コレクター
第64章 コレクター
再び歩き出した三人は、
廃路へと足を踏み入れていた。
崩れかけたアーチ状の通路。
壁に貼りつく古いポスターは、文字がすり減り、
かつてそこに何が書かれていたのかすら判別できない。
天井から垂れた鉄柱が、
まるで巨大な歯のように行く手を覆っていた。
歩くうちに、
空気の重さが変わった。
影、でもない。
気配、だけでもない。
“視線”だ。
誰かに──正確には、
何者かに見られている。
サラが歩みを止める。
「……以前に感じた視線だ」
凛は刀に触れ、
溝口は息を整えただけで、じっと前方を見つめた。
暗がりの先で、音がした。
しかしそれは足音ではなく、
布でも鎖でも金属でもない。
——「呼吸」だった。
深く、静かに、計算された呼吸。
まるで
“感情ではなく意志で吸って吐いている”ような呼吸。
薄闇の中からゆっくりと姿を現したのは、
ひとりの“影”ではなく人間の姿を持った存在だった。
痩せている。
しかし、立ち姿はぶれない。
皮膚は灰色に近く、目だけが深い黒。
その眼は、獲物を見据える獣のそれではなかった。
むしろ逆だ。
まるで、
こちらが獲物かどうかを評価する研究者のようだった。
「……器」
声は低く、どこか澄んでいた。
濁りも狂気もない。
ただ、論理と目的だけがそこにある声。
男は凛を見た。
「管理者の階層から逸脱した個体。
刃と意識の結合は完了しているようだ」
凛は構えない。
ただ、視線だけをそちらに向ける。
「あなた……前にも、私を見てた?」
男は淡々と頷いた。
「記憶の層で、だ」
凛の胃がわずかに沈む。
サラが一歩前に出た。
「答えろ。
管理者の手の者か?」
男は、サラに視線を向ける。
そしてすぐ、興味を凛へ戻す。
「おっと、紹介が遅れたようだ。
私はしがない収集家」
「私は誰の命令でも動かない。
収集のために動く」
「何を集めているんだ?」
溝口が問うと、男は答えた。
「意味だ」
その言葉は静かだった。
静かすぎて、不気味だった。
「この地下の存在はすべて“意味”によって成り立つ。
記憶も意識も魂も形も、意味が崩れれば自壊する。
君達はその“意味”が極めて不安定な状態にある」
収集家は凛に視線を固定する。
「特に君は。
“なぜ歩くか”が未定義のまま、進もうとしている」
凛は小さく息を吐いた。
「なんだか哲学的だね、わからないな」
収集家の瞳にわずかな興味が灯る。
「そうだろう。
未定義にも価値がある」
そして、言う。
「だから収集する。
その“意味”を」
その言葉で、
場の空気が、わずかに戦いの前の“静”に変わる。
まだ誰も動かない。
まだ刃は鳴らない。
ただ、一つだけ明確なことがあった。
この男は、“狩るために来た”のではない。
理解し、奪い、保存するために来た。
凛が刀に指を添える。
サラが弦に手を伸ばす。
溝口は視線を逸らさない。
男は静かに言った。
「始めよう」
——静寂が鋭く張り詰めた。
第65章 無音の一手
収集家は、一切の構えを取らなかった。
足を開くわけでも、腕を上げるわけでもない。
ただ、立っているだけ。
けれど、その「ただ立っている」という状態こそが、
異様なまでの“隙のなさ”を示していた。
凛は小さく息を整えた。
「ふう」
刀を抜く音はなかった。
刃が空気と境目を持たず、ただ自然に“そこに現れた”ようだった。
外套が揺れ、鎖がひとつ、鈍く鳴った。
サラも弦に指をかけるが、
凛が先に一歩踏み込んだ。
――踏み込みは、軽い。
決して力を込めない。
地を蹴らずに、意志だけで前に進む。
男は動かない。
凛は横薙ぎに振るった。
「……!」
空気が裂ける。
しかし、収集家の体には傷ひとつ残らなかった。
斬れたのは——影だけだ。
斬撃が触れた瞬間、
男の身体は“揺らぎ”になり、
すぐ現れた位置と形に戻る。
男は言う。
「悪くない。
だが“意味”はまだ浅い」
凛は間髪入れず、後ろへ一歩下がる。
そこで、初めて溝口は理解した。
(……一撃で間合いを測ってる)
凛の戦いは、感情ではない。
本能でもない。
これは経験の手付きだ。
凛は一瞬も視線を外さず、
札を指の間に挟んだ。
「《緊縛》」
札が空気に溶けるように消える。
地面の影が、男の足元に絡みついた。
が。
男は一歩も動かず、ただ言った。
「意味が…軽いな」
影が霧散した。
凛の喉が微かに揺れる。
悔しさでも焦りでもない。
理解だ。
「……足りない」
男が、ようやく一歩、踏み出した。
その一歩は、音がなかった。
石も砂も踏んでいるのに、
空気すら揺れない。
世界の“存在の重さ”を消した動き。
