ベターハーフ
ここのところ父親だ母親だとさわいでますが……
人が父/母になるためには、生物的には子づくり、社会的には(最近は必須ではないかもしれませんが長年の慣習として)結婚が必要なわけでして。
東西の民話・昔話などでは、結婚エンドは常套ですし、難題求婚譚や異類婚姻譚など、結婚がらみのバリエーションは枚挙にいとまもありません。
もちろん、現代においても、一般文芸はいわずもがな。児童文学にさえ、結婚を扱ったものはしばしばあります。
"児童"文学といっていいのかどうか微妙かもしれませんが、『赤毛のアン』『若草物語』『大草原の小さな家』など何冊も続く大河物なら、途中経過として恋愛・結婚・出産イベントなど、ふつうに描かれますね。
もっとも、あまりに大河すぎると、他のイベントもいろいろ増えるわけで、全体の構成の中で、結婚のみのもつ特権性や意味性はやや薄れがちかもですが……
ここでもやはりほどよくわかりやすいのはエレナ・ポーター。
晩年の『スウ姉さん』も、結局最後は、男女の結婚というか恋愛成就でメデタシメデタシな、古典的かつ保守的な世界ですし(しかも相手の男は世界的な音楽家という名の「王子様」。ほぼほぼ乙女小説というかハー○クインな世界)。
有名な『少女パレアナ』もチルトン&パレーおばさんが結ばれますし、続編『パレアナの青春』はさらに輪をかけた結婚エンド。なんと三組同時という……メデタイがすぎてちょっとできすぎというか、やりすぎというか、すれすれでギャグみたいになっております。
(なお、パレアナシリーズは、別人の手による続編が何十冊も書かれているそうですが、エレナ・ポーター自身の手になるのは最初の二冊だけ。その他はすべて、訳者の村岡花子氏によって、翻訳紹介するに値しないと切って捨てられています。ので、本稿でも考慮しません。二作で完結)
このやりすぎ感は、むしろ幸福感を高めて、いっそ多幸感ともいうべき、祝福の雰囲気でエンディングをつつみこんでいるようです。すくなくとも、作者の意図はそうだったのかしら?というか……
当方など、三組の幸福な結婚というこのわざとらしいまでにメデタイ結末には、カーニヴァル的な祝祭空間で上演される演劇のような、儀式的・呪術的なもののこだまを、感じないでもありません。というか、感じてみたい誘惑にかられます。
つまるところ、こうした結婚エンドは、たんなる社会習慣や、近代的自我をもつ個人の恋愛の帰結とかいうだけではなく、神話的な――つまりキリスト教以前の――それだけに集合無意識的に普遍的なニュアンスをおびている……場合もあるのではないでしょうか。
プラトンの『饗宴』らしいですが(読んだはずですがおぼえてません汗)、いわゆるアンドロギュヌスの神話というのがあります。
もとは両性具有の完全体だった人間が、あるとき、ゼウスの怒りをかって二つに分割されてしまう。それが男女両性のはじまり。だから男と女は元の完全体にもどろうとして引きつけられる……というもの。
ここにおいて、結婚もまた、分割された両性の再結合による、完全性の回復、という意味をおびることになるでしょう。
なにしろ由緒正しい(?)神話的イメージなので、それを援用した文学作品はめずらしくないでしょう。
当方、その方面にはそれほどくわしくもありませんが……
それでも、スウィフトあたりにも両性具有への志向が見られるとか、ヘッセの『メルヒェン』収録の「ビクトルの変身」なども、男女の合一による完成という……結末はそんな感じだったよなー、とか、瞬間的に思いだすものはないわけでもありません。
こうしたベターハーフとの結合――いわゆる「完全なる結婚」?――へといたる過程をヒーローズ・ジャーニーにたとえることも、もちろん、可能かもしれません。
しかし、また別種の物語類型として見ることも可能かもしれないし、いろいろな角度から考えてみるのも、一興というところかと思います。
