第5章 蠕蛇の迷宮編⑨
最下層は、巨大な空洞だった。
天井は見えず、壁一面に刻まれた紋様は、もはや蛇の痕跡ですらない。
迷宮そのものが――
ここを「王の座」と定めている。
魔力が、うねる。
空気が、重い。
アガトは、剣を握る手に力を込めた。
(……ここが、最後の戦場)
心臓が、高鳴る。
現れたのは、黄金。
幾重にも重なる鱗。
異様に太い胴体。
蛇でありながら、人の腕を思わせる異形の部位が複数伸びている。
頭部は蛇。
だが、その瞳には、はっきりとした知性が宿っていた。
『――来たか』
声ではない。
空間そのものが、意思を帯びる。
誰かが、息をのむ。
「《原初喰らいの蛇王(アウルム=ナグア)》……!」
圧が、跳ね上がる。
だが。
シエラは、動じなかった。
その目には――
静かな復讐の炎だけが、宿っている。
「前衛、展開」
「後衛――連携詠唱、開始」
その一声で、全員が動く。
◆
戦闘は、完全に――
シエラの掌の上で進んでいた。
前衛が散開し、蛇王の注意を引きつける。
《アウルム=ナグア》が動くたび、床が隆起し、壁が砕ける。
一撃一撃が、致命。
「くっ……!」
前衛の一人が、尾の一撃を受けて吹き飛ばされる。
だが――
「治癒!」
シエラの魔法が即座に飛び、
傷が塞がる。
「左から来ます!」
「下がりすぎないで!」
「回復間に合わせます」
シエラの指示が、寸分狂わない。
前衛は倒れない。
倒れかけても、即座に立て直される。
(……すごい)
アガトは、蛇王の攻撃を避けながら思う。
(……団長の指示が、完璧だ)
誰がどこで倒れそうか。
誰に回復が必要か。
次の攻撃がどこから来るか。
すべてを、把握している。
「アガト、右へ!」
シエラの声に、反射的に右へ跳ぶ。
次の瞬間、
さっきまでいた場所を、蛇王の牙が貫いた。
「……っ、ありがとうございます!」
「集中して!」
短い返答。
だが、その声には――
確かな信頼があった。
(……俺を、信じてくれている)
アガトは、剣を構え直す。
(……なら、応えなきゃ)
嫌われていても、
疎外されていても、
今は――
戦うことができる。
守ることができる。
それだけで、十分だった。
◆
その間に。
後衛では、複数の魔法陣が展開されていた。
重なり合う紋様。
束ねられていく魔力。
空間そのものが、軋み始める。
「……詠唱、五割突破」
後衛の一人が、報告する。
「魔力圧、上昇中!」
「継続して!」
シエラが、即座に返す。
前衛の戦いは、続く。
蛇王の攻撃は、容赦ない。
だが――
マルクスが、氷の刃で牽制する。
アガトが、継ぎ目を狙って斬り込む。
その時――
蛇王の口から、紫色の霧が噴き出した。
「毒霧や! 下がれ!」
マルクスの叫びが響く。
だが――
間に合わない。
霧が、前衛を包み込む。
「ぐっ……!」
騎士たちが、次々と膝をつく。
アガトも、霧を吸い込んでしまった。
(……っ、これは)
視界が、揺れる。
呼吸が、苦しい。
身体中に、激痛が走る。
「解毒!」
シエラの声が響き、
光が前衛を包む。
だが――
「団長、効いてません!」
「毒が、強すぎる……!」
騎士たちの顔色が、みるみる悪くなる。
「くそ……!」
マルクスが、歯を食いしばる。
「このままじゃ、全滅するで!」
「……解毒!」
シエラが、連続で治癒魔法を放つ。
光が、何度も前衛を包む。
だが――
毒の進行は、なかなか止まらない。
アガトは、必死に剣を握る。
(……ダメだ)
(……身体が、動かない)
力が、抜けていく。
「詠唱、七割突破!」
後衛の声が、遠くに聞こえる。
(……あと、少し)
