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童話についてアレコレ  作者: 七瀬みる


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29/30

父親死亡率

 前回の末尾で、往年の名作劇場の父親死亡率の高さについて、冗談めかしてふれておきましたが……


 この連載の初期に、佐藤さとるさんのいう「二種類のおもしろさ」の一方には、それこそ名作劇場的な作品がわりと多く含まれているらしいことに、ふれておきました。


 なので、すべては無理ですが、いくつかの作品については、アニメ版をみてみたり、原作を読んでみたり……たまに、しています。

 そうしてみると――最近、当方のアンテナが父性方面に向かっているらしいことともあいまって――この父親死亡率も、たんなる冗談ネタではないような気がしてこないこともありません。


 とりあえず、いくつかの作品について、主人公の両親の生死を思いだしてみると……


『ハイジ』――父母死亡。

『小公子』――父死亡、母生存。

『小公女』――父母死亡。

『家なき娘』――父母死亡。

『家なき子』――父死亡、母生存。

『少女パレアナ』――父母死亡。

『赤毛のアン』――父母死亡。


 わりと母親も亡くなってますね。

 それでも、父親にくらべればまだしも生残性が高いですが……


 しかし、たとえば『家なき子』の場合、実父母以前に、養父母が存在するので、ちょっと例外かもしれません。

 またアニメのほうで有名な『母をたずねて三千里』などは、両親ともに健在らしいですが、原作が短編とのことで、長編原作の他の作品と比べると、やはり例外でしょうか。


 ただ、例外も含めてみてみれば、これら、時期も国籍もバラバラの作者たちが、こぞってやりたがっているのは、要するに、「孤児」の物語なのだな、とは、思えてきます。

 そうなると、思いだされるのは、先だってブラッドショーの『インナーチャイルド』で紹介されていた、「捨て子」が「神の子」になる、という、神話的モチーフではないでしょうか。


 孤児がさまざまな苦難を経て最終的に幸福を手に入れるという、名作劇場的作品によくある(※すべてではない)パターンというのは、それこそ、比喩的に、捨て子が神の子になる物語、と、重なってきます。


 そして、これら、欧米の文学作品にかんして、神の子を云々するのであれば、当然に、聖書的な観念が影響してくるわけでしょう。

 すると、これまた当然ですが……

 設定上は抹殺されていたはずの「父」という観念が、あらためて、より普遍的な一般的な崇高な(?)モチーフとして、再浮上してくることにもなるかもしれません。


 ストレートにわかりやすいのは、『少女パレアナ』でしょう。

 パレアナの「喜びの遊び(アニメだと「よかったさがし」)」は父親に教えられたものですし、その父親がその遊びを着想したそもそものルーツは聖書です。

 聖書の中には喜びの表現がこれほどたくさんある、という、亡き父の感激が事の発端。

 しかも、パレアナからそのエピソードをきいて感銘を受けるのが、ベルディングスビルの神父であるというオマケつき。

 父親は原作開始時点ですでに死亡していますが(アニメでは生前のエピソードがオリジナルで追加されていますが)、父の不在にもかかわらず、むしろ、かえってその不在ゆえに「父」なる観念の存在感が強まっているのが、『少女パレアナ』という作品ではなかったかと。

 

 そういえば『ハイジ』なども、アニメではどうだったかわかりませんが、すくなくとも原作だと、聖書の放蕩息子の物語が、かなりのウェイトを占めていたりもしますね。まさに父と子です。

 実は原作では聖書への言及が~などという例は、あるいは上記のほかの一連の作品にも、たくさんあるのかもしれません?

 元が多神教だからか、河合隼雄いわく母性社会だからか、製作者が社会主義でユイブツ論だかなんだかいってしまうからか……存じませんが。

 せっかくの名作児童文学が、日本でアニメ化などされるとき、こうした宗教性や思想性がおおはばにスポイルされてしまうことが、もしもままあるとすれば、場合によってはいかがなものか、という気もしないではありません(当方のゲスな勘ぐりならそれでよいですが)。


 ちなみに、上のリストには入りませんが、米国などの場合、やはり名作劇場でアニメ化されたこともある『若草物語』のように一応父親が生存していたり、海外ドラマで有名な『大草原の小さな家』のように死亡どころかパパ大活躍な作品も多いわけで……パレアナ含めて、やっぱりお国柄の影響もあるのかしらん、という気はしないでもありません?

