正当な「怒り」
前回、さらっと「共感可能な負の感情」とか口走りましたが、この「共感可能性」はどこからくるのでしょうね。
その負の感情が共感可能であるとするなら――「わかるわかる」「うんうん」「そうだよねー」といいたくなるとするなら――
つまるところ、その負の感情に正当性を認めている――妥当な正当な負の感情、というものが存在すると、読者が認めている――ことになるのではないでしょうか。
しかしながら、そうした「正当性」は、ふだん、そうたやすく承認されるものでしょうか。
負の感情の正当性どころか、その存在そのものを否定・否認・処罰する、偽善的なシステムが、子どもの世界にも――子どもが大人の鏡だとすれば先行する大人の世界にも――存在しているのではないか。
その否認そのものが、また、負の感情を生み出し、増幅し、行き場のないドンづまりへ、子どもを――かつて子どもだった大人をも――追いつめていくのではないのか。
……などと、思ったりしないでもありません。
実際、他者の悪意・悪事にたいして正当な怒り(≒負の感情)を表出したら、表出したほうが悪者にされてしまった、などという事態は――大人の世界でも、子どもの世界でも――とくに珍しい現象でもないでしょう。
所詮は、要領のいいウソツキが得をする世界。被害者コスプレこそが現代の正義。
童話を書くようになって以来、臨床心理士の大河原美以さんの本を何冊か読んでいますが……そのなかに、いわゆる「キレる」子どもについて、学校その他における問題解決アプローチが逆に問題を増幅するシステムと化す場合があるという指摘がありました。
その作用パターンのひとつが、「正当な怒り」を、システムが処理できないケース、だったかと。
――――(引用ここから)――――
「怒り」の問題を考えるとき、正当な理由による正当な「怒り」というものがあるということをおさえておくことは大変重要です。私が「怒りをコントロールできない子ども」ということで相談を受けた事例のうち、約四分の一くらいの事例は、子どもの正当な「怒り」に対して不適切な対応がなされることで問題が増幅している事例でした。
(大河原美以『怒りをコントロールできない子の理解と援助』より)
――――(引用ここまで)――――
前回ふれた那須正幹さんの『ぼくらは海へ』の子どもたちや、なんでしたら『ズッコケ(秘)大作戦』のマコがかかえていた「爆弾」の根底にも、こうした、不適切な対応をくりかえされてきた正当な「怒り」に類したものがある……と想定してみると、それなりの解釈可能性がひらけてくるような気がしないでもありません。
やはり大河原さんの著書はなかなかおもしろい……ですが。
ただ、いつも思うことですが、「(負の)感情の社会化」に立脚した、大河原さんの理解・解説、それ自体は秀逸ながら、その一方で、教育現場での解決篇については、オキレイゴトすぎて実感がいまいちと感じることもしばしばです。
それは、まあ、当方自身が、子ども時代にはかなりの「困った子」だったので、教師のアプローチの逆効果ぶり、くりかえされた「不適切な対応」にたいする不信と怒りにこりかたまっているせいかもしれませんが……
前掲書第九章の教職者座談会など読んでいると、いい気なもんだというか、なに様のつもりだというか、それこそ「怒り」がわいてこないこともありません(当方の「自我状態」がスイッチしているのかもしれませんが)。
所詮、したり顔のキョーイク者さま自身が問題増幅システムの一部にすぎないのではないか。
システムの問題というのは、個人の善意でどうこうなるものではないのではないか。
むしろその「善意」こそが、問題をつくりだす根源ではないのか。
むきだしの悪意がつねに正しいわけでもありませんが……
問題をつくり出している当事者が、問題を「解決」すると詐称する、主観的な善意。「地獄への道は善意で舗装されている」という、その「舗装」……
それは、単なる消極的な不作為ではなく、むしろ積極的に子どもたちを壊しつづけてさえいるのではないか?などと、思ってしまったりも、するのです。
……。
…………。
……などと、意味不明の脳内供述をくりかえしていたところ。
ふと、なにげなく、ひさしぶりに手に取ってみた河合隼雄に、次の一節があるのを見つけました。
――――(引用ここから)――――
教育熱心な親や教師の無自覚な行為が、子どもたちの悪を誘発したり、子どもを傷つけたりする。こんなときも、表面的に見る限りは、大人は善で、子どもは悪、という構図がすぐできあがるので、大人は自ら反省するよりも、子どもを攻撃ばかりするので、悪循環が生じてしまう。
(河合隼雄『子どもと悪』より)
――――(引用ここまで)――――
やっぱり、思うところはみな同じ……なのですかね?




