汽笛は鳴るか鳴らないか
童話というのはつまり「子どものための小説」みたいなものだと思いますが、ひと口に子どもといっても、幼年と少年ではだいぶ違うと思うわけで。
愛着理論あたりからすれば、幼年というのは、やはり、親(またはそれに類するだれか)にしっかり守られ、愛され、安定した愛着スタイルを築きあげることで、後々のジンセイの準備というか、基礎体力をつけるべき時期なんじゃないかと……専門家でもないのでテキトーですが思います。
感情の社会化とか、何ならそんなむずかしいことはおいておいて、とにもかくにも親のハグとか、しっかり甘えさせるとか、大事な時期ではないのかなー、と。
一方で、少年期になると、やはり、どうにも、パパママべったりというわけにはいかない。
まあ、ニンゲン、ネオテニーですから、そうそうすぐではないですが、しかしそれでも、ゆっくりとではあれ、ひとり立ちへむけての準備が始まる、わけで。
最終的には、万感の思いを込めて汽笛か何か鳴らしつつ、「そして少年は大人になった」的な帰着点をめざすことになるのかなー、と思います。
もちろん、ジンセイ、紆余曲折のいったりきたり。ザセツもあれば、再起もあって、そうした場合、往々にして、精神的な退行というか、誰かに甘える、支えてもらう、子ども時代をやりなおす、みたいな時期が、必要になることもある……かもしれないようなことが、愛着障害方面の本なんか読むとでてきたりもしますよね。
そういう、ジンセイにヘタレてダウナーになっているときに、万感の汽笛だの戦士のように生きられるかだの、わたしがおまえのチチだー、とかやられても、わずらわしいことこのうえもないわけで……
幼稚だ甘えてるだけだとなじられても、できないものはできない。そんな時期もあるさくらいなもので。
そのまま腐ってしまったら、まあ、アレですが。
再起に結びつくなら、それもよしで。そのときあらためて、ユングでも河合隼雄でもジョゼフ・キャンベルでも、お世話になればよろしかろうと思うわけです。
つまるところ、
善きグレートマザーにだっこされて、エネルギーチャージする、そのための物語と――
悪しきグレートマザーから、父の剣で解放されて、外界へ一歩を踏み出す物語と――
子どものための物語のニーズというのは、やはり、両方あって、どっちが上とか下とかいう話ではないような気がしないでもありません。
ユング心理学、そんな好きでもないんですが(特に中心周縁論的共同体論とか)……こと「物語」をめぐるときには、やっぱり便利ではありますねぇ。
あ、そういう意味では、前回書いたようなイニシエーション不全世代の当方など、やはり、どうにも、父性的な成長物語を(必要としつつも)書くのが苦手で……わりとまだまだ母性的な「おーよしよし」系の童話を書きがちなのかなぁなどとも思ってしまいます。
『さくらのてまりうた』の火中出産、『あっちがわシリーズ』の「水」の出産イメージ、何より『おかあさんの桜』の母恋いなんかも……ですねぇ。
そのでんでいうなら、まだまだ幼年期っぽいイメージではありましたが、『いちばんのきらきら』で当方の童話としてはめずらしく父親が活躍したのは、われながら、ある意味、画期的だったのかもしれないなー、などと思う今日この頃なわけです。
そろそろ、汽笛のヒモに手をとどかせる準備くらいはすべきなのかしらん? まだむりか。
たとえが昭和でスミマセン…。




