第5章 蠕蛇の迷宮編⑤
静寂が、二人の間に落ちた。
シエラの問いは、詰問でも、挑発でもない。
ただ――確かめるような声だった。
「あなたの背負う契約の代償について――聞かせてもらえますか」
アガトは、少しだけ視線を落とす。
「……代償、ですか」
五年前。
禁忌の森で、死の淵で。
力を得た、あの日。
それ以来――
何かが、確実に変わった。
「あなたがスキル契約者であることは、以前に聞きました」
シエラの声が、静かに続く。
「ですが……代償については、まだ詳しく聞いていません」
「もし、差し支えなければ……教えてください」
その声は、穏やかだった。
だが、アガトには分かる。
これは――ただの質問ではない。
何かを、確かめている。
◆
「……代償」
アガトは、ゆっくりと繰り返す。
「正直に言えば……まだ、分かりません」
「何を失ったのか」
「何が変わったのか」
「はっきりとは……」
だが――
その言葉は、嘘だった。
本当は、分かっている。
五年間、ずっと。
見ないふりをしてきただけだ。
シエラは、静かに口を開く。
「スキル契約の代償は……
最初に"教えられるもの"ではありません」
「契約した、その瞬間から……
何かが、少しずつ変わる」
「そして、後になって気づくのです」
「――ああ、これが代償だったのだと」
その言葉が、胸に刺さる。
まるで――
自分の五年間を、すべて見透かされたかのように。
◆
シエラは、アガトをまっすぐ見据えた。
「あなたの場合……」
一拍、間が空く。
その沈黙が、やけに長く感じられた。
「人から、"嫌われる"代償なのではありませんか」
――――。
世界が、止まった。
言葉が、頭の中で反響する。
嫌われる。
嫌われる。
嫌われる。
知っていた。
ずっと、知っていた。
でも――
(……違う)
心の奥で、必死に否定する。
(違う、違う、違う)
(そんなはずは、ない)
だが。
「……」
声が、出ない。
リィナの顔が、蘇る。
あの日。
助けたはずの日。
彼女の目に浮かんでいたのは、
感謝でも、安堵でもなく――
拒絶だった。
「……あなたのそばにいると気持ち悪いの」
その言葉が、今も耳に残っている。
記憶がよみがえる。
村人たちの、冷たい視線。
自分が通ると、人が避ける。
両親からの態度。
笑顔が、消える。
何も悪いことをしていないのに。
守ろうとしただけなのに。
(……なんで)
(なんで、俺が)
「……っ」
拳が、震える。
◆
「違います」
アガトは、絞り出すように言った。
「そんなの……おかしい」
「俺は……誰も傷つけてない」
「守ろうとしただけです」
「なのに……」
声が、裏返る。
「なのに、なんで……!」
シエラは、黙っている。
否定も、肯定もしない。
ただ、事実のみを聞こうとしている。
「……力を得てから」
アガトは、うつむいた。
「周りが……変わりました」
「友達だったはずの人が、避けるようになった」
「村の人たちが、目を合わせなくなった」
「理由も、分からず」
「ただ……嫌われていきました」
五年間。
ずっと、理由を探していた。
何が悪かったのか。
どこで間違えたのか。
でも――
答えは、ずっとそこにあった。
「……最初は、気のせいだと思いました」
「次に……自分の態度が悪いんだと思いました」
「だから、もっと優しくしようとした」
「もっと笑おうとした」
「でも……何も、変わらなかった」
言葉が、止まらない。
五年間、押し殺してきたものが、
溢れ出す。
「いつからか……分かったんです」
「これは、俺のせいじゃないって」
「でも……」
アガトは、顔を上げた。
目には、涙が浮かんでいた。
「認めたくなかった」
「認めたら……」
「俺は、もう……」
声が、震える。
「誰にも、愛されないって」
「そういうことに、なるから……!」
その叫びが、休息地に小さく響いた。
◆
沈黙が、落ちた。
アガトは、顔を覆った。
震える肩。
抑えきれない嗚咽。
五年間。
誰にも言えなかった。
言葉にしてはいけないと、思っていた。
だが――
もう、隠せない。
シエラは、静かに立っている。
表情は、変わらない。
「……安心してください」
その声は、穏やかだった。
「あなたを困らせるつもりは、ありませんでした」
「ただ……
勝つために、確証が欲しかっただけです」
「仲間ですから、ね」
「知っておきたかった」
アガトは、顔を上げる。
涙で滲んだ視界の先に、
シエラが立っている。
「……団長は」
かすれた声。
「団長は……俺のことを、嫌いじゃないんですか」
その問いに、シエラは首を横に振る。
「いいえ」
「私は、あなたを嫌ってはいません」
「……なんで」
「感情がないからです」
淡々とした答え。
「私には、嫌悪という感情がありません」
「だから……あなたの代償は、私には作用しない」
