幼年期が終わらない
ケンイのあるブンカ論でもなんでもない、たんなる妄想なので、今回、あまりまじめにうけとめないでほしいですし……
ンな大上段に時代を語るとかおこがましいわ、こっぱずかしいわ、と、われながら忸怩たるものもあるですが……
話の流れ上(そんなものがこの連載にあるのかと、言った当人がビックリですが)、いかんともしがたいので、恥を忍んで書いておきます……
※
もう30年以上前になるでしょうか。
90年代の前半くらい?
時ならぬ心理学のプチ・ブームみたいなものがありました。
映画『羊たちの沈黙』がヒットして、元ネタの『FBI心理分析官』もヒット。「プロファイリング」なんてタームがお茶の間に普及しました。
何十年も『アルジャーノン』しか訳されていなかったダニエル・キイスが、いきなり『サリー』『ビリー』とたてつづけに訳されて、ヒットしました。
ジョゼフ・キャンベルとビル・モイヤーズの対談がNHKで放送されたりしたのもこのころです。
そして何より、ユング心理学の河合隼雄がやけに流行って、あげく、ブンカ庁の長官にまでなりました。
あれはいったいなんだったんだろう、と、いまでも考えます。
ブンカ庁云々とかいわれると、利権がどうこうかんぐりたくなるのは、まあ、おいておくとしても……
時代背景を思いだしてみれば、現象としてうなずけるものもなくはないというか、時ならぬ~というよりは、むしろ、時代の必然だったような気がしないこともありません。
90年代前半といえば、何があったか。
91年、ソ連が崩壊しました。
90年~、バブル崩壊がはじまりました。
そして、氷河期が到来したわけです。
政治的(アンポーハンターイetc)にも、経済的(キンノタマゴ・コウドケイザイセイチョウetc)にも、過去の世代の経験が、一朝にして、陳腐化しました。
父親世代の経験が、政治的にも、経済的にも、何の参考にもならなくなった状態で、それでも社会に出ていかなければならなかった(あるいは、出ていきそこなってヒキコモッた?)のが、(初期の?)氷河期世代でした。
当時ブームになった河合隼雄的なユング心理学において、(あるいはジョゼフ・キャンベル的な神話学においても)、しばしば強調されるのは、成長儀礼=イニシエーションであり、そこで比喩的に演じられる死と再生のドラマにおいて、中心的な役割をはたす機能こそ、父性です。
母性は、子どもを、やみくもに守ろうとする結果、思春期においては、しばしば、子どもの自立の機会を奪い、スポイルする、悪しきグレートマザーと化す(のではなかったかとうろおぼえ)。
イニシエーションにおける「死」の象徴表現が、母胎への回帰を思わせるのは、それがため(だったんじゃないかとうろおぼえ)。
その母子の過剰な紐帯、文字通りへその緒を切断して、外界≒社会へと導き入れるのが、父性の役割、と……河合隼雄的なユング理論ではそういうことになるでしょう(たぶん。うろおぼえですが)。
そして、しばしば、その父性の役割は、たんに先達として教え導くという形ではなく、逆説的に、敵として立ちはだかる、という形をとることもあるのだとか。
父の機能が、ヘソの緒の切断≒母子密着のユートピアを暴力的に剥奪することだとすれば、子どもの目に一見「わるいひと」と映るのは必然でもあるわけです。
その機能を象徴的に物語化すると、星一徹がヤクルトに入団し、アナキン・スカイウォーカーがベーダ―卿と化す、ということにもなるようで……
その父を倒す≒のりこえることによって、「そして少年は大人になる」というのが、ジョゼフ・キャンベル的な英雄神話のプロットでもあるでしょうか(たぶん。うろおぼえですが)
その「父」が、政治的にも、経済的にも、のりこえる価値すらない、無意味な存在と化した。
もちろん、親身な導き手(ベーダーならぬオビ・ワン的な)としても、無能をさらけだすことになった。
個々人としてりっぱな父親はまだまだたくさんいたでしょうが、マスとして社会的には、父性の陳腐化・無意味化の傾向が強くなった。
