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Little Under Ground2(リトルアンダーグラウンド2)

目を通していただきありがとうございます。

Little Under Ground (リトルアンダーグラウンド)の続きです


長年構想していた物語を形にしました。

AIを使用し作成していますが、文章は自身で再編集しております。

最後まで目を通していただけたら幸いです。

第68章:危険区域:封鎖された街を越えて



裂け目から離れた凛は、荒廃した街並みを慎重に歩き出した。

足元は割れた石畳と倒壊した建物の残骸、至る所に黒い痕跡が焼き付いている。

風は冷たく、どこか湿った血と鉄の匂いを含んでいた。


周囲は異様な静けさに包まれている。

だが静寂は決して安らぎではなく、むしろ「何かが潜んでいる」ことを強調していた。


耳を澄ませば、かすかな衣擦れの音、囁き声、笑い声が、風の中に混じって聞こえる。


——近くにいる。

そう確信するたびに、背筋を冷たいものが走る。


凛は外套のフードを深くかぶり、鎖を握りしめた。

刀はまだ抜かない。抜いた瞬間、気配を刺激してしまうと本能が告げていた。


しばらく進むと、道は狭く曲がりくねり、巨大な骨のような構造物が廃墟の間から覗いていた。


近づくと、それが「かつて人間であったものの骸」であることに気づく。

異形に変じ、最期は崩れ落ちた姿。乾ききった残骸が壁のように積み上がり、通り道を塞いでいた。


「……」


言葉を飲み込む。目を逸らせば逃げてしまいそうで、凛は敢えて視線を正面に固定した。


やっとの思いで骸の山を越えると、今度は霧が立ち込める広場に出た。

白く濁った霧の中、無数の影が揺れている。

幻影か、それとも実体か……判別できない。


凛は息を殺し、歩を進める。

足音が石畳に響くたび、影が揺れ動き、笑い声が耳元で囁いた。


「……まだ生きてる」


「……奪え」


「……忘れさせろ」


心臓が早鐘を打つ。

膝が震える。

だが、立ち止まれば終わりだと知っている。


「必ず……また逢える。だから、今は」


「今は…進むしかない」


声に出した途端、霧がざわりと揺れ、道が細く開けた。


そこを抜けると、不気味な静寂がふっと遠のき、薄明かりが差し込んだ。


危険区域を抜けた証だった。


凛は大きく息を吐き、足を止めた。

振り返れば、霧と影の街並みが遠く霞んでいる。

前を向けば、なお遠い「施設」の黒い輪郭がはっきりと姿を現していた。


震える手を胸に当て、凛は再び歩き出す。


「待ってて……必ず」


祈りの言葉を胸に刻み、彼女は危険区域を超え、施設へ向かう決意を新たにした。


第69章:外郭の影


危険区域を抜け、地図にある目印を頼りにしばらく歩を進めていると、

凛の前に、ついに「施設」の外郭が姿を現した。

それは城壁とも要塞とも言えぬ、異様な構造を持つ巨大な環であった。


黒く光沢を帯びた石壁は、まるで呼吸しているかのように膨らんだり縮んだりしている。

近づくたびに、壁の表面から淡い霧が立ち昇り、その霧が凛の頭の奥を揺らす。


——言葉にならない声が囁き、かすかな記憶が吸い取られていく感覚。


「……兄さん?」


無意識に声を漏らすと、霧はすぐさま反応した。

彼女の心の奥から兄の笑顔の断片が引き抜かれ、淡い光となって壁に吸い込まれていく。


凛は慌てて口を塞ぎ、後ずさった。


「……これは……記憶を食べている?……」


さらに視線を上げると、壁の上には目玉のような装置が等間隔に並んでいた。

それらは生き物のように瞬きを繰り返し、赤い光を放っては辺りを舐めるように走査している。

光に触れた瓦礫は灰となり、風に溶けて消えた。


壁の根元には、無数の骸が積み上がっていた。

衣服や武具の破片から見て、この地に迷い込み、施設へ辿り着こうとした者たちだろう。

その多くは肉体ごと朽ちているが、中には表情を残したまま干からびた者もいた。

彼らの眼窩は空洞だが、なお声にならぬ呻きが空気を震わせていた。


凛の喉は乾き、足は止まる。

だが心は後戻りを拒んでいた。


「……ここを超えなきゃ。兄さんを……」


鎖が微かに震え、刀が低く脈動する。

外套の重みが増し、まるで「ここから先は試練だ」と告げているようだった。


凛は深く息を吸い込み、足を踏み出した。


記憶を奪う霧、監視する目、呻く骸たち。

すべてが彼女を拒んでいたが、その瞳は揺るぎなく前を見据えていた。


第70章:霧を裂く一歩


壁際に立つと、霧は一層濃くなり、凛の記憶をむしり取ろうと絡みついてきた。


兄と遊んだ夏の日、母の声、些細な温もりが指の隙間から零れ落ちていく。


「……やめろっ!」


凛は震える手で呪札を握りしめた。


札の表面が熱を帯び、外套の糸が微かに光を放つ。

それらが呼応するように、鎖がじゃらりと鳴り、刀の柄が脈動する。

札を掲げると、記号のような光の紋が空間に浮かび上がった。


その瞬間、霧は裂かれ、囁きはかき消えた。


「……通れる……」


だが次の瞬間、壁の「目玉」が一斉に動き、赤い光が凛を照らした。

視線は鋭く、存在そのものを消し去ろうとする殺意を帯びていた。


凛は足を止めかけたが、外套がふっと重く揺れ、まるで背を押すように力を与えた。

鎖が自らの意思でうねり、凛の前方に弧を描くと、赤い光を弾き飛ばした。

骸の呻き声が消え、束縛から解かれたように空気が澄んでいく。


「試されてるみたいね」


そう呟くと一歩足を踏み出した。


刀を抜いたわけではない。

だが、鎖と札と外套が共に脈打ち、凛を守るように包み込む。

そのまま一歩、また一歩と進むごとに、壁の防壁は音もなく揺らぎ、進むべき細い道が開いていった。


背後で再び霧が閉じ、骸たちの呻き声が響く。


振り返ればもう戻れない。

前だけが道だった。


第71章:第一の区画


外郭を越えた途端、凛は胸を圧迫されるような重苦しさに襲われた。

空気が異様に濃く、呼吸をするたびに肺の奥に黒い水を流し込まれるようだ。

背後で冷たい金属の扉が重く閉じた瞬間、凛は思わず息を呑んだ。

外郭の不気味な圧迫感とは異なり、この内部は異様なほど整然としていた。


通路は幅広く、白と灰色で塗り分けられた壁がまっすぐに続いている。


光源は見当たらないのに、壁に埋め込まれた半透明の管がぼんやりと光を放ち、空気を冷たく照らし出していた。

その光は安定しているようでいて、微妙に明滅を繰り返す。まるで巨大な生き物の呼吸のように。


「……ここが、施設……」


小さく呟いた声が、通路に反響して戻ってきた。


足を踏み出すたびに、靴底の音が鋭く響く。

その音に紛れるように、どこかで別の靴音が微かに重なった気がして、凛は背後を振り返った。


——誰もいない。


しかし次の瞬間には、前方の壁際に人影のような揺らめきが走った。


通路の両側には奇妙な装置が並んでいた。


高さ二メートルほどの透明な筒。

その内部には、液体に浸された影のようなものが浮かんでいる。

人間の輪郭を持ちながら、顔は曖昧で、指先は途中から霞のように溶けていた。


「人……?」


近づこうとした瞬間、影は小さく身じろぎし、液面に波紋が広がった。

しかし、それ以上の反応はなく、まるで夢の中の残像のように静かに沈黙を保った。


外套が微かに重みを帯び、鎖がわずかに震える。

刀の脈動が早まるのを感じ、凛は思わず胸に手を当てた。


——この場所は、正しくない。


理屈ではなく、本能が告げていた。


奥へ進むにつれ、その音は確かに存在していた。

規則的な靴音。

壁の裏側から響いてくる低い機械音。

そして、息遣いのようなもの。

それらが折り重なり、誰かが「ここで生きている」と錯覚させる。

だが目には映らない。


凛は、心臓を握られるような緊張に耐えながら通路を進んだ。

背筋にまとわりつく冷気は、ただの空調のものではなかった。

ここで眠り続ける影の群れが、目覚めを待っているかのような気配が濃く漂っていた。


やがて、通路の先にぼんやりと人影が浮かんだ。

背の高い、白衣をまとった人物。


ゆっくりと歩み寄るように見えたその影は、淡い光に照らされ、やがて輪郭を明確にしていく。


凛は思わず息を止めた。


彼は確かに“人間”の姿をしていた。

だが同時に、どこか現実から剥がれた絵のような、不自然な存在感を放っていた。


第72章:研究員の声


背筋を伸ばし、ゆっくりとした足取りで凛の方へ向かってくる。


顔の輪郭ははっきりしているのに、その肌は紙のように薄く、血の気が感じられなかった。


男の唇がゆるりと動いた。


「……まだ“君”は、名を持っているようだな。」


低く、抑揚のない声。

それでいて耳の奥にまとわりつき、通路全体が共鳴しているように響く。


凛は思わず後ずさった。


男の視線は鋭いようで、同時に焦点が合っていない。

まるで“人”を見ているのではなく、器の中身を透かして覗こうとしているかのようだった。


「ここに来る者は皆、とうに名を捨てた。

それが生きるための唯一の術だからだ。

……君はまだ、その重さを知らぬのだろう。」


男は立ち止まり、細長い指を胸の前に組んだ。

光が彼の白衣を鈍く反射し、その影が壁に不自然な角度で伸びていく。


「質問があるのだろう?」

わずかに口角を上げ、しかし笑みとは呼べない歪みで彼は言った。

「ここまで来れた事に敬意を表して答えてあげよう」


凜は戸惑いながら言葉を投げかけた。


「ここは…ここで何をしているの?何の施設なの?」


「ふむ…我々はここで、“記憶”を扱う。食糧よりも、空気よりも価値ある資源だ。それらを確保し保存し必要な者に提供している。

特に…君のように、まだ名を失っていない者は……極めて貴重だ。

前に来た青年のようにな」


凛の胸が強く脈打つ。

刀の鎖がかすかに鳴り、外套の布地がひとりでに震えた。


第73章:問い


「前に来た青年……」


兄の面影が一瞬、凜の脳裏によぎった。


「兄を……知ってるの?」


凛が問い詰めると、男の笑みが少しだけ深まった。


「“兄”か……お前の兄かは知らんが、

名を持つ若者が以前に来たことは知っている。

おっと、名は呼ぶなよ。

ここで名を呼ぶことは、自らを差し出すことに等しい。」


「兄は...兄は今どこに!どこにいるの?」


喉の奥から絞り出すような声だった。

凛の唇は乾き、言葉を発した瞬間、自分自身がこの空間に何か大事なものを差し出してしまったのではないかという恐怖が走る。


男は立ち止まり、無言で凛を見つめる。

沈黙が長く続き、空調の唸りと機械の脈動だけが通路を満たした。


やがて、男の唇がゆっくりと動いた。


「兄か……」

「確かにここへ名を持ちながら辿り着く者などそう多くはないだろう」


男は不気味な笑みを浮かべながら言った。


「お前が兄を探してここへ来たというのならば、

その若者がお前の兄である確率は高いだろうな」


凛の胸が大きく跳ね、外套の内側で鎖がビリ、と鳴った。


「だが、今も“兄”であるとは限らぬ。

名を持ち続けられる者は稀だ。ほとんどは、ここで自分を忘れる。

——器だけを残し、利用される。」


その声には情も憐憫もなく、ただ観察する者の冷徹さしかなかった。

研究員の目が、凛を刺すように見据える。


「……君は確かに彼の血を引いているな。

目が、似ている」


凛は震える膝を押さえつけながら、一歩踏み出した。


「兄は……どこにいるの。

教えて……!」


叫ぶ声が通路に反響する。


その瞬間、壁の中に眠る影たちが微かに揺らめき、まるで笑い声のようなざわめきが生まれた。


研究員はその反応を愉快そうに受け止め、薄く口角を吊り上げる。


「教える。教えるか…これは貴重な”質問”だな

これ以上は希望になるのでね。

では、こうしよう」


「兄の居場所を教えることは簡単だ。だが代償なしにはな。

私は少々腹が減っていてね、何を差し出せる?」


第74章:消息の影


その瞬間。


凛の足元で鎖が鋭く鳴った。


それは自分の意思を超え、刀の封じられた記憶が力を求める音。

外套が黒い波のように揺らぎ、研究員を縛り付けるかのように影を伸ばした。


「……答えろ!」


凛の声が震え、通路全体を震わせる。


研究員の身体がわずかに傾き、壁に押しつけられた。

それでも男の顔は歪むことなく、むしろ淡々とした興味に満ちていた。


「力を……使うのか。まだ幼い器のくせに。」


彼は喉の奥でかすかに笑った。


「君が兄と呼んでいる存在——確かに、ここを通った。

だが、どの道を選んだのかは、私にも分からぬ。」


鎖がさらに締めつける。

凛の目は血走り、唇が震える。


「言え! 兄は今どこにいる!」


研究員は、薄い声で応えた。


「管理者の元へ“連れて行かれた”のか。

あるいは、自らの足で“求めて”行ったのか。

……その境目は、私にも判別できぬ。」


その言葉に、凛の心臓が強く跳ねた。

兄は、無理やり奪われたのか、それとも……自分から進んで?