そういえば、ヒーローズ・ジャーニーの物語類型を、マンガ・ラノベ的な創作作法におとしこんだ立役者・大塚英志さんの本に、こんなことが書いてありました。
――――(引用ここから)――――
そもそも物語の文法の一番の基本は二つある、と考えて下さい。
一つは「欠落したものが回復する」というパターン。もう一つは「行って帰る」パターンです。
(大塚英志『ストーリーメーカー』第一章)
――――(引用ここまで)――――
ここでいう「欠落したものが回復する」というパターンに、アンドロギュヌスの神話を含めていいのか、当方ごときには断言まではできません……。
ただ、まあ、当方ごときの雑頭的には、やはり、アンドロギュヌスの神話もまた失われた半身を求めるという意味で、欠損をうめる話と言っていいのではないか、などとも、思うのです。
そういえば……
童話でもなければ児童文学でもなくて恐縮ですが、今は昔、押井守版の映画『GHOST IN THE SHELL』がビルボード一位だなんだと海外でヒットしたというのは、アクションだのメカだのサイバーパンクだのデジタル技術だの、ましてバセットハウンドだのいう話ではなくて……
ヒロインのメロウな自分探し(欠落感の解消欲求)が、これまた、結局のところ、結婚(人外とですが)の物語に帰着したこと。
深層においては、その一点にあるのではないかと……いう気がしないでもありません。いいすぎかしらというか、たぶんいいすぎなんでしょうけれど(笑
つまるところが、要するに、ことほどさように、みんな、ボーイ・ミーツ・ガール(ガール・ミーツ・ボーイでもガール・ミーツ・ガールでも、ボーイ・ミーツ・ボーイでもいいですが)好きよね、というか、王道よね……ということで。
あおげばとうとし勝手にわがココロの師匠・佐藤さとるさんなども、そういえば、わりとボーイ・ミーツ・ガールが好きな方でした。よね?
ただ、童話・児童文学の場合、子ども同士で大恋愛だの、まして性が云々など、やりにくいわけで……うまい回避方法を考える必要はあったかもしれません。
最初から大人同士の話にするほか、子ども主体の話の場合、そうですねぇ……あくまで萌芽的なものだったり初々しいハツコイだったりにするとか、いっそ下着メーカーやサニタリーメーカーあたりと組んで性教育モノにでもするとかという作家さんもいるかもですが(笑
佐藤さんの場合、大人になって結ばれる二人が実は子どものころに出会っていただとか、子どもたち自身ではなく、姉だの兄だのといった、その周辺の大人同士が結ばれるだとか……
そういうパターンが多かったような気がします。
だからといって、いわゆるラブコメやラブロマンスのように、結ばれるまでの過程に興味があるわけではなくて……
出会うべくして出会った二人が、ひかれあうべくしてひかれあって、結ばれるべくして結ばれて、すべては「当然」のなりゆきにすぎない、という……つねにトントン拍子の描かれ方ばかりだったような感触があります。
"本来"ひとつになるべき二人、という意味では、それこそ、アンドロギュヌスの遠い遠いこだまを聞き取ることも……できるなどといってしまうと、さすがにコジツケがすぎますかね?
しかし、まあ、自伝小説『コロボックルに出会うまで』が、典型というか、最たるもので……
――――(引用ここから)――――
四月の始業式当日、その横山愛という女教師に会った馨は、そうか、この人なんだ、と悟った。この人が自分の伴侶になる人だと、一瞬で理解した。そしてなぜか、相手もまったく同じことを考えている、というのが同時にわかった。
(佐藤さとる『コロボックルに出会うまで 自伝小説サットルと『豆の木』』)
――――(引用ここまで)――――
佐藤さんといえば「ファンタジー童話」でならした先生ですが……ファンタジーというなら、そんじょそこらの童話より、これがいちばんファンタジーかもしれません?




