん、その人、僕の知り合いなんだ。いい人なんだけどちょっと強引なところがあって」

「なんだ、そうなのか。でも別に謝ることはないよ。実は体に筋肉がつき始めてからタイムがなかなか伸びなくなってきてたんだ。ちょうどいい踏ん切りをつけられたと今では思ってる」

 それが本当のことなのか、僕に気を遣わせないための方便なのかは判別できなかったが、父つぁんがいい奴であることだけは間違いなかった。良い友人を持たせてくれた出席名簿に僕は心から感謝した。

 弁当を食べ終わった後は机を元に戻して教室の外に出る。父つぁんには中学からの知り合いが多く、よそのクラスには親友もいるようなので、昼食時以外の付き合いは控えるようにしている。野武士の彼女と先輩以外、親しい知人が居ない自分は、晴れた日には午後の授業が始まるまで校庭で日向ぼっこなぞしながら、ぼんやり過ごしている。

「文芸部」

 青空を眺めながらそうつぶやいた。それが現在検討中のクラブだ。今のこの重い気持ち、三月の大失恋以来、暗雲立ち込めているこの胸のもやもやを晴らすには、あの侮辱の言葉を打ち消せるほどの知識と教養を身に付けるしかない。とは言え、これはお見事とあの野武士が膝を打つような名句を、自分一人の力で詠めるようになれるとは到底思えない。独力で無理なら誰かの力を借りてそれを成し遂げるしかない。誰かの力、即ち文芸部の力である。これまでなかなか踏ん切りがつかなかったが、水泳部の父つぁんが剣道部に入部したのを聞いて僕にも勇気が湧いてきた。ここは高校受験のときと同じく、当たって砕けろの精神で行ってみるしかないだろう。


 その日の放課後、文芸部の部室になっている図書室に行った。貸出返却カウンターの図書委員に文芸部入部希望の旨を伝えると、閲覧室の奥の生徒を指差しながら、あそこに座っているのが部長だから話してみてくださいと教えてくれた。少しドキドキしながら歩いて行き、声を掛ける。

「あの、すみません、文芸部に入部したいのですが」

「おっ、新入生だね。入部歓迎するよ。そこに座って。届けは書いてきてるのかな」

「あ、はい」

 と言いながら部長の正面にテーブルを挟んで腰掛け、用意してきた入部届けを渡す。メガネをかけた優しい感じの部長だ。これなら読書と縁遠い自分でも、手厳しく扱われることもなそうだ。

「はい、OK。そしたらこっちの紙にも記入してくれるかな」

 それはクラブ専用の名簿のようで学年、組、氏名や連絡先などの項目が並んでいる。言われるままに書き込みながら、ちょっと気になって顔を上げ周りを見回す。誰も居ない。文芸部の部室のはずなのだが、僕と部長以外は一人も見当たらないのだ。

「あの、誰も居ないんですけど、部員の皆さんはまだ来てないのですか」

「ああ、いや、まあ、そういうことになるのかな」

 部長は少し困った顔をして続ける。

「文芸部と言っても、ウチは帰宅部クラブだから」

「帰宅部クラブ?」

「そう、この高校は一年生は全員クラブに強制参加させられるよね。でも放課後は部活動なんてやらずにすぐ帰宅したいって生徒もいる。そんな生徒のために、名目上は存在するけど実質ほとんど何の活動もしていないクラブがあるんだ。部室にも寄らず帰宅してしまうから、名づけて帰宅部クラブ。この文芸部もそんな帰宅部クラブのひとつで、部員のほとんどはそのつもりでここに籍を置いている」

「そ、そうなんですか」

「うん、だから生徒会から分配される予算は最低額しかないし、学園祭の時だって、その年に図書室に入った新刊を展示するだけの手抜きな発表。もし、君が何かしたくて入部したのなら、残念だけどその希望は叶わないと思うよ。一人でやってもらうか、もしくは一緒にやってくれる仲間を探すか。入部したてで、こんな事を言うのは気が引けるけど」

「は、はあ」

 これは喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、とにかくお気楽な学生生活は送れそうだが、さっきの決意はここで早くも挫折したことになる。記入し終わった紙を渡すと少し考え込んでしまった。そんな僕の様子を見て、部長がすまなそうに訊いてきた。

「もしかして、何かやりたいことがあったのかな?」

「あ、ええ、実は俳句に興味があって」

「ほう、俳句」

 ふと、部長の声の調子が変わったような気がした。

「俳句って、誰か好きな俳人とかいるの?」

「あ、ああ、芭蕉とか、かな」

 これは何も適当に言ったのではなく、あの恋文短冊を製作する時に、一番参考にしたのが芭蕉だったのだ。よく読んであの程度の物しか出来ないのだから、芭蕉も草葉の陰で泣いているはずである。