研究員の口角がわずかに吊り上がる。


「一つだけ確かなことがある。

彼も名を持っていた、故に管理者の元で選定を受けそこで”保存”されているだろう」


鎖が震え、脈動を収めていく。

凛は力を抜いた瞬間、膝が折れそうになる。


研究員は白衣を正し、囁くように告げた。


「知りたければ、さらに奥へ行くがいい。

だが、そこで待つものを見て……まだ“兄”と呼べるかどうかは、保証できぬがな。」


第75章:揺らぎ


研究員の影が遠ざかるのを見届け、凛は息をついた。


背中に冷たい汗が伝う。

外套の布地はまだ微かに震え、鎖は脈動を残している。


——自分が……力を使った。


胸の奥がざわめき、足が勝手に後ずさる。

頭の中には研究員を押さえつけた瞬間の光景が何度も蘇り、胃の奥を締めつける。


「……あれは、本当に……私の意思だったのか?」


声は震え、通路に吸い込まれて消えた。


力を借りたのか、それとも力に操られたのか。

自分の意志で問い詰めたはずなのに、あの瞬間、胸の奥にもう一つの声が囁いていた気がした。


「差し出せ」「奪え」と、誰かが囁いていたかのように。


凛は両手を握り締めた。

鎖の冷たさが皮膚に食い込み、まるで自分を縛る証のようだった。


「……こんな力に頼って……兄に会えるの……?」


囁いた声は、すぐに震えに変わる。

しかし同時に、胸の奥には消えぬ炎のようなものもあった。


たとえ力に飲まれようとも、進まなければ兄には届かない。

立ち止まることは、ここでは死と同じ。


凛は深く息を吸い込み、閉じた瞳を開いた。


通路の奥へと伸びる冷たい光の道を見据える。


「……私が、決める。

自分で……進むんだ」


震えながらも、凛は足を一歩踏み出した。

その響きは小さくとも、確かに「自分の意思」で刻まれた音だった。


第76章:沈黙の区画


研究員の足音が消えた後、通路に残るのは不自然な静寂だった。


凛はしばし立ち尽くし、深い呼吸を整える。鎖の冷たい感触がまだ手首に残り、外套の重みが心を縛りつけるように感じられる。


「……行かなくちゃ」


その小さな呟きは、誰に向けたものでもなく、ただ自分自身を支えるための音だった。


通路を抜けると、急に空気の密度が変わった。


白く冷たい壁はそのままなのに、空間そのものが押し返すような圧力を帯びている。

目の端で、壁に埋め込まれた装置が小さく明滅した。赤とも青ともつかない色が、不規則に光を放つ。


凛は一歩踏み出した。


その瞬間、空気がざわりと揺れる。


視界の端に、壁を這う黒い影がうごめいた気がして、思わず振り返る。

だが、そこにはただ無機質な壁があるだけだった。


進むほどに異様さは増していった。

壁の内側から低い唸りが響く。まるで無数の声が遠くで囁いているかのようだ。


凛は足を止め、耳を澄ます。


——それは言葉だった。


しかし聞き取れた瞬間、すぐに形を失い、意味を忘れてしまう。


「……言葉を……吸ってる……?」


背筋に冷たいものが走る。

ここはただの通路ではない。

人の記憶や思考を監視し、吸い取る仕掛けが張り巡らされているのだ。


奥へ進むほど、胸の奥に圧迫感が強くのしかかる。

歩くごとに、何か大切な記憶が指の間からこぼれ落ちていくような感覚に襲われる。


「……負けない……」


凛は震える声で呟き、鎖を握り締めた。

外套がふわりと揺れ、まるで彼女の意思に応えるかのように影を寄せてくる。


やがて通路は開け、広い区画に辿り着いた。


そこは研究施設というより、異様な空洞だった。

天井は闇に溶け、床には複雑な紋様が幾重にも刻まれている。

そこから微かな光が立ち上り、まるで呼吸するように脈打っていた。


凛は喉を鳴らした。


ここから先が、本当に“施設の奥”なのだ。

一歩を踏み出すごとに、胸に刻まれるのは恐怖か、それとも決意か。


——兄が歩いたかもしれない道。


——そして、自分もまたその足跡を追うのだ。


凛は拳を握り、広間の中心へと進んでいった。


第77章:囚われの影


広間の奥、淡い光が揺らめく闇の向こうに、奇妙な気配が漂っていた。

凛は慎重に歩みを進める。足音は床の紋様に吸い込まれ、耳に届くのは自分の心臓の高鳴りだけ。


壁際に並ぶのは、用途の分からぬ装置の群れだった。

筒状のもの、針のように突き出したもの、まるで楽器を思わせる形をしているのに音を奏でることのないもの……。

どれも脈動する光を放ち、ひとつひとつが呼吸する生き物のように見えた。


その奥に、牢獄があった。

鉄ではなく、光の糸のような格子が張り巡らされている。


凛は息を飲んだ。


中に――人がいた。


「……あ……」


視線がその姿に釘付けになる。


細い鎖に手足を縛られ、椅子のような装置に拘束されたその人物。

顔はやつれ、目は虚ろに宙を漂っている。

額からは淡い光が糸のように吸い上げられ、背後の装置に注ぎ込まれていた。


それは、かつての案内人だった。


あの狂気じみた笑みと奇妙な仕草で凛を導き、地下街の理を語った存在。

彼が――ここに囚われ、記憶を、知識を、少しずつ吸い上げられている。


「……そんな……」


凛の喉が震えた。


彼の口元はかすかに動いている。


だが、そこからこぼれる声は、断片的で、もはや意味を成していない。

思い出、言葉、そして“彼自身”が、装置に奪われていく。


——彼もまた、何かを探してこの地に来たのだ。


——そして今、その願いすらも吸い尽くされようとしている。


凛は格子に近づき、思わず手を伸ばした。

指先が光に触れると、びりりとした衝撃が走り、外套越しでも痛みが伝わる。


「案内人……!」


声が震え、胸が締め付けられる。


その呼びかけに、彼の目がかすかに揺れた。

虚ろな瞳の奥に、一瞬だけ理性の火が灯ったように見えた。


唇が動く。


その言葉は声にならなかったが、確かに「逃げろ」と形を結んでいた。


凛は歯を噛みしめた。

救い出さなければならない。

だが今の自分に、その力があるのか――。


広間の奥の闇がざわめく。

監視の目が、既にこちらを注視しているのを凛は感じていた。


第78章:救いの衝動


「……案内人……!」


凛は格子に触れた手を離さないまま、必死にその姿を見つめた。

光の鎖に絡め取られ、記憶を吸い上げられ続ける彼の体は、今にも壊れてしまいそうに細く見えた。


「逃げろ」という形だけの言葉に、凛の胸は激しく揺れる。


だが――。


ここまで導いてくれた恩を、ただ見捨てることなどできるはずがない。

彼がいなければ、凛はあの街の入口すら越えられなかったのだ。


「……助ける。必ず……!」


決意を込めて呟いた瞬間、鎖が脈動した。

凛の腕に巻き付く黒鉄の鎖が音を立て、格子の光に呼応するように震える。

頭の奥に響く声――「試すのか」と嘲るような囁きが、再び脳裏をかすめた。


凛は震えながらも膝をつき、格子の前に両手を添えた。

外套の内に隠された呪札を一枚引き抜く。


「……お願い……開いて……!」


札が燃え上がり、鎖がひとりでに走り出す。

光の格子に巻き付いた鎖は、低く唸りながら格子を削り、互いに反発する力をぶつけ合った。


激しい光が散り、凛の視界を焼く。


その瞬間、牢獄全体が震えた。


奥に並ぶ装置から不気味な音が響き、光を吸い上げる速度が急激に上がる。

案内人の体が大きくのけぞり、声にならない呻きが漏れた。


「やめろ……!」


凛は必死に鎖を引き戻し、もう一枚、呪札を投げ込む。

札は空中で破れ、爆ぜるように格子の一部を切り裂いた。


わずかに――ほんのわずかに、道が開いた。

その隙間から冷たい風が吹き抜ける。


「今だ……!」


凛は鎖をその裂け目に滑り込ませ、案内人の腕へと伸ばした。

触れた瞬間、微かな温もりが指先に伝わる。


案内人の目がかすかに開き、かろうじて焦点が合った。

その瞳に、一瞬だけ、あの狂気を装った優しさが戻る。


「……にげろ……」


その声がかすかに届いた瞬間、背後から重い気配が迫ってきた。

監視者か、それとも管理者の影か――。


凛は息を詰め、案内人を引き出そうと力を込める。

だが同時に、彼の体から流れ込んでくる“何か”が、凛の中へと雪崩れ込んできた。


記憶の断片。


彼が探していた誰か。


そして――彼が失ったすべて。



第79章:影の介入


鎖を必死に引き戻し、案内人を牢獄から引きずり出そうとしたその瞬間だった。


背後の通路に、低い唸り声のような音が響き渡る。

冷たい空気が一気に流れ込み、光を吸い込む影が現れる。


「……またしても、余計な真似をする者が現れたか。」


不気味な第一声が、通路全体を震わせた。


凛は振り返る。

そこに立っていたのは、サラと戦った使者とは異なる、別の“使者”。


全身を覆う黒衣の奥からのぞく仮面は、感情を持たぬ人形のようだった。

だが、その奥から漏れる眼光は、人を測り、切り刻むように鋭い。

背には巨大な装置めいた器具を背負い、そこから幾筋もの管が垂れ、床を這っていた。

管の先端は牢獄の格子に繋がり、案内人から吸い上げた“記憶”を直接吸収しているのが見えた。


「記憶はここで処理され、主の糧となる。

外から来た小娘が手を出すものではない。」


使者の声は、乾いた砂を擦るような響きで凛の耳を突いた。


「やめて……! 案内人を……!」


凛は叫び、鎖をさらに強く引く。

だが次の瞬間、床を這う管が生き物のようにうねり、鎖へと巻き付いた。


「ふむ……その鎖。“選ばれた”か。

だが未熟だな。

このままでは、ただの器に過ぎぬ。」


管が一斉に締め付け、鎖から火花が散った。

凛の腕に激しい痛みが走り、力が抜けそうになる。


案内人は微かに顔を上げた。

その口がかすかに動く。


「逃げろ……嬢ちゃん……」


「嫌だ……!」


凛は叫ぶが、格子の隙間は再び閉じ始め、案内人の姿が遠ざかっていく。


使者が一歩近づいた。

その足音は石床に吸い込まれ、不気味に響く。


「お前の兄も……“自ら”ここへ来たのだ。

ならば、お前もすぐに従うだろう。」


その言葉に、凛の心臓が大きく跳ねた。

だが同時に、恐怖が背筋を支配する。


鎖はなおも脈打ち、外套は熱を帯びる。

逃げるべきか、抗うべきか。

答えを出す前に、牢獄の光が一層強くなり、案内人の影が完全に光の中へと飲み込まれた。


凛は絶叫した。


だが、その声は冷たい施設の壁に吸い込まれ、誰にも届かなかった。


第80章:鎖の閃光


牢獄を覆う光の奔流が収まると同時に、使者の仮面がわずかに傾いた。


「抗うか……愚か者よ。」


次の瞬間、凛は鎖を強く振りかざした。

鎖は生き物のように広がり、冷たい空気を切り裂いて閃光を放つ。

床や壁に当たる度に火花が散り、通路を青白く照らした。


使者の影が一歩動くだけで、鎖は絡め取られそうに吸い込まれていく。


凛はすぐさま呪札を投じた。

札が空中で燃え上がり、赤い光の線が幾重にも交差し、空間を裂くような轟音が響く。


「ほう……札を扱えるのか。」


使者は微かに声を震わせた。


次の瞬間、凛の札が炸裂し、閃光が視界を白で埋め尽くす。


——だが。


白光の中から伸びた影の腕が凛の肩を掠め、凛は石床に叩きつけられた。

外套が衝撃を受け止めるも、全身に痺れるような痛みが広がる。


「未熟だが……なかなかに面白い。」


使者はゆっくりと歩み寄る。


凛は必死に立ち上がり、再び鎖を構えた。


光と影が交錯し、施設の第一区画が戦場と化した。



第81章:別れの戦場


裂け目ができ、隆起した瓦礫で凜と隔たれた後。


遠く離れた幻影の街の裂け目の中で、サラと巫女は使者と刃を交えていた。


「サラ様……持ちこたえてください!」


巫女が両の手をかざし、札を宙に散らす。

白い光の結界が広がり、迫る黒い触手のような影を遮った。


サラは黒光りする剣を振り抜き、左手の弦から響かせた音が剣を震わせ、音波の斬撃となって広がる。

その衝撃で地を這う影が吹き飛び、石畳に深い傷を刻んだ。


だが、使者は微動だにしない。


「まだ力が残っているか」


仮面の奥から響く声には、冷笑が混じっていた。


「あまり私を舐めないほうがいいぞ」


サラは叫び、剣と弦を一体化させる。

奏でられた一音は、街全体を震わせるほどの衝撃を生んだ。


巫女はその隙に札を束ね、空間に大きな封印陣を描き出す。


「サラ様、今です!」


巫女が放った札が無数の光柱となって立ち上がり、黒い影を封じ込める。

その中央で、サラは弦を掻き鳴らす。

二人の力が交わる瞬間、幻影の街は光と闇の奔流に飲み込まれた。



第82章:共鳴


「響け!」


音が剣へ伝わり、黒光りする刃が唸りを上げる。

剣から放たれた衝撃波は束ねられた影を一気に切り裂き、その先にいる使者に届いた。


仮面の使者は体勢を崩し、初めてわずかに後退する。


巫女が微笑んだ。


「サラ様、効いてる……!」


「まだ終わらせない。ここで退けなければ……凜に繋がらない!」


サラは叫び、剣と弦を再び合わせた。

その響きは、かつて仲間を導いた旋律に似て、巫女の力と共鳴するように広がった。


光と音が重なり合い、押し寄せる影を大きく押し返していく。


第83章:旋律の刃


巫女が新たな札を解き放つと、無数の光の糸が舞い、敵の影を縛り上げる。


「続けていきます!」


巫女の声に応じ、サラは弦を掻き鳴らす。


左手で奏でる旋律が、右手の剣へと流れ込む。

黒光りする剣はまるで歌うように震え、裂け目を穿つ衝撃を放った。


「……ッ!」


使者が後退し、初めて仮面の奥から低い唸りが漏れる。


その瞬間、サラの目が鋭く光る。


「巫女、もう一度合わせるぞ!」


「ええ……!」


二人の力が重なり合い、光と音の奔流が街を覆う。

封じていた影が一気に砕け散り、使者の黒衣が裂ける。



第84章:仮面の下


サラの剣が震え、巫女の札が最後の光を放った瞬間、使者の仮面が粉々にひび割れる。


「……ぐぅッ!」


裂けた仮面の奥から現れた顔は、人のものとは思えなかった。


片方は焼け爛れ、皮膚がただれたように赤黒く波打っている。

もう片方は完全に影に侵食され、形を定めず揺らめいていた。

その狭間に残った片目だけが、人間のように血走り、狂気に濁っていた。


巫女は思わず後退る。


「……こんな姿……」


使者は嗤うこともできず、ただ低く唸った。

声は掠れて二重に響き、影と肉が乖離するように震えている。


「……忌々しい……小娘ども……」


その声の奥に初めて焦りが滲んだ。


剣と札の共鳴は、確かに使者の核を揺さぶっていた。


サラは剣を構え、鋭く言い放つ。


「見たか、巫女。あれが“人の末路”だ。

 管理者に仕える者の、なれの果て」


「なんてこと…」


「恐れるな! 奴も不滅ではない!」


使者は仮面の欠片を振り払い、影を爆ぜさせる。

だが分の悪さを悟ったのか、後退りしながら影を集める。

裂けた大地に亀裂が走り、そこに黒い霧が渦を巻いていく。


「……まだだ。ここで潰す……」


サラは踏み出すが、巫女が手を伸ばして制した。


「待って! 逃げようとしている……!」


仮面の奥の影が霧の中に沈み、使者は形を失いながら後退していく。

その最後の声は、風に溶けて消えた。


「次は……不覚は取らぬぞ……」


霧が完全に閉じ、戦場に残されたのは瓦礫と残響だけだった。


サラは剣を下ろし、大きく息を吐いた。


「……まだ、終わっていない。

 奴は逃げただけだ。必ず……また来る。」


巫女は頷き、札を胸に抱いた。


「ええ。でも今は、これで良かった」



第85章:追うべき道


霧が静かに収まり、幻影の街には再び重い静寂が訪れた。

黒く焦げた瓦礫の上に立つサラは、深く息を吐きながら剣を収める。

刃の震えはまだ止まらず、弦の余韻がかすかに空気を揺らしていた。


巫女が近寄り、疲れ切った表情で彼女を見上げる。


「……よく、持ちこたえましたね」


「私だけじゃない。お前の祈りがあったから、奴を退けられた」


サラは短くそう答え、ふっと仮面のような強張りを解いた。

だが次の瞬間、その瞳に鋭い光が宿る。


「……凛だ」


巫女もすぐに察したように頷く。


「ええ……あの子は、施設に向かったはずです。

 案内人を探して……そして兄を追って……」


サラは拳を強く握りしめた。


「施設にも使者はいる。もう辿り着いているのであれば……

あの子の前に現れていてもおかしくない」


巫女の瞳に不安が走る。


「それでは……」


「急がなければ。凛は……力を持ちながら、まだ未熟だ。

 このままでは、あの鎖に呑まれ兼ねない」


サラは再び剣を握り、巫女に向かって短く言う。


「行くぞ。凜を、失わせはしない」


巫女は静かに祈祷鈴を鳴らし、答える。


「はい。

 彼女は、まだ光を抱いています。だから——」


二人は視線を交わし、迷いなく歩みを進めた。

瓦礫を越え、裂け目を飛び、施設へと続く闇の道へ向かう。


その背中に残されたのは、戦いの残響と、なお燻る影の気配。

だが彼女たちの瞳は、ただひとつの方角を見据えていた。



第86章:鎖と刃


歩み寄る使者を退けようと鎖が閃光を放つ。

空間は軋み、記憶を吸い上げる装置が共鳴するように唸った。


しかし使者の仮面は傷一つなく、ただ冷徹に凛を見下ろす。


「その鎖はまだお前のものではない。

 己を縛る鎖に……どこまで抗える?」


次の瞬間、影のような腕が何本も伸び、凛の四肢を絡め取ろうとする。

凛は必死に呪札を掲げた。札が燃え、光の結界が広がる。

だが光は押し潰され、影がじわじわと侵食していく。


胸が苦しくなり、息が詰まる。


「……だめ……!」


必死に鎖を振り払うが、打ち払った影はすぐに形を変えて襲いかかる。

追い詰められるたびに、鎖が心臓の鼓動と一体化し、頭の奥に低い声が響いた。


——差し出せ。もっと力を。


凛は首を振った。


「私の意思で……戦うんだ!」


叫びと同時に、鎖が弾けるように光を放った。

だがその輝きは一瞬で、すぐに影の奔流に呑み込まれていく。


影に絡め取られた腕が、軋む。


凛は必死に札を放ち続けるが、燃え上がった符はすぐに闇に呑まれ、灰になって消えた。


「……やめろ……!」


声が掠れる。


そのとき、鎖が脈動し、頭の奥に低い声が響く。


——差し出せば楽になれる。


——お前の痛みも、恐怖も、すべて背負おう。


誘惑の声は甘く、震える体をさらに縛りつける。

凛は必死に首を振り、涙に濡れた瞳で虚空を睨む。


「これは……私の戦い……!」


しかし次の瞬間、影の刃が頬を掠め、血が滲む。