(……耐えなきゃ)
アガトは、歯を食いしばる。
だが――
蛇王の尾が、横薙ぎに振るわれる。
「下がれ!」
マルクスの声に、全員が後退する。
だが、毒に侵された身体は、
思うように動かない。
「ぐあっ……!」
騎士の一人が、尾の直撃を受けて吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられ、
動かなくなる。
「《聖域治癒・白環》!」
シエラの魔法が、次々と飛ぶ。
だが――
限界が、近い。
「団長……もう……」
「諦めないで!」
シエラの声が、響く。
「あと少しで、詠唱が完了します!」
「それまで、耐えて!」
その声に、
アガトは必死に立ち上がる。
(……そうだ)
(……まだ、終わってない)
毒が身体を蝕んでも、
痛みが走っても、
(……俺は、守る)
剣を握り直す。
床が砕け、
破片が飛び散る。
シエラの魔法が、負傷者を癒す。
毒も、少しずつ――
解毒されていく。
(……団長が、守ってくれている)
(……なら、俺も)
アガトは、蛇王の前に立つ。
「詠唱、九割突破!」
「魔力圧、許容範囲ギリギリです!」
報告を受け、シエラは一瞬だけ目を閉じた。
そして。
「――前衛、全員退避!」
その声は、戦場を切り裂いた。
「指定位置まで下がって!」
前衛が、一斉に距離を取る。
アガトも、仲間の背を押しながら後退する。
(……来る)
直後。
《アウルム=ナグア》が、異変を察知した。
巨体がうねり、黄金の鱗が軋む。
妨害するように、広範囲へ魔力の波動を放つ。
「……間に合うか――」
「問題ありません」
後衛の声が、重なる。
「詠唱、完了」
シエラは、ゆっくりと腕を上げた。
魔力が、天井へと集束する。
いや――
天井の向こうへ。
「――全員、耳を塞ぎなさい」
静かな宣告。
アガトは、耳を塞ぐ。
次の瞬間。
後衛全員が、声を揃える。
「――《天罰降臨・星落》!!」
世界が、白に染まった。
天より落ちるのは、光ではない。
星そのものだ。
圧縮された膨大な魔力が、柱となって《アウルム=ナグア》を貫く。
続けて――
爆砕。
凍結、破壊、衝撃が連鎖し、再生の余地を与えない。
黄金の鱗が砕け、巨体が内側から崩壊していく。
轟音。
いや――
迷宮が、悲鳴を上げる音。
アガトは、その光景を見つめていた。
(……これが)
(……清廉の騎士団の力)
圧倒的な、破壊。
蛇王が、崩れ落ちていく。
◆
やがて。
光が、消えた。
そこにあったのは――
崩れ落ちる巨大な影。
《アウルム=ナグア》が、灰になり消えていく。
動かない。
魔力反応――消失。
再生の兆候も、ない。
シエラは慎重に一歩踏み出し、迷宮全体を見渡す。
異常、なし。
「……討伐、成功です」
その一言で。
張り詰めていた緊張が、一気に解けた。
安堵の息。
膝をつく者。
互いの無事を確かめ合う声。
「やった……!」
「本当に、倒した……!」
騎士たちの声が、響く。
アガトも、剣を下ろした。
(……勝った)
(……守り切った)
胸の奥が、熱くなる。
嫌われていても、
疎外されていても、
今は――
同じ勝利を分かち合っている。
それが、嬉しかった。
作戦は、完璧だった。
判断。
連携。
火力。
すべてが、噛み合った。
誰もが――
この時は、疑わなかった。
蠕蛇王は、確かに倒れたのだと。
シエラは、蛇王の亡骸を見つめている。
その目には――
静かな、満足が宿っていた。
まだ、知らない。
この勝利が――
どれほど儚いものか。
そして――
本当の絶望が、
これから始まることを。
まだ、知らなかった。