「ちょっと待ってて」

 部長は立ち上がると、書棚に向かって歩き始めた。その一隅で本の背表紙を物色している。しばらくして三冊の本を持って帰ってきた。

「これは俳句の入門書。俳句の歴史とか鑑賞の仕方とか書いてある。これは芭蕉についての本、芭蕉の生い立ちや作品なんかはこれでわかる。それからこの一冊は、自分の趣味になって恐縮なんだけど、」

 部長は最後に示した本のページをパラパラめくり始めた。

「芭蕉以前の俳諧に少し興味があってね。ホラ、この句なんかどう。読んでみて」

 部長が指差した箇所を見る。作者も作品も全く知らない。

「えっと、松江重頼 やあしばらく花に対して鐘つく事、ですか。どういう意味なんだろ」

「鐘をつくのはしばらく待ってください、花が散っちゃうから、って意味なんだ。なんだか面白いだろ」

「本当だ。これ、ほとんど話し言葉ですね」

「俳諧って、基本的にこんなものだったんだよ。みんなで笑って楽しめるものなんだ。ね、君、」

 また部長の声が変わった。はっとして顔を見るとメガネの奥の目がこちらをじっと見詰めている。

「イメージしてみて、鐘つき場、そこに咲いている満開の桜の木、撞木を振るおうとしている僧侶。そしてもう一度言ってみて、今の句を。やあしばらく花に対して鐘つく事」

「やあ、しばらく……」

 何か違和感があった。どこかに引き摺りこまれていくような感じだ。この世でありながらこの世とは言えぬ世界。夢。不意に脳裏に今朝見た夢の光景が蘇った。どことも知れぬ枯野で対峙する二人、あの世界、あの世界に似たこの感じは……

「あら」

 背後から誰かの声がして我に返った。夢から覚めたような気分だ。部長を見ると最初の時の穏やかな顔に戻っている。今、何が起きて、いや何が起ころうとしていたんだろう。

「やあ」

 部長が顔を上げて誰かに声を掛けた。文芸部の部員が来たのだろうか。それなら新入部員として自分も挨拶をしておかなくてはいけないだろう。僕は席を立ち振り返った。そしてそこに立っている人物を見て心臓が凍りつきそうになった。野武士の彼女だった。

「ど、どうして君がここに!」

「あら、心外ね。私が図書室にいて何かおかしなことでもあるのかしら」

「ああ、彼女は文芸部の新入部員だよ。で、こちらは今日入部してくれた新人さん。君たち知り合いなのかな。それなら新入部員同士仲良くやってくれよ」

 迂闊だった。百人一首の達人が文芸部に入る可能性を考慮すべきだった。中学の時は僕も彼女も部活動はしていなかったので完全に油断していた。どうする、如何に帰宅部クラブとは言え、同じ部に所属してしまっては、全くの無関係でいられるはずもないだろう。

 クラスメイトというだけでなく同じ部員という関係まで作ってしまっては、現在かろうじて灰色に留まっているこの高校生活が確実に暗黒に染まってしまう。しかもほとんど活動休止中のこんな文芸部に入っても今のままでは俳句の上達なぞあり得ない。入部を撤回すべきか。いや、男が一度決断した以上それはあまりに見苦しい。どうする自分!

「ここは帰宅部クラブとして有名ですからね」

 こちらの煩悶をよそに野武士は涼しい顔で部長と話をしている。僕は彼女に背を向けると、椅子に座り直した。

「いやいや、彼は一応目的意識があって入部してくれたんだよ」

「目的、ですか?」

「そう、何でも俳句に興味があるらしくてね。今もこうして俳句の本を紹介していたところなんだ」

 この部長の言葉で僕の心臓は完全に凍りついた。どうしてそんな言わなくてもいい事まで喋ってしまうんだ、この部長さんは。彼女を見返すために文芸部に入部したのが、これではバレバレだ。

「ふうん、そうなの。俳句に興味があるんだ」

 野武士の見下したような声が背中に浴びせられた。

「あのままへこんでしまうのかと思ったけれど、意外と挫けない性格だったのね。その根性と向上心は見上げたものだわ。ちょっとだけ見直してあげる。よっぽど悔しかったのかしら、それとも」

 野武士の気配が近くに感じられた。耳元にささやくような声が聞こえてくる。

「まだ諦められないのかしら」

 顔がカッと上気した。凍りついたはずの心臓が激しく脈動を開始する。諦められないだって、何を馬鹿な。野武士の事なんかとっくの昔に……

「ん、諦められないって何を?」

「何でもありません!」

 部長の言葉をさえぎって僕は勢いよく立ち上がると、最初に紹介してもらった二冊の本を小脇に抱えた。

「続きはこの週末に家でしっかり読もうと思います。今日はありがとうございました。失礼します」

 そして脱兎のごとく閲覧室を後にした。これ以上あそこにいては、何を言われるかわかったものではない。そのままカウンターに直行して図書貸出の手続きをするが、初めての利用ということで貸出カードの作成やらなにやらで少し手間がかかる。とにかくこの場から早く立ち去りたいとそればかりを考えながら必要事項を記入していると、

