第4章 清廉の騎士団⑩
その呼び出しは、あまりにも唐突だった。
「アガトさん、少し時間をもらえますか?」
訓練後。
日が傾き、団員たちが一人、また一人と引き上げていく中庭で、
団長――シエラが声をかけてきた。
「なんでしょうか……?」
問い返しながらも、
胸の奥で小さく鼓動が跳ねるのを、アガトは自覚していた。
団長が。
わざわざ。
個人的に。
「今度の休養日、予定は空いていますか?」
一瞬、思考が止まる。
任務の話でも、訓練の指示でもない。
ただ、予定を――聞かれた。
「……はい、空いてます」
短く答えると、
シエラはほっとしたように、わずかに表情を緩めた。
「では、その日」
「少し、付き合ってください」
それだけを告げ、
彼女はそれ以上の説明をしなかった。
理由を聞く勇気も、
冗談だと流す余裕もなかった。
◆
当日。
王都の門前で待っていたシエラは、
いつもの団服を身にまとっていなかった。
淡い色合いのワンピース。
派手さはなく、だが上質さの分かる仕立て。
足元も動きやすい靴で、街歩きに慣れている様子がうかがえる。
(……私服……)
一瞬、視線を逸らしそうになり、
慌てて踏みとどまる。
それでも――
彼女だと、一目で分かる。
背筋の伸びた立ち姿。
周囲を自然に把握する視線。
そして、揺るがない気配。
「……団長?」
「今日は、シエラで結構ですよ」
そう言って、彼女は微笑んだ。
命令でも、試すようでもない。
ただ、ごく自然な口調だった。
一拍、間が空く。
「……シ、シエラ……さん」
言い慣れない呼び方に、
自分の声が思った以上に硬くなる。
「それで十分です」
満足そうに頷くと、
彼女はいつもより少しだけ近い距離で歩き出した。
胸の奥が、静かにざわめいた。
◆
歩き出すと、王都の空気はいつも通りだった。
賑やかで、雑多で、どこか落ち着かない。
店先の呼び込み。
子どもたちの笑い声。
焼き菓子や香辛料の混ざった匂い。
――その光景に、ふと重なる記憶があった。
(……リィナ)
幼い頃。
山を下りて、たまに訪れた街。
何も考えずに並んで歩き、
くだらない話をして、
日が暮れるまで笑っていた。
あの日々が、
もう戻らないものだと理解してから、
こんな時間を想像したことはなかった。
「どうしました?」
「いえ……昔を、思い出して」
「昔?」
「こんな風に、一緒に歩いてくれる人がいたんです」
シエラは、歩みを止めずに、
少しだけ目を細めた。
「……大切な人なの?」
「……はい」
短い返事。
「そう……」
それ以上、踏み込んではこなかった。
沈黙が落ちる。
だが、気まずさはない。
彼女は自然に歩幅を合わせ、
人混みでは、さりげなく進路を調整する。
(……気を遣ってる)
そう思った瞬間、
なぜか胸の奥が温かくなった。
◆
店に入れば、視線は否応なく集まる。
シエラが目立つのは当然だ。
問題は――その隣にいる自分だった。
「……あの人、誰?」
「聖女様の連れ……?」
「なんで、あんな……」
囁き声。
露骨な嫉妬。
隠そうともしない敵意。
店の対応も、普段より明らかに冷たい。
「取り扱いしてねぇよ。帰れ!」
「こちらは、おすすめしておりません」
「……すみません。またダメでした」
謝りながら店を出ると、
シエラは首を横に振った。
「気にしないでください」
「では、別のお店にしましょう。次は私が行ってきますね」
そう言って、
ごく自然にアガトの袖を引いた。
「こっちの通り、落ち着いていて好きなんです」
距離が、近い。
人混みで肩が触れ、
立ち止まれば、視線が絡む。
「甘いものは、平気ですか?」
「……はい」
「よかった」
その笑顔が、
あまりにも近くて。
(……)
守るものも、
役割も、
観察されていることさえ忘れて。
ただ、隣にいる感覚が――
心地よかった。
◆
夕暮れ。
川沿いの道で、二人は並んで腰を下ろした。
水面に映る橙色の空。
行き交う人々の影。
少しずつ灯り始める街。
穏やかな時間だった。
だからこそ、シエラは切り出した。
「……今日は、どうでした?」
「楽しかったです」
「少し、夢みたいでした」
偽りのない言葉だった。
「ふふ」
シエラは一度だけ、空を見上げる。
その横顔は、穏やかで――だが、どこか緊張している。
「実は……」
「一つ、伝えておきたいことがあります」
声色が、僅かに切り替わった。
団長としての声音ではない。
もっと、個人的なものだ。
シエラは、ひとつ息を整えてから、アガトをまっすぐに見た。