その匂いに惹かれるように、さらに無数の影がざわめき、押し寄せてきた。

鎖の冷たさが腕を締め付け、痛みと共に「選べ」と迫る。



第86章:抜刀


使者の仮面がわずかに揺れ、黒い影が地面から湧き出す。

それは蛇のように蠢き、凛の足元へと絡みつこうと迫った。


「来る……!」


凛は刀を抜き放つ。


刀身は黒鉄に近い鈍い光を放ち、鎖がその周囲をうねりながら巻き付く。

刃と鎖は一体となり、呼吸を合わせるように脈打っていた。


凛が一歩踏み出すと同時に、鎖が地を這い、影を絡め取った。


そのまま刀を振り下ろす。


「はぁっ!」


刃が閃き、鎖が弾けるように音を立て、影を切り裂いた。

断ち切られた闇は煙のように散り、床に吸い込まれて消える。


だが、すぐに新たな影が湧き出した。

今度は複数の腕の形をとり、四方から凛に迫る。


「くっ……!」


凛は咄嗟に呪札を掲げる。

札が燃え、光の陣が広がった。


影の腕が触れた瞬間、閃光が炸裂し、白い火花が通路を照らす。


だが、その光の中からなおも伸びる黒い触手があり、凛の外套を掠めて裂いた。


「ぐっ……!」


背中に衝撃が走り、呼吸が乱れる。


使者はゆっくりと歩み寄り、仮面の奥から声を響かせた。


「その刃は器に過ぎぬ。鎖に呑まれるのは時間の問題だ」


凛は歯を食いしばり、立ち上がる。


「……それでも! 私が……私でいるために!」


鎖が応えるように鳴り響き、刀の刃先に黒い光が集まる。

凛は振りかざし、全身の力を込めて一閃した。


刃と鎖が一体となったその一撃は、雷鳴のような轟音を伴い、迫る影をまとめて薙ぎ払った。


火花が奔り、闇を切り裂く閃光が走る。


一瞬、使者の動きが止まった。


凛は荒い息を吐きながら、刀を構え直した。

その手は震えていたが、瞳だけは決して揺らいでいなかった。



第87章:血と影


使者の背から伸びる管が、突如として蠢いた。

それは生き物の触手のように鋭くしなり、金属の光を帯びながら空気を切り裂く。


「っ……!」


凛は鎖で防ごうとするが、一本、二本と繰り出される速度はあまりにも速かった。

鎖は叩きつけられ、火花を散らす。


「まだ終わらぬ……」


使者の仮面の奥から、冷たい声が響いた。


次の瞬間、一本の管が大きく弧を描き、凛の肩を貫いた。


鮮血が飛び散り、外套を濡らす。

痛みが電撃のように全身を駆け抜け、膝が崩れ落ちそうになる。


「……あああっ!」


必死に踏みとどまるが、すぐに別の管が足を薙いだ。

太腿に深い裂傷が走り、凛の視界が白く霞む。

立つことすら困難になり、呼吸が荒く乱れる。


「弱い……だが、それでよい」


使者は背中の管をさらに広げ、十数本の槍のように鋭く尖らせた。


「こうして削り、壊し、残るのは“器”だけ……」


凛は震える手で刀を支え、鎖を振り回した。

刃と鎖が弧を描き、閃光を散らす。

だが、傷を負った腕と足は思うように力が入らず、攻撃は影に弾かれた。


血が滴り、床に赤い斑点を描く。

視界が滲む中、脳裏に兄の姿が浮かんだ。


——どうしても……会わなきゃ……。


外套が微かに震え、鎖が脈動する。

まるで「差し出せ」と迫るように。

力に頼るか、自分を失うか。

その選択を、容赦なく突きつけてきていた。



第88章:揺らぐ境界


視界が赤黒く滲み、呼吸が荒く掠れる。

肩と足から滴る血は止まらず、冷たい床に広がっていく。

凛は刀を握ったまま、力が抜けていくのを感じた。


——その刹那。


頭の奥に、異様な記憶が流れ込んでくる。


燃え盛る街。


叫ぶ声。


誰かの名を呼びながら崩れていく顔。


そして……無数の魂が刃に吸い込まれていく光景。


「……いや……これは……私じゃない……!」


必死に否定するが、記憶は鮮明すぎた。


まるで刀そのものが、かつての持ち主の意識と共に凛を呑み込もうとしている。


視界が霞み、意識が闇に落ちかける。

声が耳元で囁く。


——差し出せ。お前も同じだ。


——己を忘れ、刃と一つになれ。


そのときだった。


外套が大きく膨らみ、凛の体を包むように広がった。

さらに、鎖が自らの意思を持つかのように動き、凛の胴や腕、足に絡みつき、全身を縛り上げる。


「っ……!」


痛みと共に、意識が現実に引き戻される。


鎖は苦しみを与えるのではなく、暴走に呑まれようとする凛を必死に外へ繋ぎ止めていた。


刃の記憶はなおも流れ込む。

だが、鎖が壁となり、外套が覆いを作り、凛の心を保っていた。


「……私は……私は……!」


血に濡れた唇で、かろうじて言葉を吐き出す。


使者の仮面が揺れ、冷たい声が響いた。


「……鎖が……お前を守る、だと……?」


その瞳の奥に、初めてわずかな動揺が灯った。



第89章:憑依の兆し


血で濡れた床に倒れ込んでいた凛の身体が、ふいに震えた。

鎖はなおも彼女を守るように絡みつき、外套は脈動する鼓動を包み込んでいる。

しかし、その内側で……別の何かが彼女を揺さぶっていた。


「……あ……ぁ……」


声は自分のもののようでいて、微かに別人の響きを帯びていた。

手が勝手に動き、傷ついた足でゆっくりと立ち上がる。

血が滴り、体は痛みに悲鳴を上げているはずなのに、動きは淀みなく、むしろ異様なほどに滑らかだった。


刀を握る腕には鎖が巻き付き、その鎖がまるで導くように動きを支配していく。


凛の瞳が開かれた瞬間、その光は以前の彼女のものではなかった。


——鋭い眼光。


使者を真っ直ぐに射抜く、冷酷な視線。

それは獲物を捕らえた刃そのものの光だった。


使者は一歩退き、仮面の奥で低く呟いた。


「……これは……刃に憑かれたのか……?」


凛の唇がわずかに動く。


だがそこから洩れた声は、彼女自身のものと、どこか古い誰かの声が重なっていた。


「……お前を……断つ……」


空気が震え、鎖が凛の全身に巻き付いたまま唸りを上げる。


それは暴走ではなく、憑依と抑制の狭間にある、不安定な均衡だった。


刀がゆっくりと振り上げられた。

その刃先は震えることなく、一直線に使者を狙っていた。



第90章:二つの意志


凛の体は自分のもののはずなのに、まるで別の存在に導かれるように刀を振り上げた。

鎖は全身を包み、暴走を縛るかのように軋みながら締め付けている。

その痛みが意識を現実へ繋ぎ止める唯一の枷だった。


「断つ……」


凛の声と、誰かの声が重なり合い、低く響く。


刃は震えることなく、寸分の狂いもなく使者を狙っていた。


「来るか……!」


使者は背の管を一斉に広げ、槍のように鋭く尖らせる。

影の奔流が押し寄せ、空間が軋み、壁の装置が共鳴して光を散らす。


次の瞬間——。


凛が踏み込み、刃を振り下ろす。


鎖が一斉に唸りを上げ、まるで生き物のように周囲の影を弾き飛ばす。

刃先が管の一本を捕らえ、火花を散らしながら断ち切った。


「なっ……!」


使者の仮面の奥で、初めて驚きが混じる。


だが凛は止まらない。

意識の半分は暗闇に沈み、残る半分が必死に「自分」を守ろうと抗っていた。

その矛盾が、刃をさらに鋭くしていた。


鎖が四方に広がり、光と影の網を張る。

刃はその中心で閃光を放ち、容赦なく影を切り裂いた。


使者の体が弾き飛ばされ、背の管が石壁に叩きつけられる。

壁が崩れ、瓦礫が散る。


凛は荒い息を吐き、刃を握りしめる。


その眼光はなお鋭く、だがその瞳の奥には、確かに“凛自身”の意志が揺らめいていた。


「……私はまだ…私でいる」


声は震えながらも、確かに届いていた。



第91章:決断の刃


使者は背の管を震わせ、再び闇を放とうとした。


しかし、その瞬間——凛の鎖が爆ぜるように広がり、全方向から影を封じ込める。


「もう、逃がさない…!」


声は凛自身のものだった。

だがそこに混ざる低い響きは、刃に宿る誰かの声でもあった。


鎖が幾重にも絡みつき、使者の動きを完全に封じる。


仮面の奥の瞳に焦りが宿り、低い声が漏れた。


「小娘……私を殺すつもりか……?」


「殺すんじゃない……

 ここで、終わらせる……!」


凛の刀が振り下ろされた。

鎖が導くように軌跡を描き、刃はまっすぐに使者の胸を貫く。


轟音が響き、管が弾け、黒い霧が一気に吹き散った。

使者の体は影と肉が乖離し、仮面が粉々に砕ける。

その顔は既に半ば崩れ落ち、影そのものとなりつつあった。


「……我らは……管理者の……」


最後の声は掠れ、影に飲まれて消えた。


次の瞬間、全身が爆ぜるように崩壊し、黒い残滓だけが床に広がった。

その場に残ったのは、血に濡れた凛と、なお震え続ける鎖だけ。


呼吸は荒く、意識は朦朧としている。

それでも、刃を振り下ろしたその手だけは、確かに自分の意思で握っていた。


「……終わった……」


呟いた声は震え、瞳には涙が浮かんでいた。

だが、その奥には確かな決意が宿っていた。


——もう逃さない。


——兄を奪ったものも、この施設の闇も。


凛は震える手で鎖を引き寄せ、外套を正し、崩れた空間を見据えた。



第92章:空虚


「案内人……!」


血に濡れた身体を引きずりながら、凛は牢へ駆け寄った。

息は荒く、肩と足の傷はまだ痛みを訴えていたが、それでも足は止まらなかった。


さっきまで確かにそこにあったはずの影。

手を伸ばし、必死に引き寄せようとした存在。


あの案内人の姿が——。


牢の中には、もう何もなかった。


ぽっかりと黒い穴が床に開いているだけだった。


その穴は深淵に続いているかのように底が見えず、吸い込まれるような冷たい風を吐き出していた。

格子も装置も消え失せ、ただ“欠落”だけが残されていた。


凛は穴の縁に膝をつき、手を伸ばす。

だが、そこには冷たい虚無しかなく、何も掴めない。


「……嘘……でしょ……」


声が震え、涙がにじむ。


あの狂気を装いながらも優しく導いてくれた案内人。

彼の目に、確かな理性と優しさが宿ったのを見た。


それなのに——。


黒い穴の奥から、かすかな声が響いたような気がした。


「……探せ……」


誰の声かは分からない。

案内人のものか、刃の囁きか、それとも施設そのものが発した幻聴か。


凛は震える手で刀を握り直し、涙を拭った。


「……必ず……必ず探す……」


黒い穴は答えを返さず、ただ冷たく口を開け続けていた。



第93章:決意の歩み


黒い穴の縁に座り込んだまま、凛はしばらく動けなかった。

喉は乾き、傷口から滴る血は床に赤い軌跡を残していく。

肩も足も痛みに震えていたが、それ以上に胸の奥が締め付けられていた。


——案内人。


あの狂気を装いながらも、自分を守ってくれた人。

彼が最後に見せた一瞬の理性と優しさ。

それを無駄にするわけにはいかない。


「……進まなきゃ」


凛は刀を杖のように突き立て、立ち上がった。

鎖がじゃらりと鳴り、外套が重く彼女を支える。

身体は限界に近い。

それでも、一歩を踏み出した。


傷ついた足を引きずりながら、通路の奥へ進む。

背後では黒い穴がなお口を開けていたが、もう振り返らなかった。


足音は弱々しく響く。

だがその一歩一歩は、確かに彼女の意思を刻んでいた。


暗い施設の奥へ。


さらなる試練が待ち受ける場所へ。

凛は、決して止まらずに進んでいった。



第94章:残された痕跡


施設の奥へ続く通路を、サラと巫女は急ぎ足で進んでいた。

壁に埋め込まれた光管は規則的に明滅し、二人の影を長く歪める。

ただの金属と石の道のはずなのに、どこか「血肉」を思わせる温度があった。


巫女は落ち着かぬ様子で周囲を見回す。


「……嫌な気配が、まだ消えていません」


サラは黙って歩を進めながら、手で壁をなぞった。


指先に伝わる冷たさは人工のものだが、その下には妙な懐かしさが潜んでいた。

この施設の匂い、空気、震えるような圧力。


「……ここで過ごした日々は、忘れることはできない」


短く呟いた声は硬く、それ以上の言葉は飲み込まれた。


やがて二人は広間に辿り着いた。

そこには凛と使者が激しく戦った痕跡が、鮮烈に刻まれていた。


床には鎖の擦れ跡が幾重にも走り、壁には爆ぜた呪札の残滓が焼き付いている。

空気にはまだ鉄の匂いが漂っており、点々と続く赤い痕が二人を迎えた。


巫女は顔を曇らせ、膝をついて血痕に触れた。


「……凜さん、ここで戦ったんですね……」


その指先に残った赤は、まだ乾ききってはいなかった。


サラはゆっくりと視線を巡らせる。


崩れた装置、裂けた壁。

その全てが一人の少女の必死の抵抗を物語っていた。


「……凛。お前は、ここで奴を退けたのか」


サラの声には、わずかな驚きと、誇りに似た響きが混じっていた。

だが同時に、深い不安もあった。


これほどの痕跡を残す戦いを、未熟な彼女が独りで切り抜けた——その代償は、どれほど重いだろうか。


巫女が立ち上がり、奥へ続く通路を見つめる。


「血の道は、まだ続いています。

 凛さんは……進んでいる。傷を負いながらも」


サラは剣を握り直し、深く息を吐いた。


「ならば急がねばならん。凜を、これ以上独りにしてはならない」


二人の影は再び走り出した。


背後に残るのは、戦いの残響と冷たい匂い。

そして前方には、なお先を行く凛の決意が刻まれていた。



第95章:沈黙の回廊


血を引きずるように歩を進めた凛の前に、やがて通路が途切れた。

開けた先には、また新たな区画が広がっている。


そこはまるで回廊だった。

天井は高く、両脇には巨大な石柱が並んでいる。

柱には見覚えのない文字や記号が刻まれ、淡い光を放ちながら脈動していた。

まるで心臓の鼓動のように、ゆっくりと、しかし確実に空間全体を揺らしている。


「……ここは……」


凛は足を止め、耳を澄ました。

誰もいないはずなのに、囁き声がどこからともなく響いてくる。

複数の声が重なり、意味を成さぬ言葉を延々と繰り返していた。

近づけば消え、離れれば追いすがるように戻ってくる。


床には光の紋様が描かれており、その一部が踏むたびに微かに沈む。

その度に、柱の光が強くなり、囁き声がざわめきを増す。


「試している……私を……?」


凛は刀を握り、慎重に前へ進む。

外套が重く肩にのしかかり、鎖は小さく震えていた。

危険の兆しを知らせるかのように。


奥へ進むにつれて、回廊の壁に並ぶ「装置」が見えてきた。


それは人の形を模した彫像のように見えたが、近づけば皮膚の下で何かが蠢いているように微かに揺れている。


空洞の目が、凛を追うように光を宿した。


息が詰まる。

それでも足を止めれば、すぐに意識を奪われそうな気配があった。


「行かなきゃ……」


震える声を押し殺し、凛は奥へと歩を進めた。

どこかで——この回廊の先に、兄の気配が待つような気がしたからだ。



第96章:幻影


回廊の奥、囁き声が一斉に途絶えた。


張り詰めた空気の中、凛の前に唐突に“それ”が現れる。


暗闇からせり上がるように立ち現れた影。


姿は霞に包まれ、輪郭は定まらない。


だが頭部は異様に肥大し、そこには数えきれぬほどの目が浮かび、同時に瞬いていた。

その眼差しは冷たく鋭く、凛の心の奥を抉るように突き刺さる。


「……幼い」


低い声が胸の内を震わせる。

耳ではなく、心臓そのものに語りかけられているかのようだ。


「まだ未熟。だが——上質な器だ」


「……何者……なの……?」


凛は震える声で問いかける。


「記憶も、魂も、器の中で眠るだけ。

 私はそれを測り、選び、統べる者」


幾つもの目が光り、凛の記憶を引きずり出そうとする。

幼い日の笑い声。母の手。兄の背中。

大切な記憶が刃のように抉られ、溶け崩れていく。


「抗うか? 留めるか?

 どちらでも同じだ。

 お前がどう足掻こうと、器はやがて私のものとなる」


「……渡さない!」


凛は刀を握り、叫んだ。

その声に、幻影の目が一斉に細められる。


「ほう。ならば証明せよ。

 お前が“人”であることを」


瞬間、幻影は霧散した。

だが消えた残滓が空間に染み込み、回廊の柱が一斉に脈動を始める。

光が眩くなり、凛の意識は深い水の底に引きずり込まれていった。



97章:罠


——気づけば、夕暮れの路地に立っていた。


赤い空。


遠くに、兄の背中。


「兄さん……!」


思わず駆け出す。

だが背中は遠ざかるばかり。


背後から囁き声が重なる。


「追っても無駄だ」


「お前は幼い」


「器に過ぎない」


兄の姿が徐々に霞み、影となり、やがて管理者の目と重なる。


「お前の求めるものはすべてここにある。

 だがそれを知りたければ——己を差し出せ」


凛は両耳を塞ぎ、頭を押さえた。


記憶が引き裂かれ、母の声、案内人の言葉、サラの背中が次々と溶けて消える。


「……いやだ……私は……失わない!」


刀を強く握った瞬間、鎖が脈動し、外套が全身を締め付ける。

それが彼女の意志を守り、幻影を裂いた。


光が弾け、景色が崩れ落ちる。


現実の回廊に戻った凛は膝をつき、荒い息を吐いた。


だが最後に、幻影の声だけが残った。


「ではお見せしよう。お前の兄が、この地でどうなったかを」



第98章:兄の幻影


唐突に目の前に人影が浮かび上がった。


それは確かに兄の姿だった。

少し乱れた髪、細身の背中、幼い頃と変わらぬ歩き方。

凛の胸が強く締め付けられる。


「兄さん……!」


呼びかけると、その影がゆっくりと振り返った。


だが、目が合った瞬間、凛は息を呑む。

その瞳にはかつての優しさはなく、深い闇と冷たい光が宿っていた。


「凛……」


声は確かに兄のものだった。

しかし、その響きには何重もの音が混ざり、低く濁っていた。


「人の世界は恐ろしく儚い…希望もない…

 そんな世界を生き抜くには、ぼくらは脆すぎる。

 だから——」


凛は首を振る。


「違う! 私は……!」



「違わない」


兄の影は歩み寄る。


その姿は少しずつ崩れ、片方の腕は黒い影に溶け、足元は虚空に沈んでいく。


「自我を保とうと足掻くほど、痛みと喪失に苛まれるだけだ。

 忘れてしまえばいい。楽になる」


その言葉は甘い毒のように心に染み込む。


案内人の最後の言葉、母の声、サラや巫女の姿が一瞬かき消されそうになる。


「やめて……!」


兄の影が手を伸ばした。


その手はかつての温もりのはずなのに、触れる寸前で黒い鎖のように変わり、凛を絡め取ろうと迫る。


「さあ、こっちへおいで」


凛は刀を強く握りしめ、涙を流しながら叫んだ。


「……私は器じゃない!