「ショウ君」

 聞き覚えのある声がする。ビクッとして振り返ると野武士だ。

「な、何だよ、ショウ君って」

「部長さんに聞いたわ。あなた芭蕉が好きなんでしょう。だからショウ君。これからそう呼んであげる。どう、嬉しい? 好きな人の名前で呼んであげるのよ」

 いや、自分は構わないけど、きっと芭蕉さんが気を悪くすると思う、と言いたかったのだが、そんな口答えをしてしまっては、その後にどれほど恐ろしい言葉が襲い掛かってくるか知れたものではないので、ここは沈黙することにした。そう呼びたいのなら呼べばいい、触らぬ神に祟りなしである。

 僕が何も言わないので、野武士も少し気勢をそがれたのか、それ以上は何も言わず隣に来て本の返却手続き始めた。ここへ来たのは部活動のためではなく、どうやらただ単に本を返しに来ただけのようだ。返却手続きは簡単ですぐ終わる。こちらのモタモタをよそにさっさと出口に向かう野武士に内心ホッとしていると、僕の後ろを通り過ぎていく野武士から小さな声が聞こえた。

「あの部長さん、気をつけた方がいいわよ」

「え、それはどういう」

 野武士は僕の問いには答えず、それだけを言い捨てて出て行ってしまった。気にはなったが追いかけて詳しく聞きだそうという気には到底なれない。やがて貸出手続きが無事終わると、二冊の本で重くなったカバンと、今日一日で重量を倍化させた憂鬱な気持ちを抱えて、僕は家路についた。


 夕食は自炊である。中学までは先輩の家に結構厄介になっていたのだが、高校生にもなれば食事の支度くらい自分ですべきという父の方針で、中学卒業と同時にお小遣いと一緒にそれ相応の食費が支給されることになった。当初はスーパーやコンビニで弁当やお惣菜を買って済ませていた。やがて食材を買って自分で調理すれば安く上がり、余った食費をお小遣いに回せることに気づき、今は極力自分で料理するようにしている。今日はどうしようか迷ったが、結局夕方タイムサービスで安くなった弁当で済ませてしまった。

 お茶を飲んで一息つくと、二階の自室へ上がって今日借りてきた本を広げた。読みながら自分が如何に俳句について無知だったかよくわかった。初めて知ることばかりだった。

 俳句という言葉が広まったのは明治時代で、それ以前は俳諧が一般的な呼び方だったこと。俳諧とは俳諧連歌のことでそれを広めたのは山崎宗鑑、以後、貞門派、談林派、芭蕉の蕉風などが現れる。その後、蕪村、一茶を経て明治時代に子規が近代俳句を確立させる。芭蕉のすぐれた弟子を蕉門十哲と呼び、これには諸説あるが、其角きかく、嵐雪、去来きょらい丈草じょうそうは必ず数えられていること、などなど。

 読みながら最近よく見る夢のことを考えた。あの恋文短冊製作の参考にするために芭蕉の俳句を読み始めてから、似たような夢をよく見ている気がする。今朝見た夢には、確か宗鑑という僧が居た。ここに書いてある山崎宗鑑のことだろうか。一緒に居たのは確か宗房、芭蕉の実名だ。どうして二人は争っていたんだろう、あの後どうなったんだろう、と、取りとめもない考えが浮かんでくる。

 しかし夢に意味を求めるなど、それこそ意味の無いことだ。夢の中で誰が戦おうが、その後どうなろうが、それは夢の勝手というものだ。そう、夢の内容をいちいち考えても仕方が無い、それよりもまずは現実の自分自身の問題を考えよう。僕はもう一度広げた本に目を通し始めた。



 既に日も暮れた座敷を灯すのは燈台に乗せた灯明皿で燃える炎がひとつのみ。締め切った障子の隙間から時折漏れてくる微かな風に揺らぐ灯火が照らし出すのは、十名を超える男たち。それらの男たちに取り囲まれて正座した二人が向かい合っている。互いに目を閉じ眠っているかのような風情ながら、顔には煩悶の色が浮かんでいる。

