第5章 蠕蛇の迷宮編③
六階層へと続く階段を下りた瞬間、迷宮の空気が、はっきりと変わった。
湿り気を帯びた空気は重く、肺の奥にまで魔力の澱が入り込んでくる感覚がある。
「……ここから先は、警戒を一段階上げて」
シエラの声が、落ち着いて響いた。
「魔力消費が増えます。無駄な戦闘は避けましょう」
「了解や。前衛、詰めすぎたらあかんで」
マルクスが応じ、陣形が引き締まる。
アガトは、指示通り後方寄りの位置を保った。
前に出る理由はない。
出るべき場面では、必ず声がかかる。
(……空気が、違う)
五階層までとは、明らかに何かが変わっている。
壁に刻まれた溝は深く、
天井からは粘性のある液体が垂れ、
足元には魔力の残滓が、薄く積もっていた。
「装備、確認」
マルクスの声に、全員が動く。
剣の鞘を確認し、
防毒マントの留め具を締め直し、
解毒薬の位置を再確認する。
これまでのように、漫然と進める場所ではない。
誰もがそれを、理解していた。
◆
最初の敵影は、通路の曲がり角を越えた先で現れた。
蛇型の魔族。
下位種とは明らかに違う、圧のある体躯。
鱗は黒く光り、
瞳には知性が宿っている。
「……Aランク相当やな」
マルクスが低く呟く。
魔族は動かない。
だが、こちらを"見ている"。
獲物を値踏みするように。
どこから崩すべきか、探るように。
緊張が、走る。
「前衛、盾を構えて」
シエラの指示が、静かに響く。
「後衛は、詠唱準備」
「アガト、タイミングを見て支援を」
「了解です」
アガトは剣を握り直し、呼吸を整える。
そして――
次の瞬間。
地面を砕き、巨体が襲いかかってきた。
「前衛、受け止めろ!」
剣と盾がぶつかり合い、鈍い衝撃音が迷宮に反響する。
前衛の騎士が一歩、後退する。
「くっ……!」
衝撃が、腕を通して全身に伝わる。
刃は通りにくい。
鱗が厚く、再生も早い。
「無理に削らないで! 足止め優先!」
シエラの判断は的確だった。
前衛が引きつけ、後衛が確実に削る。
これまでの訓練通り。
迷う必要はない。
アガトは、指示された通り魔法を放つ。
《魔力刃》。
派手さはない。
だが、確実に効いている。
魔族の動きが鈍り、バランスが崩れる。
その隙に――
「いくで!」
マルクスの小太刀が、深く入った。
氷の刃が、鱗を貫き、肉を凍らせる。
魔族が、初めて声を上げた。
だが、それでも倒れない。
「再生、早い……!」
傷口が、目に見えて塞がっていく。
「落ち着いて。想定通りよ」
シエラの声が、冷静さを取り戻させる。
「抑制剤を塗った武器に持ち替えて」
「了解!」
前衛が武器を切り替える。
刃には、再生を遅らせる薬剤が塗布されている。
再び、斬撃が走る。
今度は――傷が塞がらない。
「今や!」
マルクスが踏み込み、
致命の一撃を叩き込む。
魔族の首が斬り飛び、
巨体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
「……よし、倒した!」
誰かの声が、安堵を帯びて響く。
◆
戦闘後、通路には荒い呼吸だけが残る。
負傷者は出たが、致命傷はない。
回復も間に合っている。
だが――
消耗が、確実に増している。
「……六階層で、この硬さか」
誰かが小さく呟いた。
五階層までの魔物とは、次元が違う。
一体倒すだけで、これだけの時間と魔力を消費する。
「想定内よ」
シエラは即座に言った。
「ここから先は、こういう戦闘が増える。でも――今の対応は悪くなかった」
誰も声を上げない。
ただ、黙ってうなずく。
それぞれが、傷を確認し、装備を整える。
アガトは静かに息を整える。
(……これが、六階層)
今までの順調さはない。
だが、破綻もしていない。
訓練の成果が、確実に出ている。
「休憩は短めに」
マルクスが言う。
「次に備えて、魔力は温存しとけよ」
「はい」
短い返答が、次々と返る。
◆
六階層を進むにつれ、戦闘の回数は増えていった。
一体。
また一体。
確実に、削られていく。
だが――
清廉の騎士団は、止まらなかった。
一つ一つの戦いを、丁寧に処理し、
無駄な消耗を避け、
確実に、前へ進む。
「次、来るで」
マルクスの声に、全員が構える。
もはや、言葉は少ない。
だが、連携は崩れていない。
アガトもまた、自分の役割を理解していた。
出過ぎず、引きすぎず。
必要な場面で、必要な支援を。
(……まだ、やれる)
剣を握る手に、力がこもる。
◆
六階層の最奥に辿り着いた時、
全員が、静かに息を吐いた。
「……突破、か」
マルクスが、鎧を鳴らす。
「ああ。次は七階層やな」
シエラは頷き、全員を見渡す。
「ここまで、よく耐えました」
「次の階層も、油断せずに」
「はい」
声は、疲れを帯びている。
だが、誰一人として諦めてはいない。
――まだ、進める。
清廉の騎士団は、慎重に、しかし確実に歩を進めていった。
蠕蛇の迷宮は、その奥に控える本当の試練を、まだ見せてはいなかった。
だが――
確実に、深淵へと近づいている。
アガトは、階段を下りながら思う。
(……この先に、何が待っているんだ)
答えは、まだ見えない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
もう、引き返すことはできない。