 私は、私だ!」


鎖が激しく脈動し、外套が膨らんで凛の体を包む。

刃が光を宿し、幻影の手を払いのけた。


兄の影は一瞬だけ優しげに微笑んだように見えた。


だが次の瞬間、影は霧散し、回廊には再び沈黙が訪れた。


凛の肩は震え、刀を支える手が力なく垂れた。



第99章:灯


兄の幻影が霧散したあと、回廊には重苦しい沈黙が戻った。

凛はその場に膝をつき、肩で大きく息をした。

血の味が口に広がり、全身が重く、今にも崩れ落ちそうだった。


だが、幻影が消える直前に浮かんだ兄の微笑みが、脳裏から離れなかった。

それは管理者の罠に過ぎなかったのか。

それとも、兄自身の残滓が、ほんの一瞬だけ彼女に応えたのか。


「……わからない……でも……」


凛は刀を支えに、震える足でゆっくりと立ち上がった。


鎖がじゃらりと音を立て、外套はまだ彼女を守るように身体に寄り添っている。

自分が器か、人か。

その問いに答えるためにも、歩みを止めるわけにはいかなかった。


「兄さん……必ず見つける。

 確かめなきゃ……」


赤く乾いた血の跡が足元に散り、通路の先へと続いている。

その先には、さらなる試練と、管理者の本拠が待つだろう。

恐怖はまだ消えない。

だが、胸の奥に灯った小さな炎は消えなかった。



第100章:中枢の扉


通路は次第に細くなり、壁に埋め込まれた装置の光もまばらになっていった。

凛の足音だけが響き、冷たい空気が肺を焼く。


やがて、道は突き当たりに辿り着く。

そこにそびえていたのは、巨大な扉だった。

鉄でも石でもない。

滑らかで無機質な光沢を放ちながら、脈動するように淡い光を走らせている。

まるで呼吸するかのように、扉そのものが“生きている”かのようだった。


扉の中央には、砂時計のような紋様が刻まれていた。

渦巻き、重なり合い、幾重もの瞳の形を象ったようにも見える。

そこに視線を落とした瞬間、凛の心臓が一拍強く跳ねた。


「……見られてる……」


言葉が漏れる。

誰もいないはずの扉が、彼女の存在を測っている。

幼い頃の記憶、案内人と過ごした短い時間、サラや巫女との日々——

それらすべてが紋様に吸い込まれていくような感覚がした。


扉の周囲には、円形の部屋が広がっている。

壁には無数の窓のような裂け目があり、その中には人影のようなものが揺らめいていた。

しかし目を凝らせば、それは人ではなく、記憶の残滓が形を成した幻影。

誰かの笑い声、泣き声、叫び声が交錯し、部屋全体がざわめいていた。


「ここが……中枢……」


凛は刀を強く握り直し、震える膝を抑え込むように立ち続けた。

背後から再び囁き声が忍び寄る。


「開けろ……」


「進め……」


「抗えば消える……」


その声は兄の声にも似ていた。

だが凛は耳を塞がず、まっすぐに扉を見据える。


「この先に……必ず兄がいる」


そう呟き、足を一歩、扉へと踏み出した。

扉の紋様が脈動を強め、部屋全体が低く唸りをあげる。

中枢の奥に待つものが、彼女を迎え入れようとしていた。



第101章:開門


扉に近づくたび、胸の鼓動が加速していった。

脈打つ紋様が、凛の鼓動と同調するかのように強まっていく。

耳元では誰かの声が囁き、記憶の残滓がざわめく。


「開けろ……」


「進め……」


「器となれ……」


だが凛は刀を握りしめ、鎖を肩に巻き付け、まっすぐに扉を見据えた。


「……私は器じゃない」


言葉と同時に、刀を扉の紋様へと突き立てた。


――瞬間。


眩い光が走り、部屋全体を震わせた。


扉は軋むことなく静かに割れ、巨大な口を開いたかのように左右へと広がっていく。

奥から流れ込んできたのは、冷たさと熱が入り混じる異様な空気。

血の匂い、古びた本の匂い、そして——人の意識そのもののようなざわめき。


凛は一歩を踏み出した。



第102章:中枢の広間


扉の先に広がっていたのは、巨大な広間だった。

天井は果てしなく高く、漆黒の闇に覆われている。

壁一面には無数の装置が埋め込まれ、管が脈動し、そこから光が滴り落ちるように流れていた。


中央には円形の祭壇めいた構造物があり、その上には透明な柱が何本も立ち並んでいた。

柱の内部には人影が浮かび、それぞれが微かに身じろぎしながらも、声を発し続けていた。


その声は断片的な記憶。

喜び、悲しみ、絶望、そして名を呼ぶ声。


「……記憶を、閉じ込めている……」


凛の唇が震える。

目を逸らそうとしても、柱の中の一人一人の顔が、誰かに似ているように見えてしまう。


兄、案内人、かつて街で出会った人々。

だが同時に、それは彼女自身の未来の姿にも思えた。


広間の奥、影がゆらめいた。


複数の目が浮かび、こちらを見据えている。

管理者の“本体”か、それともその化身か。


「よく来たな……幼き器よ」


低く響く声が、広間全体を震わせた。


凛は刀を構え、震える足を踏み出した。


「私は……器じゃない。兄を返して……!」


広間は揺れ、記憶の声がいっそう大きくざわめき出した。



第103章:記憶の柱


広間の中央で脈動する柱の群れ。

そのひとつひとつに閉じ込められている人影は、最初は誰でもないただの影に見えた。


だが、凛が一歩踏み出した瞬間、そのうちの一本が強く光を放ち始めた。


「……?」


柱の中に浮かぶ人影がゆっくりと顔を上げる。


その輪郭、その髪の形、その佇まい。

凛の心臓が激しく脈打った。


「兄さん……!」


叫んだ声が広間に反響する。


柱の中の男は、兄の記憶の影だった。

その瞳は閉じられ、口は動かず、意識は深い眠りの中に囚われているようだった。

無数の管が彼の体に突き刺さり、光が脳と胸から吸い上げられて柱の中へと流れ込んでいた。


「やめろ……! こんなの……!」


凛は刀を握りしめ、駆け寄ろうとした。


だが次の瞬間、柱の光が揺らぎ、兄の姿は歪み始めた。


その顔が凛に向き直り、口がゆっくりと動いた。


「凛……お前も……来るんだ」


声は懐かしく優しい響きを持ちながらも、どこか影に濁っていた。

呼びかけられた瞬間、凛の足が止まる。

心の奥に温もりが蘇り、同時に冷たい恐怖が突き刺さった。


「兄さん……本当に……?」


柱の中の兄は笑った。


だがその笑みは優しさと苦痛と狂気が混じり合い、何を意味するのか判別できなかった。


背後から再び声が響く。


「見よ。これがお前の未来だ。

 器となり、記憶を捧げ、柱の一部となる。

 幼き器よ……その血筋も、抗えぬ定めだ」


複数の目が広間の奥から輝き、管理者の声が柱と共鳴する。

凛の胸に、決して消えない痛みと迷いが突き刺さった。


「助けなきゃ……でも……」


刀を握る手が震え、鎖が軋む音が広間に響いた。



第104章:拒絶と器


「兄さんを……返して!」


凛は叫び、刀を振りかざした。

鎖が唸りを上げ、刃に力が集う。

光を裂き、記憶を閉じ込める柱を斬ろうと一閃した。


——だが。


刃は柱に触れた瞬間、鈍い衝撃に弾かれた。

金属を叩いたような硬質な音が響き、凛の腕に痺れが走る。

柱は脈動を強め、拒むように冷たい光を散らした。


「くっ……!」


何度も振り下ろす。

鎖が軋み、刃が閃く。

だが柱は決して裂けることなく、逆に凛の意志を押し返すように拒絶を示した。


「無駄だ」


管理者の声が広間に響き渡る。


「記憶の柱は意思を持つ。

 お前の願いを認めぬ限り、決して斬れはしない」


その言葉と同時に、広間の奥で重い音が鳴り響いた。


凛が振り返ると、闇の中から影がゆっくりと歩み出てくる。


「……兄さん……?」


だが、それは兄ではなかった。

人の形をしているが、その目には光がなく、四肢はぎこちなく動いていた。


背からは細い管が伸び、操り糸のように引かれている。

皮膚は蝋のように白く、血色はなく、ただ器として動かされているだけだった。


「そんな…………」


凛の胸に冷たいものが突き刺さる。


その存在は、彼女を見つめることもなく、ただ命じられるままに刀を振り上げた。


刃の金属音が広間に響き、凛の喉が凍り付く。


「やめて……兄さん……!」


だが返事はない。

操り人形のようになった兄の“器”は、無機質な動きで凛に迫ってきた。



第105章:声の届かぬ戦い


操られた兄の器が無機質な動きで迫る。

その刀が振り下ろされるたび、凛は必死に鎖を巻き付け、外套で衝撃を受け止めた。

火花が散り、広間に鋭い金属音が響く。


「兄さん……やめて! 私よ、凛だよ!」


叫んでも、兄の器の瞳は虚ろで、そこに光はなかった。

ただ命じられるままに刃を振るい、凛を斬ろうとする。

重く、正確で、本来の兄の力がそのまま残っているかのようだった。


「くっ……!」


凛は必死に受け流すが、傷ついた肩と足に力は入らない。

膝をつきそうになるたび、鎖を振り回して間合いを稼ぐしかなかった。


「兄さん!目を覚まして!!」


刃と刃がぶつかり、衝撃で凛の手が痺れる。

視界が霞み、呼吸が荒れる。

それでも、声だけは止めなかった。


「思い出して! あの日……街で、私の手を引いてくれたでしょう!

 私を守ってくれた、優しかった兄さんを……!」


呼びかける声に応じるように、一瞬だけ器の動きが止まった。


刃が振り下ろされる直前、虚ろな瞳がかすかに揺れる。


凛はその一瞬を逃さず、震える声でさらに叫んだ。


「兄さん! 私はここにいる!」


だが、背後から響く管理者の声が、その呼びかけを嘲笑うように覆い隠す。


「無駄だ。器は器。魂も声も、もうここにはない」


兄の器は再び動き出し、無情な刃を振り下ろす。

凛は必死に防ぐが、防戦一方のまま押し込まれていった。


「やめてッ!」


凛は叫び、駆け寄ろうとする。

鎖が床を叩き、外套が必死に彼女を守るように揺れた。


だが柱から伸びる光の網が立ちはだかり、凛の進路を遮る。


目の前で、兄の器の瞳がほんの一瞬だけ揺れた。


「兄さん……!あなたは器なんかじゃない!


 私を……忘れてないはず!」


兄の刃先がわずかに止まり、震える。


だが管理者の声が再び突き刺さる。


「迷うな。器に迷いは不要だ。斬れ」


広間の空気が凍りつき、凛の心臓は張り裂けそうに脈打っていた。



第106章:暴走の刃


兄の器の刃先が、首元へと下ろされる。

その動きは機械のように正確で、迷いはない。

広間全体が凍りつき、息をすることさえ難しくなった。


「やめてぇぇッ!」


凛の叫びが空間を裂いた瞬間、鎖が暴れるように広がった。


外套は黒く膨張し、刃は光と影をまとって震え出す。


彼女の体は痛みに引き裂かれ、意識が白く飛びそうになる。


——だが、その隙を狙うように“声”が忍び込んだ。



《差し出せ。お前の怒りを。お前の痛みを。そのすべてを、刃に委ねよ》



頭の奥に直接響く低い声。


凛は必死に抗おうとするが、血に濡れた体はもう限界を超えていた。

瞳が一瞬だけ濁り、次の瞬間、片目が鋭い光に変わる。



半分は凛自身。


半分は刃に宿る何者か。


その身体が勝手に動き出し、鎖をうねらせて柱と兄の器の間に割り込んだ。


「やめろ……兄さんに……触れるな!」


声は凛のものと、異質な誰かの声が重なり合い、広間に響き渡る。


刀を振り上げた彼女の動きは、人のものを超えていた。

鎖が弧を描き、影を裂き、柱にすら亀裂を走らせる。


管理者の声が低く笑う。


「……面白い。器が器を拒み、憑依を受け入れるか」


兄の器は動きを止めたまま、刃を握りしめて震えていた。

凛の視線が突き刺さり、その鋭さに広間の光が一瞬揺らいだ。



第107章:断ち切る鎖


暴走の力に包まれた凛の刀が黒光りし、鎖が生き物のようにうねった。


兄の器を背から操る管が、脈動を続けながら不気味に揺れている。


「……そんなものに、兄さんを縛らせない!」


凛の瞳が異様な光を放ち、刀が閃光を走らせた。


鎖が一斉に唸りを上げ、複数の管に巻きつく。

そして、一気に引き裂いた。


「ッ……!」


鈍い断裂音と共に、管から光が噴き出す。

切り裂かれた管は床に叩きつけられ、残滓のような影を撒き散らしながら消えていった。


兄の器は膝をつき、痙攣するように動きを止めた。

虚ろだった瞳がわずかに揺れ、凛を見たように思えた。


「……兄さん……?」


その一瞬の静寂を裂くように、広間全体に響く低い笑い声。


管理者の幻影が奥で蠢き、無数の目が一斉に凛を射抜く。


「面白い……断ち切るか。

 ならば見せてみよ……その刃の行き着く先を」


凛は全身の血が沸き立つのを感じた。

理性と憑依の狭間で揺れる意識。

だが、怒りと決意だけは確かに彼女を支えていた。


「兄を弄ぶなぁぁぁっ!」


叫びと同時に、鎖が地を叩き、刃が真っ直ぐに管理者の幻影へと振り下ろされた。

影のような体を裂き、無数の目に鋭い光が突き刺さる。


広間は轟音に包まれ、記憶の柱が共鳴し、空気そのものが悲鳴を上げた。



第108章:幻影との衝突


凛の刃が振り下ろされ、鎖が唸りをあげて管理者の幻影を切り裂いた。

だが、その瞬間、広間全体が大きく軋み、まるで空間そのものが敵意を持ったように揺れた。


「愚かなる幼き器よ……」


無数の目が広間中に浮かび上がり、声が幾重にも重なって響いた。


「己の刃を振るい、抗おうとするか。

 だがその力は、お前のものではない」


幻影の影が渦巻き、触手のように長い影の腕が凛に襲いかかる。

鎖は自動的に動き、刃と絡み合ってその攻撃を弾いた。

火花が散り、記憶の柱が共鳴して不気味な声を吐き出す。


「やめろ……! 兄さんを、返せ!」


凛は叫びながら突き進むが、その声の奥で別の囁きが響く。



《もっと差し出せ。怒りを。痛みを。そうすれば、全てを断ち切れる》



頭の奥に響くその声に、意識が揺らぐ。


半分は凛自身の意思。

半分は刃に宿る意志に引きずられていた。


刃を振り抜くたびに、力は増していく。

鎖は無数に伸び、空間を覆い尽くし、影を押し返していった。

だが同時に、凛の瞳は冷たく濁り始め、息は荒れ、言葉が途切れていく。


「……私は……私は……」


広間の奥で、管理者の目がさらに強く輝いた。


「良い……そのまま自我を手放せ。

 器となり、我が力を担え」


刃の囁きと管理者の声が重なり、凛の意識は白く塗り潰されていく。

鎖はなおも彼女を守るように軋むが、それがどちらに傾くのかは分からなかった。


そして——。


暴走の刃をまとった凛が、管理者の幻影に真っ直ぐ突進していった。



第109章:呼びかけ


通路の奥から、轟くような衝撃音が響いてきた。

石壁が揺れ、空気が波のように押し寄せる。


サラと巫女は顔を見合わせ、迷うことなく走り出した。


「この気配……凛か!?」


サラが低く唸り、剣を握り直す。


巫女も必死に後を追いながら、胸に広がる不安を抑えきれなかった。


やがて中核に駆け込んだ二人は、目の前の光景に言葉を失った。


そこに立つ凛の姿は、もう見知った少女のものではなかった。


鎖が暴れ狂い、刃は光と影を同時にまとう。

外套は膨張して翼のように広がり、風もないのに翻っていた。

その出立ちは人の輪郭を越え、異形と人の境界に踏み込んでいた。


「……っ、これは……!」


サラは口を開くも、言葉が続かない。


巫女は胸に手を当て、茫然と呟いた。


「……凛さん……なのですか……?」


凛は返事をしない。


刃を振り下ろすたびに記憶の柱が軋み、広間全体が悲鳴を上げる。


その動きは救おうとする意志ではなく、暴走する力そのものに突き動かされているようだった。


「凛!」


サラの叫びが広間に響く。


「凛なのか!? 聞こえているのか!」


だが、鎖はなおも暴れ回り、凛の眼光は鋭く冷たい。


巫女は涙声で必死に呼びかけた。


「凛さん! 吞み込まれてはいけません!

 名を!名を強く意識して自分の名前を呼ぶのです!

 あなたは名を持つ、ひとりの人間なのです!」


その言葉に、ほんの一瞬だけ凛の瞳が揺らぐ。


だがすぐに、管理者の低い声が重なった。


「抗えぬ。器は器。抗おうとするほど、深みに沈む……」


広間は震え、記憶の柱がさらにざわめいた。


サラと巫女は声を枯らしながら呼び続けた。

その中心で、凛は暴走と自我の境界に立ち尽くしていた。



第110章:迫る鎖


「凛、やめろ!」


サラが駆け寄ろうと足を踏み出した瞬間、鎖が荒れ狂い、衝撃波のように空間を震わせた。


轟音と共に床が裂け、サラは咄嗟に腕で顔を庇う。

熱風のような力が押し寄せ、近づくことすら困難だった。


「くっ……止めなくては!」


サラは迷わず剣を抜き、左手に握った弦を弾いた。

剣身に共鳴する音が響き、空気が震える。

その力で鎖の波を押し返そうと前進する。


だが、暴走する凛の鎖は容赦なく弾き返した。


刃と弦の音をも呑み込み、爆ぜるような衝撃がサラを押し戻す。

足を踏ん張り、剣を支えなければ吹き飛ばされていた。


「サラ様!」


巫女が後ろから呪札を掲げる。

札が光を放ち、結界のように二人を覆った。


しかし次の瞬間、鎖がその光を叩き割り、札は次々と燃え落ちていく。


「怒りの意思が……強すぎる……!」


巫女は必死に新たな札を繰り出すが、その力の奔流に押され、後ずさりを余儀なくされた。

凛の周囲はもう、近づくだけで意識を削られるような圧に満ちていた。


広間の中央で暴れる凛の姿は、人間でありながら人間ではなかった。

その出立ちは異形の影そのもので、ただ斬り裂き、ただ叫び続ける力の化身。


サラは歯を食いしばり、押し寄せる衝撃に耐えながら叫んだ。


「凛! お前を必ず止めてみせる!」


その声に応えるように、鎖が一斉にサラへと襲いかかる。

広間の空気が悲鳴をあげ、巫女の結界が軋み、砕ける寸前に追い込まれていた。



第111章:祈りの声


「ぐっ……この程度で……止まってたまるか!」


サラは暴れる鎖に何度も叩きつけられながらも、一歩、また一歩と前に進んでいた。


剣身には弦の震えが響き、黒光りする刃が鎖の一部をはじき返す。

だがそのたびに全身を裂くような衝撃が走り、血が口端から滲み出る。


巫女は必死に結界を張りながら叫んだ。


「サラ様! もう……無茶です!」


サラは振り返らない。

ただ前を見据え、なおも鎖に弾かれながら、足を踏み込んだ。


「……止めなくては……! あれ以上、凛を奪わせるわけにはいかん!」


暴走の凛は無表情のまま、刃を振り下ろす。


サラは身を挺して受け止め、膝をつきそうになりながらも踏み止まった。

その必死の姿に、凛の瞳がほんの一瞬だけ揺らぐ。


「……サラ……?」


わずかな隙。

その瞬間を逃さず、巫女は胸に抱いた札を高く掲げた。


「どうか……届いて……!」


声が震えながらも力強く広間に響いた。

祈りの言葉を重ねるたび、札は淡い光を放ち、その光は細い糸のように凛へと伸びていく。


「凛さん……! あなたは器じゃない!