「それだけです」
――それだけ。
その言葉が、胸に突き刺さる。
特別でも、何でもない。
ただ――
感情がないから。
だから、嫌われない。
(……そうか)
(そういうことか)
アガトは、静かに笑った。
乾いた、笑い。
「……今日は、ここまでにしましょう」
シエラが、そう告げる。
「休んでください。
最下層は……近いですから」
そう言って、彼女はその場を離れた。
◆
シエラは、休息地の奥へと歩を進める。
誰もいない場所で、立ち止まった。
「……」
胸に、手を当てる。
(……何も、感じない)
期待していた。
アガトの代償――人から嫌われる呪い。
それが、自分にも作用するのなら。
何か、感じるかもしれない。
嫌悪でも、拒絶でも、
何でもいい。
ただ――
"感情"が、戻るかもしれない。
だが。
「……やはり、ダメか」
何も、湧いてこない。
胸の奥は、空虚なまま。
当然だった。
感情がなければ、
嫌悪も、拒絶も、
生まれようがない。
(……人から嫌われる代償、ね)
小さく、呟く。
(……随分と、優しい部類ね)
指先が、わずかに震える。
「私は……
もっと、多くを捨ててきた」
「誇りも、正義も……
綺麗なやり方も」
「脅しも、取引も、裏切りも、汚いことも……
できることは、全部やった」
「金も、名声も……
欲しかったわけじゃない」
「力を得るために、必要だっただけ」
「強い人材を集めるため」
「誰にも逆らわれない立場のため」
「勝つために」
「――復讐を、果たすために」
短く、息を吐く。
「また、あの人を愛するために……」
その目に、もはや騎士の光はない。
あるのは、
底知れない執念だけだった。
◆
だが――
一つだけ、疑問が残る。
「……マルクス」
副団長の名を、口にする。
彼だけは、アガトに対して普通に接している。
嫌悪も、拒絶も、見せない。
むしろ、積極的に話しかけ、
肩を叩き、
信頼すらしている。
(……なぜ?)
代償は、絶対的なもののはず。
本人の意思とは関係なく、
強制的に作用する。
なのに、マルクスだけは――
「……彼も、スキル契約者」
契約内容は、知っている。
能力――氷結の力。
代償――左腕の喪失。
だが。
(……それだけ、なのかしら)
疑念が、頭をよぎる。
もし、本当にそれだけなら――
アガトの代償は、彼にも作用するはず。
なのに、マルクスだけが、
まるで何も感じていないかのように、
普通に接している。
(……契約内容を、偽っている?)
可能性が、浮かぶ。
表向きとは違う、
何か別の能力。
何か別の代償。
――あるいは。
アガトへの嫌悪感を無効化する、
何らかの力を持っている?
小さく、呟く。
だが、今ではない。
今は――
蛇王を倒すことだけに、集中する。
「……ようやく、駒はそろった」
シエラは、迷宮の奥を見据える。
「あと少し」
「あと少しで……
カインの無念を晴らせる」
「そうすれば……」
何かが、変わるかもしれない。
心が、戻るかもしれない。
そんな、根拠のない期待だけを、
シエラは機械的に、積み上げ続けていた。
◆
その夜。
アガトは、眠れなかった。
壁に背を預け、
膝を抱えて座っている。
(……嫌われる、か)
シエラの言葉が、何度も蘇る。
否定したかった。
違うと、叫びたかった。
でも――
もう、逃げられない。
五年間、見ないふりをしてきた現実。
それが、今日――
はっきりと、突きつけられた。
「……俺は」
小さく、呟く。
「誰にも……愛されないのか」
守ろうとした。
英雄になりたかった。
人を救いたかった。
でも――
その代償は、
"人から嫌われること"。
皮肉だった。
あまりにも、残酷だった。
(……シエラさんが、普通に接してくれたのも)
(感情がないから、だった)
特別でも、何でもない。
ただ――
嫌悪という感情が、ないから。
(……副団長は、どうなんだ)
疑問が、浮かぶ。
彼だけは、普通に接してくれる。
理由は、分からない。
(……でも、それも)
(きっと……何か、理由があるんだ)
本当に、自分を認めてくれているわけじゃない。
そう思えてしまう。
心が、揺れる。
不安定になる。
信じたいものが、
信じられなくなる。
「……くそ」
拳を、握りしめる。
休息地の外で、
迷宮は静かに蠢いている。
そして――
蠕蛇の迷宮、本戦は、
確実に迫っていた。
だが、アガトは知らない。
シエラの真の目的を。
そして――
自分が、ただの"駒"であることを。
まだ、知らなかった。
心が揺れ、
不安定になったアガトを――
さらなる絶望が、待ち受けている。
それは、もうすぐだった。
ちょっとずつシエラの闇の部分が見えてきましたね!
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