メタ指向
まえにも書いたように、佐藤さとるさんは、物語のおもしろさに特化した作家さんという印象を、個人的にもっていますが、その一方で、実はわりと理屈っぽい方でもあったのかしらん?とも、かってに想像しています。
というのも、佐藤さとるさんの作品て、わりとメタフィクションや枠物語がめだつのですよね。
代表作のコロボックルシリーズからして、メタフィクションですし……
(「お姉ちゃん、この本、読んでないのかい?」などと、普通にシリーズ既刊&読者が、作品中に登場します)
コロボックルの「姉妹作」という『てのひら島はどこにある』だって、登場人物が「作中作」を空想しているメタ構造ですし。
『宇宙からきた缶詰』『机の上の仙人』などは、単なる連作短編ではなく、その連作の語り手が登場する、枠物語ですよね……
それはそれでおもしろければいいわけですが……
ただ、こうした枠物語やメタフィクションというのは、文学の形式としてはわりと古いもので。
『カンタベリー物語』にしても『ドン・キホーテ』にしても、近代文学・近代小説のルーツだとか父だとかなんかかんかいわれるような先駆的な作品≒古い作品。
なんなら、わが邦の『源氏物語』のなかで、いわゆる「雨夜の品定め」のくだりなどは、宮中の宿直で暇を持て余した公達が順繰りに自分の恋愛遍歴≒失敗談≒滑稽譚を語っていくという、一種の枠物語といってもいい形式になっていて、これなどは、つまり1000年前ですね。チョーサーどころではない古さです。
つまるところが、要するに、「小説」という形式があたりまえのものになる以前は、この語り手はいったいナニモノ?と……読者がわか、作者がわか、あるいは両方かはわかりませんが、どうしても気になってしまう、説明が求められてしまう、ということが往々にしてあったのかもしれませんし……
そうして気になって語り手の設定をつくりこんでしまったら、それはそれでメタレベルのネタに走りたい誘惑が強くなってしまって~なんてことも、あったりなかったり、しやすかったのかもしれません?
しかし、あんまり語り手にばかりこだわっていると、読者的にはイライラして、語り手なんかどーでもいい、さっさと本編(≒主人公)の話をすすめろ、ということにもなってくるわけで……「小説」という形式が普及するにつれて、語り手については、だんだん、「いわない約束」になっていったのかもしれません?
いずれにせよ、そうした小説というジャンルが確立されて久しい今になって(昭和になって)、佐藤さんのように、メタフィクションやら枠物語やらにとりくむというのは、いかにも「いまさら」でもあるわけです。
それでもあえて、そうするというのなら、そこには、相応の、理由とか、こだわりとか、何かあったのではないか。つまるところ、いまさらメタレベルから物語を構築するということは、物語とは何か、物語を物語るとはどういう行為か、説話行為というのはどいうことか、などという「そもそも」論を、いまさらむしかえし、あらためて自覚的に問い直すということにもなるのではないか、と、思うわけで……
やはり、どうにも、理屈っぽい作家さんでもあったのではないか、と、思ってしまったりもするわけです。
しかも、そんな理屈っぽい作業に取り組んだあげくが、理屈倒れにおわらずに、ちゃんとメタフィクションなコロボックルシリーズでヒットを飛ばしているのですから、佐藤さとるさんというのは、やはりどうもタダモノではない、とも、思うのです。
もちろん、その試行錯誤の過程で、失〇作なども生み出されてきたかもしれませんし、正直に言えば、当方などから見ても「アレとかアレとか〇作だよね」と思うものがないわけではありませんが……それもまたコロボックルに至る過程のなかでさけては通れなかった必然というか、その経験があったればこその終局の成功だったというか、おわりよければナントカのたぐいではなかったかとも思うわけです。
なので、当方自身の童話についても、たとえアレやコレやが目も当てられない〇作だったとしても、それはいつか書かれるであろう大傑作へいたる試行錯誤の過程でうみおとされた必然の云々以下略……あ、そういうのもういいですか、いいですね。はい。