サラが低く呟く。
「来る!」
男の手が、凛の額へ触れようと伸びた。
触れるだけで奪う。
刃は不要。
力もいらない。
奪うのは、存在の核。
凛は下がらない。
かわすのではなく、
自分の額をその手に寄せるように前へ。
男の指先が、凛の額の皮膚に触れた。
その瞬間——
「……ああ」
影狩りは 嬉しそうに 目を細めた。
「君は“空白の者”だ。
やはり、収集対象として——」
サラが間に割るように弦を弾いた。
低い音が地の底に落ちた瞬間、
通路の影という影がうねりながら立ち上がる。
圧が戻る。
気配が戻る。
空気に“存在の重さ”が戻った。
サラの声は落ち着いていた。
「それ以上、凛には触れさせない」
男は手を下ろし、
興味深そうにサラを見る。
「君は…。
まだ“祈りの弦”を保っているのか」
サラは表情を変えずに返す。
「私を知っているのか?」
影狩りは、静かに笑った。
「クク、いいや」
そして、男の瞳は、凛でもサラでもなく、
溝口を見た。
「あなたは…何だ?」
溝口は息を呑む。
「器の残骸か。
それとも——」
収集家は、言う。
「まだ“意味が定まらない者”」
その言葉は、刃より鋭かった。
サラと凛は、同時に気づいた。
第66章 削り合う呼吸
「未定義は稀少だ。
“まだ形になる前”の段階にある。
ならば今、収集する必要がある」
男の足元の影が、静かに滲んだ。
サラがそれを見た瞬間、声を張る。
「――溝口、下がれ!」
同時に、収集家はふっと姿を揺らし、
溝口へと距離を詰めた。
踏み込みは速くない。
だが、どこから来たか分からない速度だった。
溝口が反応するより前に――
キィンッ!
鋭い弦の音が鳴った。
サラの黒弦が収集家の腕を弾き返していた。
「触らせないって言ったはず」
男は腕を下ろし、興味深そうに首を傾げた。
「干渉の再現性……高い。
君は、祈りの意志を保っている」
サラは返さない。
返す代わりに剣を構え、次の瞬間には影狩りへ踏み込んでいた。
剣と影が交差する。
金属音は鳴らない。
ただ、空気が削られる音だけが続いた。
シャッ、シャッ、シャッ。
収集家は流れるように剣を避ける。
避けているというより、剣の軌道を最初から知っているように。
サラは構わず続ける。
その動きは無駄がない。
祈りを引くように弦を鳴らし、刃へ響きをのせていく。
しかし、攻撃はすべて“決定打”にならなかった。
「……くっ」
サラの額に汗が浮かぶ。
その隙を、男は逃さなかった。
影が床から跳ねあがり、サラの足首を絡める。
サラの体が一瞬止まる。
男の指先が、サラの喉へと伸び――
ガンッ。
鎖が鳴った。
凛が、その指先を縛鎖刀の鎖で弾き飛ばしていた。
「……触らせない」
凛の声は低く、静かだった。
男は凛へと視線を向ける。
「やはり君は、特異だ」
凛は踏み込む。
刃が男の腕をかすめる。
ほんの少し――だが、確かに肉を裂いた。
暗い血が一滴、地面へ落ちる。
男の瞳がわずかに揺れた。
「……これは」
凛は答えない。
ただ静かに、
鎖を引き、刀を構える。
男は、血を拭わず言う。
「その刃は“君の記憶”ではない。
“誰かが君に残した意志”だ」
凛の眉がわずかに動く。
次の瞬間、攻防が始まった。
サラが剣で影を牽制し、
凛は鎖で動きを塞ぎ、
男は最小限の動きで攻撃線をずらす。
どちらも、決定的な一撃を与えられない。
しかし、確かに削られていた。
男の体に、黒い裂け目が増えていく。
凛の息は徐々に荒くなり、
サラの腕がわずかに震え始める。
それは 消耗 だった。
戦いは派手でもなく、
叫びもなく、
ただ淡々と命を削る音だけが続いていた。
シャッ、カン、シャッ、キィン……
溝口は動けなかった。
動かないのではない。
動かしてはいけない と身体が理解してしまっていた。
(……全部、覚えておかないといけない)
凛の踏み込みの角度。
サラが弦の音を鳴らす間隔。
影狩りが影を使う瞬間の手の位置。
(忘れたら――死ぬ)
息が浅くなる。
脈が重くなる。
それでも、彼は目を逸らさなかった。
目の奥に、
戦いのすべてが 焼き付いていった。
ただの記録。
しかし、それこそが――
彼の“武器”になる前兆だった。
第67章 影の軌跡
収集家の攻撃は止まらなかった。
サラの剣が火花を散らし、凛の鎖が闇を裂く。
爪の先で均衡が保たれているような戦いだった。
だが――
溝口だけは、別の何かに気づきかけていた。
(……妙だ)
収集家の動きは速い。
だが速さの問題ではない。
踏み込みの角度が、毎回、同じだ。
ほんの一瞬の呼吸のずれ。
その中で言葉が漏れた。