 名を持ち、想いを抱く、一人の人間なのです!

 戻ってきてください……!」


光は鎖に弾かれ、何度も裂けかけた。

それでも巫女は札を燃やし続け、声を祈りに変えて届けた。

その響きが重なったとき、凛の胸に鋭い痛みが走る。


——管理者の声と、仲間の声。


——刃の囁きと、祈りの響き。


その狭間で、凛の意識に微かな隙が生まれた。



第112章:憎しみの涙


「……っ……」


暴走の刃を振るう凛の頬を、一筋の涙が伝った。

その目は憎しみに濁りながらも、奥底で必死に自分を求めていた。


「どうして……こんなに……憎しみで、胸がいっぱいになってしまったの……?」


震える声が漏れる。


刃に宿った囁きと、管理者の声がその涙を嘲笑うかのように広間に反響する。


サラは血に濡れた身体を奮い立たせ、剣を構え直した。


「凛! その憎しみに飲まれるな!

 お前はまだ戻れる! 私が止めてみせる!」


巫女も札を重ね、光の壁を必死に張り巡らせる。


「凛さん……どうか、これ以上自分を責めないで……!」


二人の声は必死だった。


だが鎖は容赦なく暴れ、サラの剣を叩き、巫女の結界を裂いた。

それでも二人は退かず、ただ凛の心へ必死に手を伸ばし続けた。


その光景を、広間の奥から管理者は静かに見下ろしていた。


無数の目が瞬きもせず、口のない顔に愉悦の気配を漂わせる。


「良い……実に良い……。

 人が人を止めようと足掻く姿ほど、美しいものはない。

 深淵は満ちる……」


その言葉に、凛は再び刃を振り上げる。


涙で濡れた頬を冷たい風が撫で、鎖の音が広間を震わせた。


憎しみと悲しみの狭間で、彼女の心は限界に迫っていた。



第113章:白き轟音


「……ごめんね、サラ、巫女……」


涙を流しながら、凛は震える声で二人に言った。


「私……もう止められない。兄を……あんなふうにしたコイツを、ユルセナイノ……」



その瞬間。



凛の握る刃が唸りを上げ、鎖が暴れるように広間を覆った。


黒々とした光が膨れ上がり、やがて狂気のような衝撃が空間全体を支配する。


音は爆ぜ、床も壁も悲鳴をあげる。



「——ッ!」


サラが剣を構え、巫女が札を掲げる。

だがその力の奔流はあまりに凄絶で、二人は押し返されるだけだった。


鎖のひと振りごとに轟音が走り、記憶の柱が震え、広間全体が軋む。


そして刃の先端から溢れ出した光は、もはや影ではなく、すべてを飲み込むほどの純白に変わっていった。


「凛……!」


サラの叫びも、巫女の祈りも、その光にかき消されていく。



狂気はもはや色を失い、広間全体を包む白の奔流へと変わる。


音も形も、涙も声もすべてが呑み込まれ、







ただ真っ白な世界だけが広がった。









第114章:世界



サイレンの音が夜を切り裂いていた。


赤と青の光が路地を照らし、パトカーが何台も並んでいる。

消防車の重々しいエンジン音、無線で飛び交う声。

街は騒然とし、ざわめきに包まれていた。


「こちら、確認急げ! 瓦礫の下にまだ人が残ってるぞ!」


「通行止めを広げろ! 近づくな!」


警察官と消防隊員が走り回り、黄色い規制線が張られていく

周囲に集まった人々は不安げに声を潜め、揺れる炎の光に顔を照らされていた。


焦げた匂いと土埃が立ちこめる。

地面にはところどころ陥没が生じ、下から吹き出したような熱気がまだ漂っていた。


「まるで……地下から何かが……」


誰かが呟く。

しかし、その先の言葉はサイレンの音にかき消された。


夜の街は、理由を知らぬまま不気味な気配に包まれていた。



第115章:発掘されたモノ


サイレンの音が鳴り響く中、消防隊員たちは懸命に瓦礫をどかしていた。

鉄骨を切断する火花、崩れたコンクリートを持ち上げる音。

警察官たちも協力しながら、生存者を探していた。


「急げ! まだ中に人が残っているかもしれない!」


隊長の声が飛び、皆が息を切らしながら作業を続ける。


やがて、最初の“それ”が見つかった。


「……っ!? これは……!」


瓦礫の隙間から引き上げられたのは、人間の形をしている。


だが皮膚は干からび、骨と皮だけになったように痩せ細り、目は深く窪んで空洞だった。

まるで何十年も前に死んだミイラのような姿。


「どういうことだ……? 火災の犠牲者……じゃない……」


若い隊員が言葉を失い、手を震わせた。


次々と瓦礫の下から同じような遺体が掘り出される。

どれもみな一様に干からび、表情は恐怖と苦痛のまま固まっている。

数は一体や二体ではなかった。


「なんだこれは……こんなに……!」


警察官の一人が声を震わせる。


「爆発があったのは確かだ……だが、この死体は……」


誰もが息を呑み、言葉を失った。


ここで何が起きたのか。

ただ一つ分かるのは、ただの爆発や事故では説明できないということだった。


夜の街をサイレンとざわめきが包み込む。



第116章:刑事の眼


現場は混乱の渦中にあった。


サイレン、怒号、瓦礫をどかす金属音。

その中を一人の刑事が駆けつけた。


スーツは土埃で汚れ、額には汗が滲んでいる。

目の奥は鋭く、ただの事故ではないと直感していた。

彼は人員を押しのけ、瓦礫の中心へと歩み寄る。


「……現場の状況は?」


短く問いかける声に、警官が答える。


「瓦礫の下から……普通じゃない遺体が無数に……まるで干からびたミイラのようで……」


言葉が詰まり、震えが混じる。


刑事は深く息を吸い込み、目を細めた。


「……全部、掘り出せ。まだ何かあるかもしれない」


消防隊員と警察が協力し、鉄骨をどかし、崩れたコンクリートを掘り進めていく。

その作業は過酷で、汗と埃が混じり、息は荒い。


そして——。


「待て! こっちに……!」


隊員の叫びが上がった。


瓦礫の下、かすかに動く影があった。

土埃にまみれ、息も絶え絶えに胸が上下している。


「生存者だ! まだ生きてる!」


掘り出されたその姿に、刑事も思わず目を見張った。


それは黒い外套をまとった少女。

布は裂け、血に濡れ、全身は傷だらけ。

だが確かに、彼女は生きていた。


「こんな……子供が……」


消防隊員が驚愕の声を漏らす。


刑事はその場にしゃがみ込み、泥と血に覆われた少女の顔を見つめた。


「この子は……一体、何を見たんだ……」


黒い外套が、まるで意思を持つかのように微かに震えていた。


刑事は直感した。

この少女こそが、ここで起きた「何か」の中心にいるのではないか…と。



第117章:搬送


「担架を! 早く!」


消防隊員の叫びに応じ、医療班が駆け寄る。


黒い外套を纏ったままの少女の体は瓦礫に削られ、血と泥に覆われていた。

その小さな胸はかすかに上下しており、確かに命の灯火が残っていた。


「脈は……弱いけどある! まだ間に合う!」


救急救命士が声を張り上げ、酸素マスクを取り付ける。


担架に慎重に乗せられた少女は、急ぎ足で救急車へと運ばれていった。


刑事はその後ろ姿をじっと見つめ、唇を強く噛みしめた。


「何が……どうなってるんだ……」


誰にも聞こえないほどの声で呟く。


救急車のドアが閉まり、赤いランプが回転する。


「出発します!」


運転席から叫ぶ声とともに、サイレンが夜を切り裂いた。


街のざわめき、警官たちの指示、消防の怒号が遠ざかっていく。


黒い外套を纏ったまま、少女は意識の彼方で揺れながら——


病院へと搬送されていった。



第118章:消えゆく記憶


夢の中、凛は静かな道を歩いていた。


夕暮れの街角、兄の背中が少し前を歩いている。


振り返ると、あの頃と変わらない優しい笑顔がそこにあった。


「……兄さん……」


伸ばした手は、確かに温かさを感じた。


だが次の瞬間、その姿は霧のように揺らぎ、溶けて消えた。


「兄さん!? 待って……!」


声を張り上げても、返事はない。


代わりに母の声が遠くから聞こえた。


「凛、こっちへ——」


その声も、泡のように弾けて消える。


案内人の不器用な笑み、サラの強い眼差し、巫女の祈る姿。


次々に現れては、瞬時に崩れていった。


まるで紙片を炎に投げ込んだように、すべてが白く燃え尽きていく。


「やめて……お願い……消えないで……!」


凛は涙を流しながらも、止めることができなかった。

掴もうとした手は虚空を切り、記憶は音もなく崩れ落ちていく。


——残ったのは。


血に濡れた刃の感触。

鎖の軋む重み。

そして、胸の奥底に焼きついた「許せない」という憎しみ。


兄をあんな姿にしたものへの怒りだけが、消えずに残っていた。


夢の中で嗚咽しながら、凛はそれでも立ち上がった。


心のほとんどを失っても——戦いの術と復讐心だけは、確かにそこにあった。



第119章:二週間後


白い壁に囲まれた静かな病室。


窓から差し込む午後の光がベッドを照らしている。

機械の規則正しい電子音だけが、かすかに響いていた。


凛はベッドに座り、膝にかけられた毛布を握っていた。

あの日の傷はすっかり癒えたわけではないが、命に別状はなかった。


だが彼女の目は、以前のような怯えや戸惑いではなく、鋭い光を宿していた。


看護師が声をかけても、わずかに頷くだけ。

言葉は短く、感情を抑えたような声音になっていた。


「……ありがとうございます」


そう呟いた声は冷ややかで、どこか突き放すようでもあった。



——2週間前。


彼女は崩れ落ちるように担架に運ばれてきた。


今の凛は、同じ人物とは思えないほどに変わっていた。


記憶の大部分を失った空白。


しかし残ったのは、戦いの術と、断ち切れない憎しみ。

そのせいか、彼女の眼差しは地上の誰も知らない「深淵」を覗いているように冷たかった。


刑事は病室の扉越しに、その姿を見ていた。


あの鋭い眼光を見ていると、胸の奥に説明のつかない痛みが走った。


「……この子は、一体……」


呟く刑事の言葉は誰にも届かず、


凛はただ、窓の外を見つめ続けていた。



第120章:すれ違う会話


病室のドアが軽く叩かれた。

看護師が顔を出し、「面会の方です」と告げる。


入ってきたのは、高校生だった頃の友人だった。

制服姿ではなく私服で、どこか気まずそうに花束を抱えている。


「……凛、久しぶり」


「……ああ」


凛は短く答えた。


友人は椅子を引き、花瓶に花を差しながら笑顔を作った。


「学校の子たちも、心配してたよ。……もうすぐ進級だけど、どうする?」


「……わからない」


返事は冷たく、声に温度はなかった。


友人は言葉を探し、何とか続けようとする。


「ほら、前に一緒に行った映画の話……覚えてる?」


凛は友人の目を見つめたまま、わずかに首を振った。


「……思い出せない」


会話は噛み合わず、空気が重く沈む。

友人の笑顔はぎこちなくなり、やがて耐え切れずに立ち上がった。


「……また来るね」


凛は何も答えず、ただ窓の外を見続けた。



第121章:問い


病院の廊下。


友人が肩を落としながら帰ろうとしたその時、低い声がかかった。


「失礼、少しいいかい?」


黒いコートを羽織った刑事が立っていた。

鋭い眼光に射抜かれ、凜の友人は思わず足を止めた。


「君、さっきあの病室に行っていたみたいだね。……凜さんの友人かい?」


「……はい。あの、何か……?」


刑事は真剣な表情で問いかける。


「彼女は、以前と同じ様子だったかい?」


「記憶喪失みたいな症状だと聞いてはいたのですが…」


凛の友人はしばらく黙り込み、やがて唇を震わせた。


「記憶喪失というか……

 まるで、人が変わったみたいで……。

 昔のことを話しても、まったく興味も無いようで……目も、怖くて……」


刑事の目が細められる。

その言葉は、彼自身が胸の奥で感じていた“既視感”と重なっていた。


「……そうか」


「ありがとう」


低く答えると、刑事は凜の友人を見送った。

その背中を見ながら、刑事の中に拭えない疑問が残る。


——なぜ、自分はあの少女に惹かれるのか。


だが刑事の記憶に、答えはなかった。



第122章:刑事の調査


夜。


机の上には分厚いファイルと数枚のコピー用紙が散らばっていた。

刑事は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐きながら書類をめくっていく。


「……凛、か」


彼が気にしていたのは、あの瓦礫の下から救い出された黒い外套の少女。


なぜ自分の目を離せないのか、その理由はわからない。

ただ、その存在に強烈な引っかかりを覚えていた。



ー家族の記録


調べを進めるうち、凛の成り立ちが浮かび上がる。



幼い頃に父親と死別。

父親は交通事故で命を落とし、母親はその直後に行方不明。


残された兄妹は児童養護施設へ。

兄が10歳、凛はわずか5歳の時だった。


古い記録の写真には、無邪気に笑う兄と、その後ろに隠れるように立つ幼い凛の姿が残っていた。


刑事は写真に指を這わせながら、小さく息を吐いた。


「……こんなに小さくして、か」



ー兄妹の暮らし


さらに数年分の記録を追う。


凛が中学を卒業すると同時に、兄と共に施設を出た。


生活は決して楽ではなかったが、二人で小さなアパートを借り、互いに支え合いながら暮らしていた。


近隣住民の証言も残っていた。


「仲の良い兄妹でしたよ。お兄さんは妹さんを大事にしてて……」


刑事はメモを取る手を止め、無意識に唇を噛んだ。

記憶の奥底で何かが疼く。


自分は、この光景を知っている——?



