第5章 蠕蛇の迷宮編⑭
死が、目の前にあった。
《原初喰らいの蛇王》の牙が、ゆっくりと迫ってくる。
巨大な影が、倒れたアガトを覆い尽くす。
逃げる気力も、戦う意志も、もう何も残っていなかった。
(……ああ、これで)
終わるのだと、そう思った。
拒絶され、見捨てられ、嘲笑われた。
守るべきものも、帰る場所も、何もかもが消えた。
ならば――
もう、終わってもいい。
そう、思った。
◆
――だが。
意識が途切れる寸前、胸の奥で何かが蠢いた。
遠い記憶。
暖かな灯り。母の声。膝の上で聞いた、古い物語。
『……ずっと昔のお話』
『ある日――1人の英雄が現れたの』
幼い日に聞いた、英雄譚。
名も残らず、報われずとも、ただ人々を守るために戦った英雄の話。
『その英雄は王でも貴族でもなかった』
『ただ、人々を守りたいと願った一人の人間だった』
母の声が、遠く響く。
『誰かを救えたなら、それでよかった』
その言葉が、胸の奥を打った。
(……俺は)
アガトの指が、わずかに動く。
(俺は――英雄に、なりたかった)
誰にも認められなくても。
誰にも求められなくても。
それでも――
守りたかった。
救いたかった。
英雄でありたかった。
「……まだ」
かすれた声が、喉から漏れる。
「……まだ、だ」
拳が、地面を掴む。
死にたくない。
諦めたくない。
――生きたい。
心の奥底から、生への渇望が湧き上がる。
「……俺は、まだ……」
全身の力を振り絞り、アガトは立ち上がった。
膝は震え、視界は霞み、身体は限界を超えていた。
それでも――立つ。
「――生きる……!」
叫びと共に、何かが弾けた。
身体の奥底から、力が溢れ出す。それは魔力でも、スキルでもない。
ただ純粋な、生への執着。諦めを拒絶する意志。
アガトの瞳が、光を取り戻し、
深紅のオーラがアガトを包み込んでいる。
◆
《原初喰らいの蛇王》が、咆哮を上げる。
だが、アガトは動じなかった。
(……待てよ)
冷静さが、戻ってくる。
準備期間中、資料で読んだ内容が脳裏をよぎる。
蛇王の記録。
過去の撤退報告。
生き残った者の証言。
記録に"核"の記載がどこにも記されていなかったこと。
それはつまり――
「……核が、別にあるのか」
アガトは、迷宮全体を見渡す。
蛇王の巨体。迷宮の構造。そして、妙に硬い壁。
(この迷宮自体が――蛇王の一部?)
ならば。
「――壊せばいい」
アガトは剣を拾い上げ、構える。
もう迷いはなかった。
「《斬閃・神速剣舞》!!」
剣が閃き、壁を斬り裂く。
一撃、二撃、三撃――連続で叩き込む。
壁が崩れ、迷宮の奥が露わになる。
蛇王が激しく暴れ始めた。
(……図星か)
さらに剣を振るう。迷宮の柱を断ち、天井を崩し、構造そのものを破壊していく。
そして――
「――あった」
迷宮の最奥、崩れた岩壁の向こうに、それはあった。
巨大な水晶のような"核"。
淡く光を放ち、脈動している。
《原初喰らいの蛇王》が、咆哮と共にアガトへ突進する。
核を守るために。
だが――「遅い」
アガトは、核へ向かって駆けた。
蛇王が立ちはだかる。
巨大な尾が、アガトを薙ぎ払おうとする。
「――《瞬刃・光速閃》!」
光の軌跡を描き、アガトは躱す。
そして――
剣を、限界まで引き絞る。
全ての力を、この一撃に込める。
「《斬神剣・絶対断裂》――!!」
剣が、光を纏う。
蛇王の巨体ごと、核を両断する軌跡。
空間を裂くような斬撃が、全てを切り裂いた。
◆
静寂が、落ちた。
《原初喰らいの蛇王》の巨体が、ゆっくりと崩れていく。核は真っ二つに割れ、光を失っていく。
やがて、蛇王は完全に動かなくなった。
「……勝った、のか」
アガトは、その場に膝をついた。
全身から力が抜け、剣が手から零れ落ちる。
だが――生きていた。
ボロボロで、傷だらけで、誰にも守られず――それでも、勝った。
たった一人で、立ち続けた。
その時だった。
蛇王の亡骸から、光が溢れ出す。
それは形を成し、やがて一振りの剣となった。
漆黒の刀身に、蒼白い光の文様が走る美しい剣。
柄には蛇を模した装飾が施され、神秘的な輝きを放っている。
「……これは」
アガトは、その剣を手に取った。
《蛇王剣・深淵の牙》
名が、脳裏に流れ込む。
迷宮を攻略した者への、報酬。
「……受け取れってことか」
アガトは剣を腰に差し、ゆっくりと立ち上がる。
その瞬間――
迷宮全体が、崩れ始めた。
核を失った迷宮は、もう維持できない。
壁が砕け、天井が落ち、全てが瓦礫へと変わっていく。
「――まずい……!」
アガトは走り出す。
出口を探すが、もう通路は崩壊している。
(……転移魔法陣は――)
視界の端に、わずかに光る魔法陣の痕跡。
シエラが使った転移陣が、まだ残っていた。
「――頼む……!」
アガトは魔法陣へ飛び込む。
光が、全身を包み込んだ。
◆
次の瞬間――
アガトは、見知らぬ場所に立っていた。
深い森。
木々が生い茂り、鳥のさえずりが聞こえる。陽の光が葉の隙間から降り注ぎ、空気は澄んでいた。
「……ここは」
迷宮ではない。
王都でもない。
まったく見覚えのない、森の中。
転移魔法陣が、地盤の影響で予期しない場所へ飛ばしたのだろう。
アガトは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
全身は傷だらけ。
服はボロボロ。
仲間もいない。
帰る場所も、分からない。
だが――
「……生きてる」
それだけは、確かだった。
拒絶され、裏切られ、それでも諦めなかった。
一人で立ち、一人で戦い、一人で勝った。
胸の奥に、何かが芽生える。
それは孤独でもあり、自由でもあった。
「……英雄、か」
小さく呟く。
誰にも認められない英雄。
誰にも選ばれない英雄。
それでも――
アガトは、まだ折れていなかった。
《蛇王剣・深淵の牙》を腰に差し、アガトは森の奥へと足を引きずりながら歩き出す。
行く先は、分からない。
待つものも、見えない。
それでも――
「……まだ、やれる」
たった一人で。
嫌われた勇者は、再び歩き始めた。
誰も知らない森の中で、新たな物語が始まろうとしていた。
――第5章 蠕蛇の迷宮編 完――
絶望の淵から復活したアガト。
深手を負った状態で見知らぬ森へ転移されたが、無事に生き抜くことはできるのか?
油断できない状況が続きます。次回、メインの人物が登場します。お楽しみに!
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