第5章 蠕蛇の迷宮編⑥
朝になっても、アガトの目は冴えていた。
いや――眠れなかった、というのが正しい。
休息地の隅で、膝を抱えたまま夜を明かした。
(……嫌われる、か)
シエラの言葉が、何度も蘇る。
五年間、見ないふりをしてきた現実。
それが昨夜――
容赦なく、突きつけられた。
「……出発するぞ」
マルクスの声が、響く。
アガトは、ゆっくりと立ち上がった。
身体は重い。
心も、重い。
でも――
(……進むしかない)
立ち止まれば、
考えてしまう。
自分の存在について。
誰にも愛されないという事実について。
だから、
前に進むしかない。
◆
八階層へと降りる階段は、暗く、狭い。
「……前衛、警戒レベルを上げてください」
シエラの指示が、淡々と響く。
アガトは、その声を聞きながら思う。
(……団長が、普通に接してくれるのも)
(感情がないから、だった)
特別でも、何でもない。
ただ――
嫌悪という感情が、存在しないから。
副団長の背中を、見つめる。
彼だけは、普通に接してくれる。
でも――
疑念が、芽生える。
信じたいのに、
信じられない。
心が、揺れる。
◆
八階層は、予想以上に過酷だった。
通路は細く、
天井は低く、
空気は重い。
魔物の数は減ったが、
一体一体が、明らかに強い。
「来るぞ!」
前衛の声が響き、
戦闘が始まる。
アガトも、剣を振るう。
だが――
(……集中できない)
昨夜から、心が乱れている。
動きが、わずかに遅れる。
判断が、鈍る。
「アガト、下がれ!」
マルクスの声に、はっとする。
魔物の攻撃を、ギリギリで避ける。
「……っ、すみません」
「今は謝るな! 前を見ろ!」
マルクスの叱咤に、
アガトは歯を食いしばる。
(……ダメだ)
(今は、戦いに集中しないと)
必死に、雑念を振り払う。
◆
八階層を突破する頃には、
全員が限界に近づいていた。
「……次が、九階層です」
シエラが、告げる。
「ボスのいる最下層の、
手前の階層」
「ここを越えれば――
あとは、蛇王だけです」
その言葉に、
誰もが息をのむ。
ここまで来た。
あと、少し。
「……行きましょう」
シエラが、階段を降りる。
その背中を見ながら、
アガトは思う。
(……俺は、何のためにここにいるんだ)
守りたかった。
誰かの役に立ちたかった。
でも――
(……嫌われるために、力を得た)
皮肉だった。
あまりにも、残酷だった。
それでも――
足は、前へ進んでいた。
◆
九階層は、それまでとは質の違う重圧に満ちていた。
魔力が、濃い。
呼吸をするたび、肺の奥に重たいものが沈んでいく。
「……おかしいですね」
誰かが、低く呟いた。
「この階層……
ボス直前にしては、静かすぎる」
その言葉が終わるより早く――
空気が、歪んだ。
音もなく、"それ"は現れた。
人型。
だが、人ではない。
全身を覆うのは、黒曜石のような装甲。
関節部からは赤黒い魔力が滲み出し、
顔にあたる部分には――
仮面のような、無機質な面が貼り付いている。
生気も、感情も、感じられない。
「……人……?」
「いや……違う……」
マルクスが、即座に息を詰める。
「Sランク魔物……
《黒装の執行者》や」
名が告げられた瞬間、空気がさらに重くなった。
アガトは、その姿を見て――
胸の奥が、冷える感覚を覚えた。
(……これは)
(……勝てるのか?)
不安が、頭をよぎる。
心が揺れている今の自分で、
こんな相手と――
《黒装の執行者》が、一歩踏み出す。
床が、砕けた。
石畳が粉々になり、
魔力の波紋が広がる。
「前衛、構えて!」
シエラの声が響く。
次の瞬間――
消えた。
否、跳んだ。
視認が追いつかない速度で、
《黒装の執行者》は前衛の背後へと回り込む。
「後ろ――!」
間に合わない。
拳が振るわれ、騎士が壁ごと叩き飛ばされた。
装甲が砕け、
鮮血が舞う。
「治癒を――!」
シエラの魔法が飛ぶが、
戦場は混乱していた。
毒でも、呪いでもない。
純粋な、物理破壊。
魔物は、剣も魔法も使わない。
拳と脚だけで、陣形そのものを破壊していく。
「……想定外です!」
誰かの声が、悲鳴に変わる。
「こんな個体、資料に――!」
「黙れ!」
マルクスが怒鳴った。
「分析は後や!
今は生き残れ!」
だが、陣形は、確実に削られていた。
《黒装の執行者》は容赦なく、
次々と騎士を薙ぎ払っていく。
その時――
アガトの視界に、
後衛の騎士が映った。
女性の回復役。
魔物の拳が、彼女を狙って振り抜かれる。
(――ッ!)
思考よりも早く、
体が動いた。
「……守らなきゃ」
小さな声。
命令でも、号令でもない。
ただ――
体が、前に出ただけだった。
「――させないっ!」
アガトが、割り込んだ。
鈍い衝撃。
骨が軋み、血が宙を舞う。
剣を盾に、必死に踏みとどまる。
(……重い)
腕が、痺れる。
視界が、揺れる。
それでも――
倒れなかった。
(……俺は、嫌われている)
(でも――)
(だからって)
(守ることを、やめるわけにはいかない)
アガトの目が、わずかに光る。
その瞬間、一歩踏み込み、
装甲の継ぎ目へ"刃を叩き込んだ"。
魔力が、噴き上がる。
《黒装の執行者》は体勢を崩し、距離を取るように後退する。
だが――
砕いたはずの装甲が、蠢いた。
あり得ない速度で、再生している。
「……なるほどな」
マルクスが、低く言う。
「アガト、今は前に出るな、とは言わん」
「だが――
一人で抱え込むのはナシや。一緒に行くで!」
マルクスの周囲から、冷気が溢れ出す。
「はい!」
アガトは、息を切らしながらも即答した。
心は、まだ揺れている。
疑念も、不安も、消えていない。
でも――
今は、戦うしかない。
次の一戦で――
決着がつく。