若者たちは、父という偉大な敵を、喪失した。
それが、(ユング心理学的に見た場合の)あの時代の深層だったとすれば――もはや父と子のイニシエーションなど不可能であり、つまり「成長」自体が不可能ということにもなり――もはや、だれもおとなになることのない、図体がデカいだけのコドモの時代、グロテスクな戯画としてのネバーランドが現出する……それが「いま」だ、ということにも、なるのかもしれません。
ちなみに、その時代におきた、もうひとつの(ふたつの?不可分の?)現象が、地下鉄サリン事件であり、最初のエヴァブームでもあり……当時のスタッフ座談会でのだれだったかの指摘によれば、エヴァとオウムには妙な「シンクロ率」の高さがあったとかなかったとかですが、あの旧エヴァというのもわかりやすく父性喪失的な迷走を見せつけてくれたアニメでした。
父親の作ったロボットにのって戦う少年のまえに……最後はラスボスとして父親がたちはだかりそうな「予感」だけをただよわせながら……その予感を実現することはついになく、むしろ女性≒母性をめぐってえんえんうじうじしつづけた旧エヴァ。
前述のスタッフ座談会でやはりだれかがいっていたのが、「これほど出産のイメージが頻出するロボットアニメはない」だったかな?と……
言い古された現象ですが、父性の失権、「父」の不在。
むしろもはや象徴的には「父」は死んだ。
すでに死んだものを、いまさら殺すことはできない。
神話的な「父殺し」の不可能性。
そんな時代にまきおこった、心理学のプチブームとは……
古いシナリオをうしなってぼう然自失、とほうに暮れた日本社会ぜんぶが、カウンセリングでも受けたがっているような、そんなミットモナサケナイ現象だったのかもしれません。
で、結局のところ、それは役に立ったのか?
キャンベル的な英雄神話では、少年は、魔王をたおして英雄になります。父をのりこえて大人になります。
しかし、もはや、魔王≒父ではない。
「父」にそんな威厳はない(くりかえしますが個々人ではなくマスとして)。
特にマンガ・アニメ・ラノベの世界においては、魔王など、ハーレム要員の美少女と化して久しいでしょう(すべて、ではないのはいうまでもないですがわずらわしいので割愛)。
そして、もはやハーレムを作ったところで、それが出産に結びつく必然すらもありません。
なんとなれば、子どもが生まれたところで、その子を大人へと成長させるイニシエーションは、もはや、不可能なのですから。
可能なのは、ネグレクト前提の無責任な繁殖か、たんに不毛な射精の反復だけ……
少子化の原因は、社会的政治的には、大きな政府の社会主義による増税地獄――国民負担率の野放図な増大――による、若年層の貧困化とかなんとか、そのあたりになるのかもしれませんが、ニワトリなのかタマゴなのか、河合隼雄的なロジックにおいては(※当方、かならずしも、そのロジックが好きというわけではないのですが)、こうしたイニシエーションの不成立による、オトナの消失とも、関連しているのかもしれません?
セックスは子づくりの手段などではもはやない。
そもそも子どもなんかほしくない。
「ぼく」自身がコドモだから。
ぼくという子どもをあまやかしてよ。
キモチヨクしてよ。
だからセックスは単に射精の手段にすぎない。
むしろ、射精という目的のためには、わずらわしい相手を必要とするセックスなど、もはや最上位の手段ではないかもしれない。
そんな時代に、どんな童話が可能なのか?
そんな時代だから、童話からリスタートしなければならないのか?
オトナが消滅した、コドモしか存在しえない時代なのだとしたら、むしろ、童話以外、不可能なのか?
それは、幼年期にひたりつづけるための童話なのか?
それとも、幼年期を終わらせるための童話なのか?
たまに、そんな妄想にとらわれたりもするのです。
そして、そんな妄想は、しょせん、胃を悪くするくらいの役にしか、立たないのです。