「其角殿がお着きになりました」

 その声に一同の緊張が解けた。ほどなく障子を開けて男が勢いよく入ってくる。

「おお、其角殿、よくぞ参られた」

 一同の視線が一斉に其角に向けられる。其角は立ち尽くしたまま、皆に取り囲まれている輪の中で目を閉じ対峙する二人を見遣る。

「これは、芭蕉翁と嵐雪殿。では、やはり宗鑑は嵐雪殿に宿られたのか」

「さよう、お二人は吟詠境にて相対しておられる。芭蕉翁の体が弱っておられるこんな時に、なんといまいましい」

「だからこそ宿られたのだろう宗鑑は。この時を待っておったのじゃ、そう思わぬか丈草殿」

 そう言いながら其角は、数珠を握り締めた僧衣姿の丈草を横に押しのけて、取り囲む男たちの輪に加わって座る。正座ではなく胡坐である。息を整え目を閉じる。一同は固唾を呑んで其角を見詰める。が、やがて其角は目を開け、ため息混じりに首を振る。

「駄目じゃ入れぬ。発句はわかるのだが詠じても開かぬ」

 一同の顔に落胆の色が浮かぶ。京染紬の小袖の肩を震わしながら去来が無念そうな声を出す。

「其角殿のお力を以ってしても無理となれば致し方あるまい。わしも先ほど試してみたが駄目じゃった。恐らくは両吟縛り」

「大方そうであろう。くそ、宗鑑、小賢しい真似を」

「さりとて両吟縛りを掛けられているのなら、他の束縛詠は使えぬはず。こうなれば芭蕉翁のお力を信じ、こうして見守るしかござらぬな」

 一同再び沈黙し待つこと一時、嵐雪が小さく呻き声を上げた。近くの其角が嵐雪の肩に手を掛ける。

「戻られたか嵐雪殿。ご無事か」

「ああ、わしに気遣いは無用じゃ。それよりも芭蕉翁を」

 それまで身じろぎもせず正座していた門人一同の宗匠、芭蕉の体が前のめりに傾いた。畳に崩れ落ちそうなその体を、去来はしっかり受け止めると、上半身を自分の体に預けさせ右手首を握った。まるで死人のように冷え切った手首の脈動は今にも途絶えそうなほどに弱弱しい。

「これはいかん、体が冷え切っておる。二郎兵衛、湯だ。他の者は手を貸してくれ、寝所までお運びしよう」

 その声に、まだ若い二郎兵衛は慌てて飛び出していく。去来は数名の者と共に芭蕉の体を支えて運び、蒲団の上に横たえた。夜着を掛けられた芭蕉の手足を、戻ってきた二郎兵衛が湯に浸した手拭で擦る。しばらくしてその目が開いているのに気づいた去来が声を上げた。

「お目覚めになられましたか」

 その声に、それまで沈思黙考していた一同が顔を上げ、横たわる彼らの宗匠の顔を見詰めた。かすれるような声で芭蕉が問う。

「嵐雪は、如何した」

「大事ありません。疲労が甚だしいので別間で休んでおります」

「そうか」

 安堵した表情の芭蕉の枕元に其角がにじり寄って尋ねた。

「それで、宗鑑殿は如何なりました」

「大したお方であった。わしにできたのは封じて送り返すだけ。が、その封も未来永劫続くわけではない」

 この言葉に其角は顔を曇らせた。芭蕉は今一度息を整えると、震えてはいるがはっきりとした口調で語り始めた。

「門人の方々、わしは言霊の俳諧師としてこの肉体の終焉と共に言霊となり、我が言葉の中でゆるゆると朽ちていくつもりであった。しかし、宗鑑殿を封じた以上、このまま消え行くわけには参らぬ。いつか封も解け、宗鑑殿は再び戻って来られよう。わしはこれから残りの命と引き換えに言霊となり、時来れば我が言霊を封じて宗鑑殿の行く末を見守ろうと思う。もし門人の方々の中で、わしと同じ志を持つ者あらば、いつの日かその命尽きて言霊となる時、己が言霊を封じて、再び宗鑑殿に相見える時のために力を貸していただきたい」

「必ず」

 最初にそう言ったのは丈草だった。その言葉に促されるように同意の言葉があちこちで起こる。芭蕉は満足気な笑みを浮かべたが、同時にその顔に疲弊の色が濃く浮かんだ。何か言い忘れたことはないか、自分に問うてでもいるかのように、どこか遠くを見るような眼差しで天井を見詰めていた芭蕉の口から、不意に力ない言葉が漏れた。

