第2章 山修行①
村を離れて、どれほど歩いただろう。
禁忌の森を越え、さらに奥。
人の気配が完全に消えた場所に、アガトは辿り着いていた。
空気は澄み、木々は高く、
夜になると、星が恐ろしいほど近い。
「……ここなら、誰にも迷惑はかからないな」
自分に言い聞かせるように呟く。
最初の数日は、ひどいものだった。
火を起こすのに失敗し、
雨で体を冷やし、
まともな食事も取れない。
村にいた頃、
最低限とはいえ食事が出ていたことを、
皮肉にも思い知らされた。
眠れない夜も多かった。
物音がすれば、反射的に剣を握る。
風の音か、獣の足音か、それとも魔物か。
心が、休まらない。
それでも。
朝が来るたび、アガトは立ち上がった。
「……英雄は、弱音を吐かない」
それは誰に聞かせるでもない、
自分自身への呪文だった。
食料は、少しずつ確保できるようになった。
罠を張り、
木の実を見分け、
川で魚を捕る。
剣と魔法は、生活のために使われた。
魔物との戦いも増えた。
森の奥には、
村の周囲とは比べ物にならないほど強い存在がいる。
牙の鋭い魔獣。
魔力を帯びた大型の獣。
時には、名も知らぬ魔族。
戦いは、常に命がけだった。
けれど――
誰も、アガトを責めなかった。
嫌な視線も、
罵声も、
恐怖に歪んだ顔もない。
ただ、生きるために戦うだけ。
ある日。
焚き火のそばで休んでいると、
小さな影が近づいてきた。
兎だった。
警戒する様子もなく、
少し離れた場所で、じっとこちらを見ている。
「……逃げないのか?」
そっと手を伸ばすと、
兎は驚いたように跳ねたが――逃げなかった。
しばらくして、
別の動物も現れた。
鹿、鳥、狐。
どれも、一定の距離を保ちながら、
アガトの周囲に集まってくる。
「……変なの」
思わず、苦笑が漏れた。
人には嫌われる。
なのに――動物は、違った。
噛みつかれもしない。
怯えられもしない。
ただ、そこにいる存在として、
受け入れられている気がした。
夜、焚き火の前で眠るとき。
近くで、動物たちの気配を感じることがある。
見張りをしてくれているわけではない。
ただ――一緒に、そこにいるだけだ。
そのぬくもりが、
胸の奥に、じんわりと染みた。
「……悪くないな」
誰にも聞かれないように、そう呟く。
この山でなら、
英雄じゃなくても、生きていけるかもしれない。
そんな考えが、
一瞬だけ、頭をよぎった。
けれど。
剣を研ぐ手は、止めなかった。
魔法の練習も、欠かさなかった。
英雄になる夢を、
手放すつもりはなかった。
――いつか、また人の世界へ戻るために。
アガトは、
山での生活を続けた。
不器用で、孤独で、
それでも確かに――穏やかな日々を。