(父親云々といえば、先だっての『走れ!白いオオカミ』だってアメリカ産なわけですし)


 さらにもう一つ。


 名作劇場方面の作品で、孤児が「神の子」になる作品といえば、『フランダースの犬』などは、文字通り神に召されるエンディング。

 日本では単純に泣ける悲劇≒バッドエンドと思われがちかもしれない、ああいうエンディングも(これについては原作未読なので自信をもって断言はできませんが)、キリスト教的な観念を考慮に入れれば、決してバッドエンドではない、それどころかむしろ超絶メデタイ最強のハッピーエンド――などという可能性も、もしかすると、あるのかもしれません?


 未読の『フランダース』はおいておくとしても……

 実際、それ以外にも、たとえば、日本では単なる悲劇と思われがちな、アンデルセンのいくつかの作品など、原作を読んでみると、キリスト教的な観念による、メデタシメデタシのハッピーエンドになっているケースは、思いのほか多く……おどろきというか、異教徒目線では違和感すら感じることがしばしばです。

 どれくらいメデタシメデタシかといえば、それはもう、『イデオン』の発動篇くらいメデタかったり、『ナルニア』最終巻の全滅エンドくらいメデタシメデタシだったり……それくらいですよねえ>アンデルセン。

「人魚姫」の原作ラストがあんなだとか……大人になって読んでみるまで知りませんでしたわ(これはさすがに改作者よくやった、という気もしますけどね、異教徒的には)。


『フランダース~』の昇天エンドだって、もしかしてその方面の可能性はあるのかも……と、思えば、やっぱり読まないといけませんかねぇ。気がめいりそうなんで後回しにしてるんですが(笑


 あとは……

 

 また、父なる神……にまでいかないにしても、死んだ父親のかわりに父親的な立場の人物に出会って幸せになる、というのも、名作劇場的な作品によくあるひとつのパターンなわけで……

(もちろん、母親的な存在が付属している場合もありますが、比重のかけ方は、さて?)

『ハイジ』なら、祖父、ゼーゼマン、医者など、父性的人物が三人もそろっていますし。

『パレアナ』ならチルトン、ペンデルトンの二人(チルトンは続編で雑に「処理」されますが…作者、鬼か)。

『家なき娘』は祖父。

『小公子』も祖父。

『小公女』なら父の友人?

『赤毛のアン』……はマシュー? まあ、これはまた亡くなりますし、そもそもこれにかんしては、マリラのほうが存在感が強いので例外かもしれませんが(そういえば教師も先任の男性より後任の女性、教会関係も牧師より牧師夫人のほうが目立ってましたっけ? これももしやカナダのお国柄…ってことはないですかそーですか)。

(ちなみに、余談ですが、『アン』の派生作品『こんにちはアン』などは、さらにすさまじく、アンを引き取った一家の男親は二人とも死にますね。マシューをいれたら三人連続。これもう死神アンだろうというか、父親的な存在への殺意が高すぎるんじゃないでしょうかしらん。唯一、アンを引き取らなかったエッグマンだけは生き残りますが……逆に一種の神回避だろうというか、万一引き取っていたら~と、かえってジンクスを強化している感さえあります笑)


 括弧内でちょっと話がずれましたが……


 つまるところ、要するに。同じく父親の存在抹消とはいっても、未成年の子どもをひとり残して海外へ行ってしまう日本のマンガ・アニメ・ラノベ的父親が、往々にして、存在感のカケラも残さず文字通り消失してしまうのとはちがって、欧米の児童文学の場合、たとえ産みの父親が一時的に姿を消したとしても、「父なるもの」の観念が決して消滅するわけではなく、むしろかえって濃厚に存在を主張することさえある、という……どうもそういうことのような気がしないでもない今日この頃なわけです。錯覚かもしれませんが。


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