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

 一旦言い終わり、だがすぐに続けて、

「破れた風に飛ぶ寒雀……」

 そして静かに目を閉じた。その言葉の余韻がまだ残っているような座敷には、もう芭蕉の息遣いは聞こえなかった。丈草が涙声でその体にすがる。

「芭蕉翁、お目覚めくださいませ、芭蕉翁」

「お止めなされ、丈草殿」

 傍らの去来が丈草を押しとどめるように肩に手を掛けた。

「眠っておられるだけじゃ。お目覚めになるのを待とう」

 丈草は去来を見上げた。去来の目からもまた涙が一滴流れ落ちていた。



「おい目を覚ませ、風邪ひくぞ、おい」

 誰かが体を揺すっている。目を開けると、開きっ放しの本が二冊。今日、図書室で借りてきた本だ。どうやら勉強机で本を読んだまま眠ってしまったらしい。

「一階が真っ暗だったんで、まだ帰ってないのかと思ったぞ。眠っていたのか。しかし授業中ならわかるが、まさか家でも居眠りとはな」

「ああ、父さん、おかえり」

 体を揺すっていたのは父だったのか、とわかった瞬間、また別の事に気づいた。

「しまった、風呂、まだだった」

 椅子から飛び上がるように立ち上がった僕を、父が制する。

「いいよ、もうやったから」

 父は毎日ほぼ同じ時刻に帰宅し、着替えてそのまま風呂に入る習慣だ。帰宅時間に合わせて風呂の準備をしておくのが日課だったのだが、つい寝過ごしてしまった。

「ごめん、本に夢中になってしまって」

 こんな失敗は久しぶりだった。それにしても読書をしながら眠ってしまうとは文芸部員にあるまじき振る舞いだろう。父は笑いながら机の上に広げられた本を手に取った。

「俳句か。宿題か何かか?」

「う、うん、まあ」

 恋文を渡した相手に散々馬鹿にされたので見返すために読んでいる、などとは言えるはずもないので適当にお茶を濁す。父は手にした本のページをめくりながら、懐かしそうに言う。

「母さんも俳句や短歌が好きだったな」

「え、そ、そうなんだ」

 父が母について話すのは珍しかった。母がいなくなってしばらくは色々尋ねていた記憶があるが、その度に悲しそうな顔をする父を見るにつれ、次第に母についての話題は避けるようになっていったのだ。母の話が出た今、更に聞くべきか、このまま流すべきか、返答に困ってしまった僕は何も言えずにただ父の顔を見た。随分老けて見えた。

「そう言えばお前、今朝も寝坊していたな。高校生活は大変か」

「それほどでもないよ、まだ慣れていないだけだと思うから」

 話題が変わってほっとした僕の顔を見ると、父は僕の頭に手を乗せて部屋を出て行った。


 翌日、土曜日は借りてきた二冊の本を読んでいた。どうやら俳句上達の近道は戸外に出て色々な景色を見聞きし、それを素直に詠むのがいいらしい。吟行と言うそうだ。日曜日は朝から気持ちいいくらい晴れていたので、朝食と洗濯を済ませてから、さっそくメモ帳とペンを持って外に出た。

 向かうのは歩いて数十分の川べりの土手。そこは桜並木になっていて、花見の季節には毎年散歩しているお気に入りの場所だ。ただ今年は、桜という文字を見るだけで野武士の辛らつな言葉が蘇ってくるので、恐らく生まれて初めて花見には行かなかった。

 川べりに着くと、道沿いに並んだ桜の木はすっかり葉桜になっている。道から川方向に離れた場所にある一際大きな桜の木の下に立って、僕は緑の葉を繁らせた枝々を見上げた。

 と同時に小さい頃、この桜の木の下で遊んでいた僕自身を思い出す。僕と先輩と、それから僕と同い年の女の子。まだ漢字も書けないほど小さかった僕たちは、三人でよく遊んだものだった。成長するにつれここに来ることも減り、やがて女の子が引っ越していなくなってしまうと、僕と先輩も家の中で遊ぶことが多くなり、ここに来るのは年に一度の桜祭りの時だけになってしまった。

 子供の頃は巨人のように感じられたこの木も、今は普通のありふれた木だ。そう言えば、先輩がよじ登った枝から落ちて、ちょっとした騒ぎになったこともあったっけ。僕はそんな懐かしい思い出に浸りながらこの木を眺めた。さて、これを見てなんと詠もうか。しばらくして僕の頭に一句浮かんだ。

「葉桜になると桜とわからない」

 自分で作っておいて可笑しくなった。知っているから花が咲いていなくても桜とわかるこの木も、別の場所にこの状態で立っていたら何の木かわからないだろう、という気持ちを詠んだのだが、あまりに当たり前すぎてまるで小学生の句だ。おまけに桜と葉桜という別の季語が入っている。野武士に見せたらきっと散々な批評が返ってくることだろう。でも、せっかくの第一作なのでメモ帳に書いておくことにした。

「ほほう」

 背後から誰かが声を掛けてきた。振り向くと和服を着た老人が杖をついて立っている。一本の毛髪もない頭や、顔に刻まれた深い皺が、相当の歳月を生きてきたことを示している。

