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ざわめき


第15章 ざわめき


どれほど歩いたのか、またわからなくなっていた。


地面はしだいに固くなり、湿った土の匂いに混じって、人の生活の気配が微かに漂いはじめる。

風が変わる。

どこか遠くで、鉄がぶつかる音や、誰かの笑い声が響いた。


凛は足を止めた。


「……聞こえますか?」


溝口は耳を澄ます。

最初は雑音にしか感じなかったそれが、次第に、喧騒だとわかってくる。


曲がり角を抜けると――突然、視界が開けた。


そこには、市場があった。

凛がかつて訪れた市場と似ているようで――似ていなかった。

崩れた建物が不格好に並び、鉄パイプがむき出しになっている。

壁はところどころ剥がれ、色は古く褪せているのに、

看板にはわずかにネオンが灯り、ちらついていた。

赤とも青ともつかない光が、濁った空気の中でふわりと揺れている。


「……ここ、人がいるんだな」


溝口が呟く。

しかし、その“人”は、完全とはいえない「人」だった。

肌が土のように乾きひび割れた者。

目だけが異様に大きく光り、白目を見せない者。

言葉が舌の奥でうまく転がらない者。

そのすべてが、街を構成していた。


かつて凛がおとずれた市場の住人たちとも違う。

ここはより荒れ、より生々しい。


「入り口が違うと、街も違う……ってことか」


凛は静かに言った。


「うん。ここは、わたしの知ってる街じゃない」


市場のざわめき

通りには屋台が並んでいた。


透明なのに重たそうな液体を瓶で売る者

黒い布に包まれた“何か”をゆっくりと回転させる者

生肉のようで、生肉ではないものを細く裂いて干している者


それらは、食べ物と呼んで差し支えないものだった。

だが見た瞬間、“口に入れるもの”という感覚が拒絶する。


溝口は思わず喉を鳴らした。


「あれが……食事、か?」


「うん。ここの“食事”は、記憶と感情が味付けなんです」


凛の言葉はさらりとしていた。


「味覚じゃなくて、心に触れるから、人によっては美味しくもなるし、ひどい痛みになる」


彼女は店先のひとつを見た。

細い指でガラス瓶を指す。

中には、淡い光がゆっくりと渦を巻いていた。


「記憶の売買」


凛の声がかすかに揺れる。


「ここでも、されてるんですねぇ」


店主らしき者がこちらに気づき、

にやりとも笑いとも言えない表情で首を傾けた。


「見ていくか?」


その声は、溝口の記憶に直接触れるような響きだった。

溝口はぞくりと背筋を撫でられ、思わず目を逸らす。


空気の“生”

