第3章 王都⑦
「改めまして、名乗らせてくださいね」
白い手袋に包まれた手を胸の前で重ね、彼女はそう言った。
「私はシエラ。
清廉の騎士団を預かっております」
その瞬間――
アガトは、言葉を失った。
微笑んでいた。柔らかな笑顔。
気づいた時には、胸の奥が、わずかに熱を持っていた。
――人に、笑顔を向けられたのは。
いつ以来だろう。
村で疎まれ、
小屋に隔離され、
山で生きるようになってから。
思い返しても、
五年は、確実に――なかった。
「……アガトです」
声が、少しだけ掠れた。
シエラはそれに気づいた様子もなく、静かに頷く。
「紅角の地走竜を討った力。
それは、誰にでもできることではありません」
責めるでもなく。
疑うでもなく。
ただ、“事実”として語る。
「王都は今、多くの問題を抱えています」
「力がありながら、行き場のない人も……」
そこで一瞬、視線が重なった。
「もしよろしければ――
あなたの力を、私たちに貸していただけませんか?」
拒絶されると思っていた。
だが――
この人は、違う。
(……違う、気がする)
根拠はない。
それでも、胸の奥で何かが囁いた。
――この人なら。
――この人について行けば。
「……僕は、Eランクです」
そう告げると、シエラは小さく笑った。
その笑顔が、胸に刺さる。
「ええ。制度上は、そうですね」
否定しない。
けれど、切り捨てもない。
「でも、制度は人を守るためのものです」
「あなたを縛るためのものでは、ありませんよ」
優しい声。
包み込むような調子。
その言葉が、
長い間、誰にも肯定されなかった心に――静かに染み込んでいく。
(……ああ)
危うい、とどこかで思った。
こんなふうに誰かを信じてしまうのは。
でも。
(……信じたい)
英雄を思った。
誰かを導く存在。
迷う者に、進む道を示す光。
シエラの姿が、
その像と、重なって見えた。
「今、決めなくても構いません」
彼女は一歩、距離を取る。
「もし。お返事をしていただけるのであれば、
明朝、王城へお越しください。」
逃げ道をくれる言葉。
なのに、心はもう――逃げていなかった。
ギルドを出ると、王都の夕暮れが広がっていた。
石畳。
人の波。
生きている街。
(……ああ)
その瞬間、確信にも似た感覚が芽生える。
この人なら。
正しいと思える。
この人の言う“正義”なら、
信じてみてもいい。
それは忠誠ではない。
まだ崇拝でもない。
だが――
確かに、信仰の芽だった。
アガトは、静かに一歩を踏み出す。
もう、山には戻らない。
戻る理由も、なかった。
アガトは明朝、王城へと足を運んだ。
そして――
アガトが“誰かの正義を信じる物語”が、
静かに始まった。
――――――――――――――――――――――
「……あの子」
誰もいない執務室で、シエラは小さく息を吐いた。
「紅角の地走竜を、単独で討つ力……」
「やはり、ただ者ではありませんね」
指先で、白手袋をなぞる。
「契約者の可能性も、否定はできないわ」
「……いえ。そうであれば、なおさら」
窓の外、夕闇に沈む王都を見下ろす。
「力を持ちながら、居場所を持たない者」
「放っておく方が、よほど危険ですもの」
一瞬、言葉が途切れた。
「……それに」
胸の奥に、微かな違和感が残る。
「あの子と話すと、
考えが、乱れる気がするのよね」
首を振り、表情を引き締める。
「……気のせいでしょう」
「いずれにせよ」
「彼は、こちらに来る。――田舎者でよかったわ」
そう言い切ってから、少しだけ声を落とす。
「目的のため」
「だからこそ――」
誰にも聞かれない声で、続ける。
「必要なのよ」
「彼の力が」
ほんの一瞬、
迷いの影が、胸をよぎる。
「……それだけ」
そう言い聞かせるように呟き、
シエラは再び、いつもの微笑を作った。
「全ては、"彼"のため」
「そして――清廉の名のもとに」




