第1章 禁忌の森③
――音が、消えた。
牙の迫る気配も、霧の冷たさも、
すべてが唐突に遠ざかる。
アガトは、ゆっくりと目を開いた。
そこには、禁忌の森はなかった。
上下も、前後も分からない。
白とも黒ともつかない空間が、ただ広がっている。
「……ここ、は……?」
声は、不思議と澄んで響いた。
『――アガト・エルフィード』
名を呼ばれ、心臓が強く脈打つ。
頭の中に直接流れ込む声。
男でも女でもない、感情の輪郭を持たない声音。
『汝は今、死の縁にある』
空間が歪み、光景が映し出される。
血を流す自分。
背中に縋りつくリィナ。
霧の中で牙を剥く、中型魔族《霧牙の魔狼》。
『このままでは、二人とも命を落とす』
冷静な宣告だった。
「……リィナは……?」
問いかける声は、震えていた。
『命は、まだ失われていない』
その一言に、胸の奥が熱くなる。
『だが、汝の力では届かぬ』
否定でも嘲りでもない。
ただの事実。
沈黙が、落ちる。
『――問おう』
声が、わずかに低くなる。
『汝は、人々を守る覚悟があるか』
母の声が、脳裏をよぎった。
夜ごと語られた英雄譚。
名も残らず、誰にも知られず、
それでも人々を救った英雄。
ただ、守る。
それだけを選び続けた存在。
「……ある」
短い答え。
だが、迷いはなかった。
『守るために、己が変わることを恐れぬか』
胸が、わずかに締め付けられる。
変わる。
何が、どれほどかは分からない。
それでも。
「……恐れません」
『守った先で、報われぬことがあっても』
胸の奥が、きしむ。
『それでも、力を振るえるか』
視界に、リィナの姿が浮かぶ。
震える背中。
必死に縋る、小さな命。
「……振るえます」
声は掠れていたが、確かだった。
『誰にも――されず』
『誰にも――れない』
『それでも、守ることをやめぬか』
――それは、祝福の問いではなかったと思う。
一部聞き取れなかったが、試されている。
英雄としてではなく、在り方を。
アガトは、静かに息を吸う。
「……必ず、守ります」
その言葉に、嘘はなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
『――ならば、契約は成立した』
空間が、ゆっくりと崩れ始める。
『力を授けよう』
『汝が選んだ道を、最後まで歩むための力を』
熱が、胸の奥から溢れ出す。
理解が、流れ込む。
身体の使い方。
剣の振り方。
魔力の巡らせ方。
理由は分からない。
だが、確信だけがあった。
――できる。
『汝は、勇者の資質を得た』
最後に、静かな声が告げる。
『進め、アガト・エルフィード』
『その選択を、忘れるな』
次の瞬間、光がすべてを包んだ。
――――――
土の冷たさが、頬に伝わる。
霧の匂い。
血の鉄臭さ。
アガトは、目を開いた。
禁忌の森に、戻っていた。
身体は、驚くほど軽い。
肩の傷は、すでに塞がっている。
「……アガト?」
背後から、リィナの声。
振り返る。
霧の向こうで、
《霧牙の魔狼》が、再び牙を剥いた。
――だが、恐怖はなかった。
どう動くべきかが、分かる。
アガトは、一歩、前へ出る。