だが今、凛はその兄を失い、記憶の多くを欠いた状態で病院に横たわっている。


そして自分は刑事でありながら、なぜか彼女に「既視感」を抱いている。


「……俺は、何を忘れている……?」


書類を閉じ、刑事は窓の外の闇を見つめた。



第123章:初対面


次の日、刑事は面会時間開始と同時に凜のいる病院に向かった。


病院の廊下は静かで、消毒液の匂いが漂っていた。

刑事はゆっくりと歩を進め、凛の病室の前に立つ。


ドアの横には制服警官が直立しており、目が合うと軽く会釈をしてきた。


「ご苦労さま」


刑事も穏やかに返し、ノックをして静かにドアを開ける。


白い光に包まれた病室。

ベッドの上で凛が外を見ていたが、音に気づいて視線を向けた。

その瞳は虚ろさを残しながらも、どこか鋭く光っていた。


刑事はベッドの脇まで歩み寄り、声を落として問いかけた。


「身体の具合はどうだい?」


凛は小さく頷く。


「……大丈夫」


短い言葉。

その声音には、幼さよりも冷たさが滲んでいた。


「自分は稲葉署の刑事で、溝口って者なんだが…」


刑事は胸ポケットから名刺を取り出し、机の上にそっと置く。


「先日の爆発現場で君を保護した時に現場にいたんだ。

 少しだけ、話を聞かせてくれるかい?」


凛は外套を膝に掛けたまま、溝口をじっと見つめていた。


沈黙が数秒流れ、やがて小さく息を吐いた。


「……覚えてることは、あまりない」


その言葉は淡々としていたが、瞳の奥には何か言葉にできないものが揺れていた。

溝口はその表情を見逃さず、心の奥にひとつの疑問が芽生える。


——この少女は、何を抱えている?