人々は話し、笑い、取引し、食べ、眠り、怒り……

“生きている”。

ただし、人間だった頃の形を無理に保とうとしているようにも見えた。


崩れそうな建物が、

もう役目を終えたはずのネオンが、

生き残りたいという意志をぎりぎりのとこで支えている。


ざわめきは賑わいというより、生の執着の音だった。


「刑事さん」


凛が少しだけ溝口の袖を引いた。


「気をつけてください。


ここでは、目が合うことは“会話”です。

言葉よりも先に、“欲しいかどうか”が伝わります」


「言葉で伝えなくてもってことか?」


「はい。記憶も、感情も、安心も、痛みも――全部、取引できるから」


その声には経験が滲んでいた。

かつて、凛も確かにここによく似た街を生き延びたのだ。


溝口は息を整え、頷く。


「とりあえずこの地下のルールをもっと知る必要があるな…。

……まずは、情報だな」


凛も頷いた。


「そうですね。情報収集からしましょう」


二人は、

街のざわめきの中へ、ゆっくりと足を踏み入れた。


光と暗闇が脈打つ、生の市場へ。

かつての凛が生き抜き、そして忘れた場所へ。

同じようで、まったく違う地下の街へ。


第16章 黒い札


市場の喧騒の中を、二人はゆっくりと歩いた。

見慣れない食材の匂いは、懐かしさと不気味さが入りまじった妙な香りで、

呼吸するたびに、肺の奥に温かい膜のようなものが張りつく。


溝口は、屋台の前で足を止めた。


薄い灰色の粘り気のあるスープ。

小さく刻まれた何かが浮いている。

肉のようでも、野菜のようでも、記憶の切れ端のようでもあった。


「……食べ物、なんだよな、これは?」


「うん、食べ物です」


凛は、あくまで自然に言う。


「食べてみたいような……やめたほうがいいような……」


溝口が苦笑気味に言うと、凛は肩をすくめた。


「考え方によっては美味しいですよ」


「記憶を食べる……というやつか」


「正確には少し違いますけど…」


凛はゆっくり首を振る。


「記憶“で”食べるんです。

自分の中の飢えが味を作る。

だから、美味しいときもあるし、ひどく苦しいときもある」


溝口は、無意識に喉を鳴らした。

わかるような、わからないような理屈。

けれど、凛だけはそれを“知っている”声で語っている。


溝口は息を呑んだ。


「じゃあ……食べるのが怖い、と思うのは……」


「ちゃんと怖いことだからで、正しいです」


「で、その……買うには、どうするんだ?」


溝口は、他の客たちの手元をさりげなく見た。


彼らは黒い長方形の板のようなものを持っていた。

札のようで、紙のようで、しかし質感はまるで“骨のかけら”のようでもある。


「金……じゃないよな。円でもドルでもない」


凛はそれを見て、静かに言った。


「*札(ふだ)*です」




「札(ふだ)……?」


「はい。

誰かの祈りや、願い。

あるいは呪いや、思い出。

形になりきれなかった心の重さを、この札に写してあるんです」


「誰かが願いを込めれば価値になるし、

誰かが呪いをこめても価値になるんです。

正反対なのに、どちらも“強い心”だから」


喧騒の向こう

通りの先では、

黒い札を交換し合い、値踏みし、取引する人々がいた。


笑っている。

疲れている。

満ちている。

空虚に見える。


すべてが、生きようとしていた。


「じゃあ、その札を手に入れるには?」


「写す……ってことは、記憶を失うのか?」


凛は、そこで初めて息を少しだけ止めた。

そして、ゆっくり、丁寧に答える。


「記憶を直接取引すると失ってしまいますが、札はそうじゃないんです」


「札は記憶をすべてを失うわけじゃ、ありません。

“写す”だけです。

でも――写すのは、とても大変なことです」


「大変……?」


「だって、“心の形”を自分で触らないといけないんですから。

痛くないけど、苦しい。

忘れないのに、手放さないといけない感覚です」


そういうものを、通貨として差し出している。

この世界は、そういう理で回っている。


凛はおもむろに、袖から小さく黒い札を数枚とりだした。

それは紙というより、薄い骨のような質感だった。


「ほら、少しだけ、持ってます」


ひらひらと、溝口に見せる。


「ただ、これは“自分を守ったり”“だれかを攻撃したり”する札。

……だから、あんまり使いたくないけど」


言いながらも、どこか淡々としている。

慣れ、ではなく、諦めのような静けさ。


凛は札を一枚、屋台の前に出す。


屋台の店主は、皮膚の乾いた、目だけが異様に澄んだ男だった。

男は札を指先で触れ、なにかを一瞬“読みとる”ように目を細めた。


そして、静かに頷く。

スープが差し出される。


「……買うんだな」


溝口の声は低い。


「うん」


凛は優しい声で言った。


「刑事さんが興味を示してたから」


そう言って、彼女は器をそっと手に取る。


湯気はない。

温度もない。

でも、香りだけが、強烈に“懐かしい”。


溝口は、自分の心が一瞬震えるのを感じた。


「食べてみます?」


凛が器を差し出す。


溝口は、言葉を失ったまま、器をじっと見つめる。


空腹ではない。


なのに、喉が――かすかに欲していた。


第17章 ひとくち


凛が差し出した器は、軽かった。

溝口はその軽さに、なぜか胸の奥を掴まれる感覚を覚えた。

重さがないのに、手に「意味」だけがのっている。


器の中には、静かな灰色のスープ。

湯気はなく、温度もない。

けれど――香りだけが、記憶の底を叩いてくる。


「……いただきます」


声に力はなかった。

それでも、器を両手でしっかりと受け取ると、

溝口はそっと唇へと運んだ。


ひとくち。


舌の上にはほとんど味がなかった。

甘さも塩気も酸味もない。

だが、

喉の奥に、何かが灯った。

ふわ、と。

胸の奥が、柔らかく温まる。


懐かしい、というより、


「思い出そうとして、思い出せないときの、あの感じ」


幼い頃、布団の中で聞いた誰かの声。

名前は出てこないのに、そこに確かにいた気配。


――これは、家の味だ。

誰の家かはわからない。

どの時代かもわからない。

だけど、帰ってきた、と体が言った。


「……あぁ……」


喉の奥から、かすれた声が漏れた。


凛は静かに見つめていた。

その横顔はどこか、ほっとしているようでもあり、

泣きそうにも見えた。


「懐かしい、でしょう?」


溝口は驚いたように顔を上げた。


「……なぜわかる」


凛は、ゆっくりと器の縁に指を添える。


「ここで食べるものは、

“今の自分”に味がつくんじゃない。

“失ったもの”に味がつくんです」


言葉はあまりに静かで、

この場所の喧騒に沈まず、真っすぐ届いた。


「懐かしく感じたなら――

あなたは、まだ失ったものを覚えてるってことです」


溝口は器を見つめる。

そこにはまだスープが半分ほど残っている。

飲めば飲むほど、もっと思い出せそうな気がした。

しかし同時に、取り返しのつかない何かと近づく感覚があった。


「……これ以上は、やめておこう」


「ふふ」


凛は微笑み、小さく頷いた。


その仕草は、

かつて誰かが凛に向けた優しさの再現のようだった。


屋台の向こうで、店主が

ほころぶように笑った。


「また、来な」


溝口は返事をせず、器を戻し、

凛とともに市場を歩き出した。


喧騒は同じはずなのに、

世界がわずかに柔らかく見えた。


懐かしいけれど、名前がないもの。

温かいけれど、帰れない場所。

それを、確かに味わった。

胸の奥で、まだ灯りの残り火が揺れていた。



ここまで読んでいただきありがとうございます。

楽しんで頂けたら幸いです。

いいね、ブクマ、コメント等も是非よろしくお願いします!




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