第0章 英雄譚
この世界では、選ばれし者に力が得られる。
ただし、同時に"代償"を受け入れなければいけない。
人々はそれを「スキル契約」と呼び、祝福の力として語り継いだ。
だが実際は――それは呪いであった。
柔らかな灯りが、木造の家を照らしていた。
夜の静けさの中、ぱちぱちと薪の弾ける音だけが響く。
「じゃあ、今日もお話をしようか」
母はそう言って、古びた本を開いた。
何度も読まれ、何度も触れられた頁。
小さな少年は毛布にくるまり、母の膝に頭を預けながら、その声に耳を傾ける。
「これはね……ずっと昔のお話」
「魔族と人間が、今よりもずっと激しく争っていた頃のお話よ」
母の声は穏やかで、どこか遠い時代へと連れていく力を持っていた。
魔族は強大だった。
炎を操り、大地を裂き、夜のような恐怖をもって人の国々を蹂躙した。
街は焼かれ、祈りは届かず、人々はただ怯えながら生きていた。
「でもね、ある日――1人の英雄が現れたの」
"英雄"
その言葉だけで、胸が熱くなった。
その英雄は王でも貴族でもなかった。
名のある血筋でも、軍を率いる将でもない。
ただ、人々を守りたいと願った一人の人間だった。
剣を振るい、魔法を操り、傷ついた者を癒しながら、
英雄はたった1人で魔族の軍勢に立ち向かった。
「強かったの?」
少年が尋ねると、母は小さく微笑んだ。
「ええ、とても」
「でもね、それ以上に……優しかったのよ」
英雄は魔族の進軍を止め、戦争を終わらせた。
魔族は退き、人々の暮らしには平安が戻った。
畑には作物が実り、子どもたちは笑い、夜は静かになった。
「それで……その英雄は?」
母は一瞬だけ言葉を止めた。
灯りが揺れ、影が壁に伸びる。
「……その後のことは、誰も知らないわ」
凱旋はなかった。
祝福もなかった。
英雄の名は、どこにも記されなかった。
人々は平安に慣れ、やがて英雄を語らなくなり、
いつしか――英雄そのものが、物語から消えていった。
「どうして……?」
幼い少年の声は、震えていた。
「英雄はね、見返りを求めなかったの」
母はそう言って、そっと頭を撫でる。
「誰かを救えたなら、それでよかった」
「だから、誰にも知られない場所へ行ったのよ」
少年はしばらく黙り込み、やがて強く拳を握った。
「……ぼく、その人みたいになりたい」
母は少し驚いたように目を見開き、それから優しく微笑んだ。
「そうね」
「あなたは、きっとなれるわ。」
「たとえ――何があろうとも…」
――名も残らず、報われずとも、善を貫く英雄への憧れ。
この夜に植え付けられた“英雄への憧れ”は、
やがて彼の人生そのものを形作ることになる。