第124章:沈黙の中で


病室には静かな時間が流れていた。


溝口が問いかけた後も、凛は膝にかけた黒い外套をじっと見つめたまま、ほとんど口を開かなかった。


その無言が続く中、溝口の脳裏に、ここへ来る前に歩いた場所と聞き込みの記憶が蘇る。



ーかつてのアパート


凛と兄が二人で暮らしていた小さなアパート。

古びた外階段、鉄が錆びついた手すり。


そこで近隣の住人から聞いた言葉が甦る。


「凛ちゃん? 静かで礼儀正しい子だったよ。

 お兄さんと二人で越してきたのは、ちょうど十五の頃だな。

 ずっと仲が良くて、夕飯の買い物もいつも一緒にしてた」


住人の目には、“どこにでもいる普通の子”として映っていた。



ースーパーでの証言



次に思い出したのは、凛と兄がよく利用していた近所のスーパー。

買い物袋を提げて歩く兄と、その横を並んで歩く小柄な妹。


店員たちが語った証言は鮮明だった。


「二人でよく来てましたよ。お兄さんは控えめだけど頼りになる感じで、妹さんは後ろからついていってて……なんだか微笑ましかった」


しかし、別の店員は声を落として続けた。


「ただ、お兄さんが失踪してからは……様子が変でした。

目の焦点が合わないようで、声をかけても返事が遅くて……

どこか怯えているように見えました。

まぁ、そりゃお兄さんが失踪してしまったんだから、そうもなるんでしょうけど」




ー今、目の前の少女



溝口はふと視線を上げ、病室で沈黙を守る凛を見つめた。


あの時住人や店員が語った「大人しく、礼儀正しい少女」と、

今目の前にいる「鋭い眼光で言葉を選び、冷たさをまとった少女」。


——確かにまるで別人だ。

一体、行方不明だった一年の間に何が起きたのか。

溝口は心の奥で重く問いを繰り返した。


だが、答えをくれるはずの本人は、窓の外に視線を逸らしたまま、黙り続けていた。



第125章:静かな引き際


沈黙はまだ続いていた。

窓の外に視線を逸らしたままの凛は、何を思っているのか分からない。


溝口は問いかけを重ねようとしたが、喉元で言葉が止まった。


——無理に引き出すことじゃない。


——この少女には時間が必要だ。


そう思い直した。


溝口は椅子から腰を上げ、柔らかい声で言った。


「今日はここまでにしよう。……無理に思い出そうとしなくてもいい。

 時間がかかることもあるからな」


凛は振り返らず、ただ小さく頷いたように見えた。

それが同意なのか、拒絶なのかは分からない。


溝口は机の上の名刺を指先で軽く叩き、


「何か思い出したら、いつでも呼んでくれ」


とだけ残して病室を後にした。


廊下に出ると、制服警官が直立不動で控えていた。

溝口は軽く会釈を返し、ポケットに手を突っ込んだまま歩き出す。


——あの沈黙の奥に、確かに何かがある。


——だが今は、その扉をこじ開けるべきではない。


彼の中で疑念は膨らむ一方だった。

しかし同時に、凛の鋭い眼光が頭から離れなかった。


「……時間を待つしかない、か」


溝口は小さく呟き、夜の気配が漂い始める病院の外へと出ていった。



第126章:兄の足跡


病院を出た溝口は、その足で署にある資料室へと向かった。


蛍光灯の光が冷たく反射する中、彼は過去の失踪記録を引っ張り出す。

そこに記されていたのは——凛の兄、「秋月航アキヅキ コウ」の名前。



ー失踪の記録



秋月航が最後に目撃されたのは、凛と同じアパートの近隣住人による証言。


「夜遅くに出かけていくのを見た。だが帰ってこなかった」


時刻は不明瞭、行き先も分からない。


警察は「家出または失踪」として処理したが、手がかりは一切なく、半年で捜査は打ち切られていた。


溝口はページを捲りながら眉をひそめる。


「半年……そして凛が姿を消すのは、その後だ」



ー周囲の証言



彼は再び、自ら足を運び当時の証言者たちを訪ね歩いた。


アパートの隣人は言う。


「秋月くんは真面目な子だったよ。

昼間はアルバイトに出て、妹さんの世話もしてた。

 ……でも、いなくなる少し前は妙だったな。

 よく夜中に出ていっては、朝方戻ることが増えてた」


近所の古い雑貨屋の主人も思い出す。


「航くん、時々見たことのない紙切れを持ってきて、何か探してるようだった。

 何を探してたのかは、俺にもわからん。だが……あの目つきは普通じゃなかったな」


溝口はその言葉を手帳に書き留め、深く考え込んだ。


航はただ失踪したのではない。

“何か”に導かれ、あるいは追い立てられるように消えていったのだ。



ー推察



「航が消えた半年後、凛が後を追うように姿を消した……。

 そして一年後、彼女だけが戻ってきた」


その因果関係は偶然とは思えなかった。


溝口は煙草に火をつけ、夜の街の暗闇を見やった。


「——秋月航……お前は一体、どこへ行った?」


煙の向こうで、忘れてしまった記憶がまだくすぶり続けているようだった。



第127章:塗り直された記憶


夜、溝口は署の資料室にひとり腰を下ろしていた。


蛍光灯の光が冷たく紙を照らす。手元の書類に視線を落としながらも、意識は別の場所へと沈んでいく。



——3年前、自分は唐突に消息を絶った。


家族も同僚も理由を知らず、1年間の空白が続いた。


戻ってきたのは、それから約1年後のこと。

保護された自分は、名前も、妻の顔も、ほとんどの記憶を失っていた。


家に戻ったとき


埃を被った自宅の部屋。


写真立てに笑う妻の姿。


机の引き出しには名刺、表彰状。


「溝口は刑事である」と証明する痕跡がいくつも残されていた。


同僚は「お前は真面目な刑事だった」と語り

上司は「また戻ってこい」と背を押した。


だがそれは“思い出した”のではなく、“塗り直した”に過ぎなかった。


自分はその証言と記録を手掛かりに、かろうじて「溝口」という人格を再構築したのだ。


唯一残っていた感覚


——自分は刑事だ。


——そして“誰か”か、“何か”を探している。


その焦燥感だけは消えずに残っていた。

それが自分を引き戻し、今の立場に繋がっている。


ー凛との重なり


病室で沈黙を守っていた少女、秋月凛。


記憶を欠いたまま、鋭い眼差しだけを残していた。


その姿は、かつての自分を鏡に映したようだった。


「……あの子は、まるで昔の俺みたいだ」


凛は兄を追い、そして失った。


自分は何を追っていたのか、まだ分からない。

だが、彼女の沈黙と鋭い視線の奥に、自分と同じ空白の闇が広がっているのを溝口は感じていた。


煙草の火をもみ消し、手帳を閉じる。


「秋月凛……君が見たものを知れば、俺も……」


呟きは夜の資料室に吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。



第128章:残された声


翌朝、溝口は秋月航の足跡を追い、彼が働いていたというアルバイト先を訪ねた。


街の外れにある倉庫兼店舗。扉を押し開けると、古びた金属の匂いと段ボールの埃が漂ってきた。


「警察の者だ。少し話を伺いたい」


溝口が手帳を示すと、店主は驚いたように目を丸くし、それから苦々しい顔で頷いた。


「秋月航か。ああ、よく働いてくれた子だったよ。真面目でな。

 だが……最後の数か月は、妙に落ち着きがなくなってな。

 夜勤を代わってくれとよく言うようになった」


記録はすでに処分され、残っているのは人々の記憶だけ。

だが、その記憶の断片はどれも同じ方向を示していた。



ー最後の夜



同僚の一人は、こう証言した。


「最後に見たのは夜勤の配送に出る時でした。

 ……でも、戻ってこなかった。

 警察も捜索したけど、結局何も出なかったんです」


その日を境に、航の行方は完全に途絶えた。

彼がどこへ向かい、何を探していたのか——今となっては確かめる術はない。


溝口は深く息を吐いた。


——彼は“導かれるように”して消えた。



ー推察



「秋月航が消え、その半年後に妹の凛も消えた。

 そして、一年後に妹だけが戻ってきた……」


これはただの家出や事故ではない。

何か、もっと別の“理”が絡んでいる。


喉の奥に苦い感覚が広がる。


それは、かつて自分が記憶を失い、戻ってきたあの時と同じ匂いだった。


「……やはり、俺と同じか」


溝口は空を仰ぎ、かすかな デジャヴ を振り払おうと煙草に火をつけた。

煙の奥に、まだ言葉にできない真実の影が見え隠れしていた。



第129章:医師の証言


午後、溝口は凛が搬送された病院を再び訪れた。

受付で事情を告げると、案内されたのは白衣の年配医師の執務室だった。


机の上にはカルテと数枚の検査結果が積まれている。


「秋月凛さんの件ですね。……ええ、あの日、私が担当しました」


医師は眼鏡を指で直しながら、当時の状況を語り始めた。


「全身に外傷があり、特に片腕と片足の損傷が酷かった。

 ですが、奇妙なことに致命的な内臓損傷は見られなかった。

 衰弱は激しかったが、生命力そのものはしぶとい……そんな印象を受けました」


溝口は静かに頷き、さらに尋ねる。


「他に気づいたことは?」


医師は少し言葉を選ぶように沈黙し、それから口を開いた。


「……いや、医学的には説明がつかないものですがね。

 妙なことがありました」


ー鎖の痕跡


医師はカルテの端を指で叩いた。


「右腕に、鎖のように巻き付く模様があったんです。

 刺青なのか痣なのか……傷ではなかった。皮膚に刻まれているようで、しかし異常な発赤もない」


溝口の眉がわずかに動く。


医師はさらに続けた。


「それだけではありません。

 腰から左の大腿部にかけても同じような痕が見られました。

 刀のような形、とでも言えばいいでしょうか。まるで皮膚の下に描かれた紋様のようでした」


ー医師の言葉


医師は椅子に背を預け、小さく笑った。


「いや、若い子の間でそういう刺青もあるのかと思ったんです。

 ……珍しいなとね。もっとも、最近の子なら特段珍しくもないのかもしれませんが」


そして眼鏡を外し、真剣な表情で付け加えた。


「ですが——医学的に説明はできません。

 痣でも、外傷でも、刺青でもない……あれは“刻まれている”としか言えませんでした」


溝口は無言でその言葉を反芻した。


鎖。刀。


それは凛が病室で沈黙を守っていた時、外套の下に隠していたものと一致する気がしてならなかった。


「……なるほど」


低く呟き、溝口は席を立った。


医師は去っていく背中に、まだ疑念を残したような視線を送っていた。



第130章:兄の影


溝口はその後、凜のいる病室に向かった。


病室のドアを静かに開けると、窓際に座った凛が振り返った。


彼女の表情は変わらず硬く、眼差しは冷ややかだったが、以前よりも血色は戻っているように見えた。


「具合はどうだい?」


溝口は穏やかな声をかける。


凛は視線を逸らし、小さく答えた。


「……大丈夫」


返事は簡素で、感情を抑え込んでいるようだった。

それでも、溝口は少しだけ安堵する。

椅子を引き寄せ、腰を下ろすと、声を低めた。


「君には、もう散々質問があったんだろうな。……だから同じことを聞くのは気が引けるんだが」


そこで、少し間を置き、真っ直ぐ彼女の目を見た。


「——君の兄、秋月航についてだ。失踪する少し前は、どんな様子だった?」


凛の肩がわずかに強張った。

彼女の眼差しが鋭さを増す。


「何か普段と違うことはなかったか? 言葉や態度に変化は?」


声は柔らかく、しかしその奥には刑事としての確信が滲んでいた。

彼女の兄の失踪が、今もなお影を落としていることを、溝口は直感していた。



第131章:記憶の影


沈黙。


病室の空気が、急に重くなる。


凛は視線を落とし、毛布の端をぎゅっと握りしめた。

その指先に力が入る。


やがて、低く、吐き捨てるように言った。


「……覚えていない」


そう答えた瞬間、凛の胸は痛みで締めつけられるように震えていた。


本当に覚えていないのか。

それとも、思い出してはいけないのか。


頭の奥に、ぼんやりとした兄の姿が浮かんでくる。


——夜の街角で、何かを探すように立ち尽くしていた背中。


——疲れた顔をして、笑ってごまかした表情。


だがその映像はすぐに砂のように崩れ、闇に溶けてしまう。


思い出せない……。


どんなに手を伸ばしても、指先からすり抜けていく。


記憶をたどろうとするたび、胸の奥に恐怖が走り、強烈な拒絶の壁が立ちふさがった。


だから凛は、嘘のように冷たく言った。


「覚えていない」と。


それが自分を守るための唯一の答えだと、本能が告げていた。


溝口の視線がまだこちらに注がれているのを感じながら、凛は窓の外へと顔を向けた。


青白い空の光だけが、心の奥の暗闇をかすかに照らしていた。



第132章:幼き日の記憶


病室を出た溝口は、深い息を吐いた。


——彼女からは、これ以上は引き出せない。


そう判断した彼は、足を次の調査先へ向けた。




車を走らせた先は、秋月航と凛が幼い頃に暮らしていた児童養護施設だった。


古びた門の前に立ち、溝口は一瞬ためらったが、すぐに名刺を片手に足を踏み入れた。



ー職員の証言



応対に出てきたのは、年配の女性職員だった。


名刺を受け取ると、彼女は記憶を探るように目を細める。