「吟行ですかな」

「え、ええまあ」

 初めて見る人だ。毎年来ているので大抵のお年寄りは知っているつもりだったが、どうやら近所の人ではないようだ。

「どれ、よかったら見せてくださらんか」

「えっと、まだ一句しか詠んでないし、ひどい駄作ですけど」

 と言いながらメモ帳を渡す。それを読む老人の顔が愉快そうに微笑む。

「いやいや、素直ないい句ですよ。そうですなあ、葉桜やこの木を知らぬ人もあり、などと詠んでは如何かな。それにしてもその若さで俳句とは珍しい。どんな切っ掛けで始められたのかな」

 老人からメモ帳を返してもらいながら、もしかしたらこれはチャンスかも、と頭の中で声がした。どうやらこの老人の趣味は俳句らしい。ひょっとすると俳句の大家かもしれない。現在、孤立無援の俳句修行中の身にとって、これはまたとない救世主到来であろう。ここはひとつ、このお方のお力に縋ってみるべきだ。

「は、はい、実は」

 と言って、あの春の大惨敗告白失恋事件を話しだす。長くなったので途中から桜の木の下の草の上に座り、今まで胸の中に積もりに積もった鬱憤を晴らすが如く、老人に話し続けた。

「本当に見る目がないなあって、しみじみ思ったんですよ」

 話し終えると気分がすっきりした。なるほど、言いたくても言えないことを言ってしまうと、こんなに気分が良くなるのか。イソップ寓話の「王様の耳はロバの耳」に登場する床屋の気持ちがようやく理解できた気がする。話の間、ただ目を細めて無言で聞いているだけだったその老人は、僕が話し終えると声を出して笑った。

「ははは、なるほど確かにお前さんは見る目がないのう」

「そうですよね。歌姫なんて呼んでいた自分が恥ずかしいです。今は野武士って呼んでいます」

 呼んでいるのはあくまで自分の心の中限定なのだが、それを言うと彼女への苦手意識を見透かされるような気がしたので、その部分は省略させてもらった。

「野武士か、そりゃいいのう、ははは。だがな、見る目がないとはそんな意味ではないぞ。お前さん、その野武士を本当に野武士だと思っているのかね」

「はい、だって、あんなにひどい言葉を浴びせ掛けてくるんですから」

「そうじゃな、しかし考えてもごらん。もしその野武士が本当にお前さんを嫌っていたのなら、ごめんなさいとでも言って短冊を突き返すだけじゃろう。また、もし何とも思っていないのなら、お前さんを傷つけないように体のいい言葉でその場を繕うだけじゃ。じゃが、その野武士はきちんと感想を言ってくれた、そればかりか短冊も受け取ってくれた。何の想いも抱いていない相手に対してそんな態度を取ると思うかね」

「う……」

 否定したかった、が、できなかった。いいえ恐らくは他人を言葉で弄ぶことに生き甲斐を感じているだけなのだと思います、とも言えなかった。それはきっと、僕自身否定しつつも、野武士の言葉にある種の親愛に似たものを感じていたからだろう。言葉に窮した僕を優しい目で眺めながら、老人は続けた。

「偉そうに聞こえたのならすまんな。年を取ると説教くさくなっていかん。ただ、相手がよくわからないのなら悪く考えるより良く考えた方がいいじゃろう。野武士などと思わず、もっと別の見方で眺めてみたらどうじゃ。そうすれば毎日を楽しく過ごせるじゃろうて」

「そう……かもしれませんね。野武士なんて失礼ですよね。彼女は僕をショウ君なんて呼んでくれているのに」

「ショウ君、君の名か」

「いえ、彼女が付けたあだ名ですよ。芭蕉が好きなので、バを省いてショウ、だそうです」

「芭蕉……」

 老人の顔から今までの柔和さが消えた。僕を凝視している。

「お前さん、芭蕉の句で覚えているものはあるかね」

「あ、えっと、一番好きなのは、さまざまの事思ひ出す桜かな、です。三百年以上も前に書かれたとは思えないくらい今の言葉に近い感じがして。この句を見て、恋文に桜を入れて書いてみようと思ったんです」

「なるほど桜か。もう一度、声に出して詠んでみなされ。その情景をしっかり思い浮かべながら」

 僕を見詰める老人の目つきが俄かに厳しくなった。今までとは別人のような真剣な顔に、心の底まで暴いてやろうとでもしているかのような両目が激しい眼光を放って輝いている。それは僕にあの部長の目を思い出させた。あの時の夢に似た感覚……