「……もう知っての通り、私はスキル契約者です」
「私の能力は――
魔力の増幅、回復、そして支援魔法の最適化」
淡々とした口調。
だが、その内容は明らかに常軌を逸していた。
「治癒魔法の効力を底上げし、
回復の速度を早め、
味方の身体と魔力の流れを“正しい状態”に保つ」
それは、戦場で何度も命を引き戻してきた力。
人々が彼女を“聖女”と呼ぶ理由だった。
「この力があったから、私は多くの人を救え、
前線で倒れる兵士を、何度も立ち上がらせてきました」
一拍、間が空く。
シエラの声が、少しだけ低くなる。
「……でも、この能力がある代わりに」
「代償も、払っています」
「代償……」
「ええ。感情に関するものです」
淡々とした口調。
事実を整理して並べるような話し方。
「私の代償は……感情の欠落」
「喜びも、怒りも、愛情も」
「本来なら、人が自然に持つはずのものを、私は失いました」
胸の奥が、僅かにざわつく。
「だから私は――」
「常に、頭で考えます」
「正しいか、合理的か」
「得か、損か」
「それ以外の基準を、私は持たない」
「スキル契約は、奇跡じゃありません。
力を得る代わりに、必ず何かを削られます」
彼女は悲しむでも、嘆くでもなかった。
ただ、事実を述べているだけだった。
「……それでも」
そこで、言葉が一瞬だけ詰まる。
「きみと一緒にいると」
「説明できないズレが生じます」
シエラは、指先を見つめる。
「感情がない以上、感じるという表現は正しくない」
「けれど……何かが、通常の計算から外れる」
アガトは、息を呑んだ。
「以前の戦いで」
「きみを回復したことがありましたね」
「……はい」
「あの時、立ち眩みがしました」
「私は疲労だと判断しましたが……後で考えると、辻褄が合わない」
視線が、まっすぐに向けられる。
「私は、自分を回復した時にも」
「他者を回復した時にも、同じ症状を経験したことがありません」
「でも、きみを回復した時だけ――」
「意識が、一瞬、揺らいだ」
それは事実の列挙だった。
だが、どこか戸惑いが滲んでいる。
「理由は分かりません」
「理論も、仮説も立てられない」
「だから私は……『不思議』だとしか言えないのです」
その言葉は、
感情を持たない者が、精一杯選び取った表現だった。
彼女の中に、 空白だったはずの場所に、
微かな“何か”が宿り始めているような――そんな違和感。
(もしかして……)
(俺が、きっかけで心が戻りつつあるのか?)
そんな考えは、口にできない。
だが、否定もできなかった。
アガトは、しばらく黙っていた。
胸の奥で、確かな実感が脈を打つ。
そして――
静かに、口を開いた。
「……シエラさん」
彼女が、視線を向ける。
「俺も……スキル契約者だと思います」
一瞬、空気が張り詰めた。
「幼馴染を助けて……」
「死にかけた、その時に――急に、力を得ました」
「能力は……正直、全部は分かりません」
「でも――」
言葉を探しながら、続ける。
「身体が、異常に強化されている」
「魔法も、いつの間にか使えるようになっていた」
「剣も……前より、考えた通りに振れるんです」
「まるで――」
「身体そのものが、作り替えられたみたいで」
冗談めかした口調だったが、
その目は、冗談を許さないほど真剣だった。
「代償が何なのかは……まだ、分かりません」
「でも」
一瞬、拳を握る。
「誰かを守るための力なら」
「俺は――受け入れる覚悟があります」
短い沈黙。
それを破ったのは、シエラだった。
「……幼馴染の方を助けた後」
「何か、変わったことはありませんでしたか?」
静かな問いだった。
「変わったこと……ですか」
アガトは、少し考えてから答える。
「……急に」
「周りの、自分に対する態度が変わりました」
「皆から……避けられるようになったんです」
それ以上、言葉は続かなかった。
シエラは、何も言わない。
否定も、驚きも、同情もない。
ただ、事実を受け止める沈黙。
川風が、二人の間を静かに抜けていく。
「……夜ですね」
そう言って、シエラは立ち上がった。
「今日はもう帰りましょうか」
王都の灯りの中、
二人は並んで歩き出した。
――はたから見れば、
それはどう見ても、恋人同士の帰路だった。
だがシエラの内では、
一つの「未解決の問題」が、解かれつつあった。
その答えは、
まだ、言葉にならない。
そしてアガトもまた、
彼女の隣を歩きながら、静かに思っていた。
(……もし、この人に心が戻るなら)
(俺は――それを、守れる存在でいたい)




