第1章 禁忌の森①
アガト・エルフィード。
それが、僕の名前だ。
十三歳。
この小さな辺境のミレル村で生まれ、育ち、そして――何も疑わずに生きてきた。
村はずれに流れる小川、木造の家々、朝になると聞こえる家畜の鳴き声。
どこにでもある、平和そのものの村。
「アガトー! 今日も遅いよ!」
少し高めの声が、背後から聞こえた。
振り返ると、そこには幼馴染の少女が立っている。
彼女の名はリィナ。
僕より少し背が高く、明るくて、よく笑う――この村で一番目立つ存在だ。
「ごめん、母さんの手伝いが長引いてさ」
「もう。英雄になるって言う割には、地味だね?」
くすくすと笑うリィナに、僕は肩をすくめた。
――英雄。
それは、僕が物心ついた頃から抱いていた夢だ。
母が夜ごと語ってくれた英雄譚。
名もなき英雄が魔族を抑え、人々に平安をもたらし、
そして誰にも知られず姿を消した物語。
誰からも称えられなくてもいい。
誰かのために行動できるなら、それでいい。
そんな想いを、十三歳の僕は疑いもしなかった。
「……ねえ、アガト」
リィナの声が、ふと低くなる。
「お願いがあるんだけど」
その目は、いつもの軽さを失っていた。
「森の奥、行こう」
胸が、ひくりと鳴った。
「……禁忌の森に?」
村の大人たちが、子供に絶対近づくなと言い聞かせる場所。
魔物が出ることもある、危険な森。
「分かってる。でも――薬草が必要なの」
リィナは、ぎゅっと拳を握った。
「お父さん、咳が止まらないの。
村の薬草じゃ、もう効かなくて……」
そう言われて、言葉に詰まった。
最近、安全地帯の森では薬草が採れなくなってきている。
それは村中が知っている事実だった。
「大人に頼めば――」
「無理だよ!」
リィナは、少し強い口調で言った。
「禁忌だからって、誰も行ってくれない。
でも、入り口の近くだけなら……昔は採れてたって聞いたもん」
焦りと不安が、声に滲んでいた。
「アガトは英雄になりたいんでしょ?」
その言葉が、胸に刺さる。
正しいことをしたい。
誰かを助けたい。
――英雄なら、ここで断るべきじゃない。
理屈より先に、そう思ってしまった。
リィナがじーっと目を見てくる。
「ずるいなぁ……本当に、少しだけだぞ」
「うん! すぐ戻るから!」
リィナは、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、胸の奥の違和感を、僕は無理やり押し込めた。
この選択が、
今後の人生の大きな分岐点になることとは、
その時の僕は、考えもしなかった。
禁忌の森は、静まり返っていた。
まるで――最初から、僕だけを待っていたかのように。