「さまざまの 事思い出す 桜かな」

 ゆっくりとはっきりと言葉を区切って声に出した。しかし、言い終わっても何も起こらなかった。しばらくして、ふっと息を吐いた老人の顔には、元の優しさが戻っていた。

「宿られてはいるが、全てではない、か。確かにこの少年の語彙と想像力では貧弱すぎるかも知れぬのう。しかし何故こんな小者を選ばれたのか」

 期待が外れたような口調でそう言いながら老人は腰を上げた。杖を持ち直して、着物についた草や土を払っている。今にも立ち去りそうな様子だ。事情はよく飲み込めないが、このまま別れてしまうのは避けたかった。とりあえず再会の約束はしておきたい。僕は立ち上がると、老人にお辞儀をした。

「あ、あの今日は貴重なお話をありがとうございました。それで俳句のお話をもっと伺いたいので、また会っていただけませんか」

「おお、そうじゃな。約束はできんが、しばらくはこの辺に居るつもりじゃ。天気が良い日なら会えるかもしれぬのう」

「ありがとうございます」

 僕は再びお辞儀をした。次に会った時は、最近よく見る夢の話でもしてみようかと思う。もしかしたら何かわかるかもしれない。老人は背を向けて歩き出しかけたが、ふと、何か思いついたようにこちら向いた。

「ああ、ひとつ大事なことを言っておこうかの。お前さん、言葉には想いが必要じゃぞ」

「想い?」

「そうじゃ。想いのない言葉なぞただの音に過ぎぬ。音に想いがこもった時、その音は言葉になる。よく心に留めておきなされ」

「は、はい」

 そして今度こそ本当に老人は歩き出した。本音を言えば、住所や電話番号を聞き出したいところではあるが、初対面の相手に対して、さすがにそれは図々し過ぎるというものだろう。

 結局、この日の収穫は最初の一句だけで終わってしまった。老人と別れた後、試験期間最終日の最後の答案用紙を提出した時のような疲労と虚脱感を味わった僕は、何を考えるでもなく川べりを歩いた後、ただの一句も捻り出せずにそのまま帰宅してしまったのだ。

 その時の僕の頭を占有していたのは俳句ではなく、老人に指摘された野武士に対する偏見だった。野武士ではなくもっと別の見方、と老人は言ったが、ではどんな見方をすればいいのだろう。敵意と軽蔑と侮辱が大部分を占める彼女の言葉をどう受け止めればいいのだろう。川べりから帰宅して自室で考え続けても、その答えは僕にはわからなかった。


 月曜日。先輩は言葉通り朝練に行ってしまい、入学以来初めての一人での登校。今朝はいつもより気分の良い目覚めだった。不思議なことにこれまで毎日のように見ていたあの古めかしい夢が、父に起こされた時を最後に全く現れなくなってしまっていた。それが本当にもう終わりなのか、現在休止中なのか、実は見ているけど覚えてないだけなのか判別はつかないものの、どちらかと言えば悪夢に分類される夢を意識しなくて済むのは快適である。

 いつものように校舎に入り、教室の戸を開ける。野武士は既に来ていて自分の席に着いている。僕は老人の言葉を思い出し、入学以来満足に見たこともない野武士の顔を見た。やはり印象は変わらない。僕にとっての野武士は野武士のままだ。あの老人はきっとこれまで善人ばかりを相手に暮らしていたに違いない。だからあんなにお気楽に考えられるのだと自分で自分を納得させ、席にカバンを置いた時、僕が見ているのに気づいたのか、野武士の視線が確実に僕を捕らえた。決して逸らすことなく真っ直ぐこちらを見ている瞳。それは冷酷で人を傷つけることを厭わない瞳、いや、だが、その時、僕はその瞳に別の光を感じた。野武士と呼ぶ前に彼女に対して抱いていた感情を呼び起こす光、あの懐かしい感情……不意に僕は恥ずかしくなって目を逸らした。そのまま椅子に座り、一日の授業を受けた。

 今週から教室の掃除当番だったため、放課後は同じ班の仲間数名と教室に居残りである。こんな時は掃除をさぼって雑巾を箒で打って遊んだり、ゴミ箱のゴミを捨ててくると言って外に出たまま、掃除が終わるまで戻って来ない奴などが大抵一人くらいは居るものだが、よほど真面目な人間が集まった班だったのか、全員黙々と床を掃いたり、黒板を拭いたり、ゴミを捨てたりしている。おかげで十分ほどで終了してしまった。

 これは良い班に入ったものだと感謝し、カバンを持って教室を出ると、廊下の壁に背を持たれかけさせて野武士が立っている。そ知らぬ顔で行き過ぎようとしたが、そうはさせてくれなかった。