「……同じ……?」
「…同じ軌道で動いてる!」
サラのまなじりが、かすかに震えた。
凛も刃越しに、溝口の声を拾っていた。
収集家は、聞き逃さなかった。
その視線が、――溝口に明確に向いた。
「…………なに?」
収集家の声は、ひどく低く、湿っていた。
溝口は自身でも理解できないまま言葉を続ける。
「……そこ、踏んでる場所が……ずっと同じだ」
溝口は収集家が残した黒い“足跡”を指した。
闇がまだ、そこに沈んでいた。
収集家の目が、見開かれた。
その表情は、恐怖とも、歓喜ともつかない。
「なぜ…足跡が見える?……まさか……」
「――――レコーダー」
凛の鎖が震える。
サラの呼吸が止まる。
収集家は、まるで悪夢が実体を持ったかのように言葉を震わせた。
「ありえない……。
レコーダーは、伝承の中だけの存在のはず……。
“記録し、忘れないもの”……」
影狩りは一歩、いや半歩、後ろに下がる。
その動きは、これまでの余裕を完全に失っていた。
「まさか――実在しているのか?」
声が震えている。
影狩り自身が、恐れていた。
その瞬間、サラは影狩りの踏み込みの位置へ弦を張り、
凛は鎖の先で退路を奪うように切り込んだ。
黒い血が飛ぶ。
収集家は苦しげに低く息を吐いた。
「……収集対象が……三つ……
器、弾手、そして――レコーダー」
収集家は溝口を、明確に“価値のある標本”として認識した。
だが――
「……いや。
今は悪手」
収集家は瞬時に判断した。
敗北ではなく――撤退。
「この状況では、分が悪い」
その声には、はっきりとした警戒と恐怖と確信が混ざっていた。
「収集はまた今度としよう」
その瞬間、収集家は影そのものにほどけるように消えた。
残されたのは、荒い呼吸と、沈黙。
溝口は力が抜け、膝に手をつきながら息を吐いた。
「……今の……なんなんだ……」
凛は鎖を収めながら、短く答える。
「溝口さん。大丈夫?」
サラは、深く息を吸いながら、続ける。
「記録する者。忘れない者」
「その力が少し開花したのかも知れない。それは戦う力と同じ意味を持つ」
溝口は理解できないまま、ただ呟いた。
「なぜだか……忘れたら……死ぬと思っただけだ」
凛はその言葉に、微笑むでもなく、ただ静かに言った。
「溝口さん、助かったよ」
そこには、わずかに――かつての凛がいた。
第68章 静かなる変位
収集家が消えた後には、しばらく言葉も音も落ちなかった。
ただ、そこにいた三人が、互いに呼吸だけを確かめるように立ち尽くしていた。
気づけば、空気が変わっていた。
静かに。
何の前触れもなく。
ひどく、自然に。
風が止んだのではない。
風という“概念”が、音を失ったようだった。
凛が、ゆっくりと刀を下ろしながら呟いた。
「……巫女さんの祈りの残響が完全に途絶えた」
サラも、はっとして目を閉じる。
瞼の裏で、何かを探すように、そっと呼吸を揃えた。
「……ああ。
さっきまで、微かに聞こえた“祈り”が……もう、ない」
それは喪失というより、役目を終えた余韻に近かった。
サラは静かに、胸元に手を添えた。
「巫女は……最後まで、私たちを導こうとしてくれていた。
でも、導きはここで途切れた」
「つまり……」と溝口。
「ここから先は、自分たちで道を決めろ、ってことか」
凛は空を見上げる。
天井など無いのに、そこには暗い“深さ”だけがある。
「……うん。この層の結界が完全になくなった。
早く管理者の元へ行かないと」
サラは、凛を見つめる。
その視線は師ではなく、仲間のものだった。
「凛。
……その先に、何を見る?」
凛は答えられなかった。
兄の面影はもう曖昧だ。
執着ではなく、ただの“輪郭”。
求めていたはずのものが、名前をなくしていた。
けれど――
「……終わらせたい。
誰かが苦しむこの仕組みを」
それは、以前の凛では決して言えなかった言葉だった。
溝口は短く呼吸し、言う。
「あぁ、そうだな」
サラは頷き、黒弦の剣を肩にかけ直す。
「目的は変わらない。
管理者を見つけ出す」
凛も、縛鎖刀を背に掛け直した。
三人は同じ方向を見る。
暗闇が、どこまでも続いている。
管理者がいる場所。
“この世界の心臓部”。
溝口が息を吐く。
不安も恐怖も、胸に押し込んだまま。
「道標はもうない」
凛が、わずかに笑う。
「慣れっこです」
サラも、小さく笑った。
「まったく……。
君たちといると、命がいくつあっても足りない」
三人は、ひび割れた大地へと足を踏み入れる。
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