「秋月……ああ、いましたよ。

 お兄ちゃんの航くんと、妹の凛ちゃん。

 二人とも小さな頃にここへ来ました。お父さんが事故で亡くなり、その後お母さんも行方が分からなくなってしまってね。

 残された兄妹を受け入れることになったんです」


溝口は黙って頷き、メモを取り続けた。


「航くんは面倒見の良い子で、妹を守るようにしていましたよ。

 凛ちゃんは少しおとなしかったけれど、お兄ちゃんの後ろにぴったりとくっついていてね。

 あの子にとって航くんは、本当に世界そのもののようでした」



ー航の様子



溝口はさらに尋ねた。


「航くんは、どんな子でしたか? 特に印象に残っていることは」


女性はしばし考え込み、記憶を手繰るように言った。


「真面目で優しい子でしたよ。けれど時々……外をじっと見ていることがありました。子どもにしては妙に遠くを見ているような目で。

 何かを探しているのか、待っているのか……そういう姿が気にかかることはありましたね」



ー溝口の胸の内



施設を後にしながら、溝口の胸は重く沈んだ。


——幼い頃から、航には“遠くを見つめる癖”があった。


——そして凛は、そんな兄を唯一の拠り所にしていた。


今の凛が、あの鋭い眼差しで沈黙しているのは偶然ではない。

兄を追うようにして消え、そして一人で戻ってきたのだ。


車に戻り、ハンドルを握る手に力を込める。


「……やはり、この兄妹には“何か”がある」


その“何か”は、自分がかつて味わった記憶の空白とも繋がっている気がしてならなかった。



第133章:囁き


翌日。


溝口は再び病院を訪れ、凛の病室の前に立った。

廊下は静かで、人の気配はほとんどない。


ドアに手を伸ばしたとき、ふと気づく。


——ドアが、わずかに開いていた。


ほんの隙間から、病室の中が見える。

溝口は声をかけるのをやめ、無意識に足を止めた。



ー凛の奇妙な行動



そこにいた凛は、ベッドに腰を下ろし、右腕をじっと見つめていた。


まるで誰かと会話をしているように、唇が小さく動いている。

声は低く、ほとんど聞き取れない。


溝口は耳を澄ませた。

だが断片的な囁きは壁に吸い込まれ、意味を結ばない。


ただ、その表情だけは見えた。

目を細め、時に首を傾げ、まるで返事を聞いているかのように。


やがて凛の唇が止まり、静寂が訪れた。



不気味な笑み


次の瞬間、凛は右腕を軽く撫で、かすかに肩を震わせた。


「……アハハ」


乾いた笑いが漏れ、口角が吊り上がる。

病室の光に照らされたその横顔は、不気味なほど冷たい笑みを浮かべていた。

普段の沈黙や無表情とは異なる、どこか狂気を孕んだ表情だった。



溝口は息を呑み、ドアの隙間から目を逸らした。


——右腕に語りかけていた?


——そして、あの笑み。


昨日、医師が言った「鎖のような痕」「刀のような紋様」の言葉が、頭の中で重なった。


胸の奥で、不安と既視感がせめぎ合う。


あれは本当にただの“高校生の少女”なのか。


それとも、自分と同じく——いや、それ以上に“何か”を抱えて戻ってきた存在なのか。


溝口はドアから静かに離れ、深く息を吐いた。

これ以上踏み込めば、取り返しがつかないものに触れてしまう気がした。



第134章:覚悟


廊下を離れた溝口は、無意識に足をロビーへと運んでいた。


明るいガラス窓から差し込む光。

自販機の前で立ち止まり、硬貨を投じてコーヒーの缶を取り出す。

プルタブを開けると、ほのかな苦みの匂いが立ち上った。


一口飲み込み、深く息を吐く。


冷たい液体が喉を流れ落ちるのに合わせて、張り詰めた胸の鼓動がわずかに落ち着いていく。


だが、すぐにあの光景が脳裏に浮かぶ。


——右腕に語りかける凛の姿。


——最後に浮かべた、不気味な笑み。


缶を握る手に力がこもった。


彼女は普通の少女じゃない。

そう認めざるを得ない。


それでも、向き合わなければならない。

刑事としてではなく、自分の“過去の空白”と重なる存在として。


コーヒーを飲み干し、溝口は缶をゴミ箱に投げ入れた。


乾いた音が鳴り、覚悟が固まる。



ー病室へ



再び廊下を進み、今度はためらわずに病室のドアをノックする。


「秋月さん、入っていいかい?」


ドアを開けると、凛はベッドの上でこちらを見た。


さっきの不気味な笑みなどなかったかのように、無表情で。


溝口はゆっくり歩み寄り、柔らかな声で言葉をかけた。


「おはよう。体調はだいぶ良くなってきてるみたいだね」


凛はほんの一瞬だけ視線を揺らし、短く答えた。


「……まあ」


その返答に、先ほど見た狂気が幻だったのかどうか、溝口自身も一瞬わからなくなった。


だが、彼の心には確かに刻まれていた。


——あの笑みは、現実だった。



第135章:ささやかな会話


沈黙が落ちそうになった空気を、溝口が先に破った。


「病院って、やっぱり退屈だろう? 本なんか読むのは好きかい?」


凛は少しだけ視線を動かし、窓辺の小さな棚を見た。そこには、病院のボランティアが置いていった古い文庫本が数冊並んでいる。


「……あまり読まない」


「そうか。俺は逆に、こういう時にしか読まないんだよ。前は推理小説を無理に読んで、頭が痛くなったこともあったけどな」


溝口は苦笑し、肩を竦めてみせた。


凛は反応しなかったが、わずかに目の端が揺れた。


「コーヒーは飲めるか? あのロビーの自販機のやつ、やけに苦いけど、意外と悪くないんだ」


「……苦いのは好きじゃない」


「そうか。じゃあ甘いのかな? 俺も若い頃はそうだったよ。缶コーヒーに砂糖を足して飲んだりしてな」


ほんの些細なやりとり。

事件にも記憶にも触れず、ただ時間を埋めるための会話。


凛はまだ多くを語らない。

だが、その冷たい眼差しの奥に、わずかに人間らしい揺らぎが戻ってきているように、溝口には思えた。



第136章:小さな声


「最近はどうだい?何か、ん~例えば、楽しい事とか」


「……別に」


短い返事。


それでも、少しずつ世間話を重ねていくうちに、病室の空気はわずかに和らいでいた。


溝口は窓の外をちらりと見て、肩を竦めた。


「そういえば、あの爆発事故……もうメディアじゃほとんど報道されなくなったよ。

一時は大騒ぎだったが、今じゃ別のニュースばかりだ。……平和なもんだな」


自嘲気味に笑ってみせる。


凛は黙ったまま、表情を変えなかった。


溝口はしばしの沈黙のあと、柔らかく声をかけた。


「俺に出来る事とか、何か欲しいものはあるか?

 本でも、甘い飲み物でも……遠慮なく言ってくれ」


凛は首を横に振る。

その仕草は簡素で、言葉を発することすら避けるようだった。


溝口は深い溜息が出そうになるのを堪えた。


「そうか。ありがとう。

 じゃあ、今日はこのへんで帰るよ」


溝口は椅子から立ち上がり、ドアの方へ歩く。


「また明日——」


言いかけたその時。


背中に、小さな声が届いた。


「……」


かすかな呟き。


ほとんど聞き取れない、消え入りそうな言葉。


溝口は振り返る。


「……今、なんて?」


凛は窓の外を見たまま沈黙していた。


しかし、次の瞬間、再び小さく唇が動く。


「……リ……ル……アンダーグラ……」


途切れ途切れの声。


かろうじて言葉の断片だけが耳に届く。


——リトル……アンダーグラウンド?


溝口の眉が深く潜む。

その響きは、意味も正体も掴めない。


だが、胸の奥に奇妙な既視感が走った。


彼女の視線はまだ外を向いたまま、感情を失ったように揺れていた。


まるで、その言葉は彼女自身ではなく、別の“何か”が口を通して囁いたかのように。


溝口は呼吸を整え、小さく「……また来る」とだけ告げて病室を後にした。


廊下に出ると、心臓の鼓動が異様に速くなっているのに気づく。


——リトルアンダーグラウンド。


その言葉が、耳の奥でいつまでも反響していた。



第137章:まことしやかな噂


署に戻った溝口は、自分のデスクに腰を下ろすとすぐにパソコンを立ち上げた。


凛が口にした、あの奇妙な言葉——「リトルアンダーグラウンド」。

頭から離れず、指は無意識にキーボードを叩いていた。


検索窓に文字を入力し、エンターを押す。



ーネットの断片



結果は拍子抜けするほど少なかった。


学術的な記録も、新聞記事もない。

代わりに、SNSや匿名掲示板の片隅に、断片的な書き込みが見つかるだけだった。


「リトルアンダーグラウンドって知ってる? 夢が叶う場所らしい」


「地下の華やかな街に行ける……って、ただの都市伝説だろw」


「消えた人間はそこで暮らしてるって聞いたけど」


掴みどころのない話ばかり。


噂は「夢が叶う場所」「華やかな街」と、むしろ幻想的に語られていた。



ー溝口の直感


モニターを見つめながら、溝口は眉をひそめる。


——ただの噂話で片付けられるものなのか?


凛が呟いた時のあの表情を思い出す。

あれは幻ではなかった。


「……夢が叶う場所、ね」


低く呟く。

ネットの書き込みは笑い話のようだが、胸の奥にざらついた違和感が広がっていた。


それは、3年前に自分が“空白”を経験した時と同じ感覚。

記憶の奥で、形を持たない何かがうごめいているような。


溝口は画面を閉じ、深く息を吐いた。


「……調べる価値はある」



第138章:未解決の闇


深夜の署内。


溝口は照明を落とした資料室に足を踏み入れた。

棚に眠る分厚いファイルの山から、未解決事件の綴りを次々と引き出し、机の上に広げていく。


——「リトルアンダーグラウンド」。


その言葉の手がかりが、どこかに潜んでいるはずだ。



ー未解決ファイル



最初に開いたのは十数年前の失踪事件。


若い女性が忽然と姿を消し、捜索は長期にわたったが発見には至らなかった。

結局「自発的失踪」と処理され、資料はそこで打ち切られていた。


次に開いたのは不審死の記録。


老人が自宅で急死していたが、外傷はなく、臓器も正常。

ただ、目は虚ろに見開かれ、苦悶の痕跡もなく亡くなっていた。

心筋梗塞として処理されていた。


だが、その中に混じって、明らかに異質なファイルが目を引いた。



ー奇妙な変死体


——ある有力政治家が、会合に向かう直前に突然倒れ、そのまま絶命。


発見時の遺体は、まるで長い年月を経たかのように干からび、皮膚は茶色く縮み、ミイラのような状態になっていた。

死亡直前まで健康診断で異常はなかったという。


捜査は混乱を極めたが、原因不明のまま資料は封じられ、未解決のまま終結していた。


さらに別のファイルには、こう記されていた。


——「記憶喪失となり発見された者、しかし言葉を失い、狂人のように意味不明の行動を繰り返す」


——「元の生活に戻ることはできず、精神病院に収容」


まるで人の“核”そのものが抜き取られたかのような症例。


資料の終わり


溝口は次々とファイルを繰ったが、どれも途中で途切れていた。


「了」——そうスタンプが押されているだけ。


——掘り返すな、という意思。


まるで、何者かが真実を隠すように。


溝口は椅子にもたれ、目を閉じた。


凛の言葉、「リトルアンダーグラウンド」。


そして、奇妙な変死や記憶喪失の症例。


点と点がまだ繋がらない。

だが、すべてが同じ深い闇に根を持っていることだけは確かだった。



第139章:自分の記録


ファイルを繰る手が、不意に止まった。


そこに挟まっていたのは——「行方不明者・溝口ミゾグチ 護マモル」に関する記録。

自分自身の名前を見つけた瞬間、心臓が大きく跳ねた。


ページを開く。


記録は三年前のもので、見出しには「消息不明」とある。



ー発見時の記録



「溝口刑事、三年前の秋に突然消息を絶つ。

 私物はそのまま残され、失踪の理由は不明。

 約一年後、管内の山中で発見・保護」


そこまでは、これまで耳にしてきた話と同じだった。


しかし、続く記述は自分に伝えられていた内容とは異なっていた。


「発見時、極度の衰弱状態。

眼はギョロギョロと泳ぎ、発狂状態に近い様子。

意味不明の言葉を叫び、暴れ続ける。

数時間後に昏睡、その後、目覚めて以降は失語的となり、記憶も欠落」


溝口はページを握る手に汗がにじむのを感じた。


——狂人のように?


——俺が?


自分の記憶には存在しない一日。

いや、丸ごと消された一年。



ー奇妙な注釈


さらに別のページには、震えた文字でこう走り書きされていた。


「“地下”という言葉を繰り返す。

‘リトル’と断片的に発し、‘‘記憶の記録‘‘と叫ぶ。

その後すぐ忘れたように振る舞うが、強い強迫性が残っている可能性」


呼吸が荒くなる。


——地下。


——リトル。


凛が呟いた「リトルアンダーグラウンド」と同じだ。



ファイルを閉じても、頭の中に走り書きの文字が焼きついて離れない。


自分はあの時、本当に狂っていたのか。

あるいは“何か”に触れて壊されたのか。


「記憶の記録とは……いったい…」


暗い資料室の空気が、ひどく冷たく感じられた。



ーーーLittle Under Ground3へ続くーーー


ここまで読んで頂きありがとうございます。

続きも読んで頂ければ幸いです。

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