「お掃除ご苦労様、ショウ君」

 相変わらず無表情な顔に冷たく響く声。やっぱり野武士は野武士だ。声を掛けられては無視するわけにもいかず返事をする。

「あ、ああ、ありがとう」

「今日も行くの? 文芸部」

「うん、そのつもり。まだ一度しか顔を出してないから」

「ふうん」

 野武士は壁から離れるとこちらに近寄ってきた。嫌な予感がする。どうやら今日も野武士の辛らつな言葉に痛めつけられなくてはならないようだ。

「あなた、今朝、私を見ていたわよね。なぜ?」

「なぜって、いや、別に理由はないけど」

「理由もなく人を見るのは止めていただけません? あたしは動物園の珍獣じゃないんですからね。それとも何か言いたいことがあったけど、言えずに目を逸らしてしまったのかしら。もしそうなら今聞いてあげるわよ」

 完全な詰問口調で詰め寄る野武士は、まるで職務質問の警官のようである。このような態度で迫られると、無意識の内に挙動不審の人物のように振舞ってしまい、更には苦しい言い訳まで考え出してしまうのが小心者の情けない性だ。

「お、おはようって言おうかな、とか思って」

「つくのならもっとマシな嘘をつきなさいよ」

 瞬時に嘘を見抜かれ、蛇に睨まれた蛙の如く心身ともに硬直状態の僕は、野武士の顔から目を逸らせなくなっていた。野武士は朝と同じように真っ直ぐな瞳で僕を見ている。そして僕はその瞳の中に、野武士とは全く違う別の彼女を見ていた。恋文短冊を作っていた時、そしてそれを渡す時、僕の中に確かに存在していた、今では幻影となってしまった彼女の姿。まるで自白剤でも服用されたかのように、言いたかった言葉がこぼれ出た。

「君は、本当は……」

 言いかけて、はっとした。いや、こんな事は聞くべきではない。

「なんでもない、さよなら」

 僕はそう言って駆け出した。緊急時以外、廊下を走ってはいけないので、これが僕がこの高校で犯した校則違反第一号である。ただし野武士の暴言から逃れることが緊急時と認められるのなら、この疾走は許されるはずであろう。

 図書室に入ると部長の他に数名の生徒が居た。文芸部の部員だろうか、と思いながら部長に挨拶する。

「こんにちは」

「やあ、今日も来てくれたのか。ご苦労さん。えっと、今日は他の生徒の邪魔になるから準備室に行こうか。あの部屋は図書委員の他に文芸部員も一応入室を許可されてるいるから」

 部長の口振りでは、彼らは部員ではなく一般の図書室利用者のようだ。部長の後に続いて閲覧室の奥にある小部屋に入る。準備室と言ってもただの作業場のような部屋で、四方を書棚に囲まれた床に、古書や新刊、何かの書類などが雑念と置かれている。さらに奥には書庫があるようだ。片隅に四人掛けの作業机があるので、部長と向かい合わせに座った。

「どうだった、あの本は? 役に立ったかい、ショウ君」

「はい。とても勉強になりましたって、え、どうして部長がその呼び名を?」

「彼女がそう言っているのを聞いたんだよ。芭蕉の芭を省略してショウ君なんだろ。面白い付け方だね」

「いやあ、ははは」

 どうやら野武士はこのあだ名を広げようとしているようだ。全校生徒からショウ君と呼ばれる日が来るのは、そう遠くないような気がする。

「まあ、これからは自分がいいなと思った本を選んで読んでいけばいいと思うよ。君には悪いけど僕も明日からはここには来ないから」

「え、そうなんですか」

「入部届けの締め切りは先週一杯だったからね。ここに来る理由がなくなっちゃったんだよ。部長なんてやってるけど、他に誰も成り手がいなくて仕方なくやっているだけで、本音は帰宅部クラブとして利用したいんだ。三年になって引退したいのは山々だけど、六月までは勤め上げるのがこの部の慣習みたいだから、一応それまでは形だけの部長。すまないね」

「いえ、そんなことは」

 やはり帰宅部クラブという呼称は伊達じゃない。部長にまで見捨てられている文芸部に哀れみを感じつつ、ふと、入部届けの締め切りは先週一杯という部長の言葉が気になった。

「あれ、でもそれなら、どうして今日は来たんですか」

「それは」

 部長の口調が変わった。

「お主が来るかもしれぬと思うてな」

 部長の顔から優しさが消えた。眼鏡の奥から鋭い目が僕を見ている。金曜日のあの時と同じだ。頭の中に野武士の忠告が蘇る。あの部長さん、気をつけた方がいいわよ……

「やあしばらく花に対して鐘つく事」

 部長の言葉に意識が吸い込まれていくような気がした。それは金曜日よりも遥かに強烈な力で、僕を引きずり込もうとしていた。そして、僕は無意識のうちにその句を詠んでいる自分に気がついた。いや、詠んでいるのは僕自身でなかった。僕の中に居る別の何かがその句を詠んでいた。

「やあしばらく花に対して鐘つく事……」

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