英国ダメパパ伝説
ドロシー・エドワーズの「きかんぼのちいちゃいいもうと」シリーズは、とりあえずいもうとちゃんがかわいい。あーもうかわいい。はいかわいい。かわいいしかない。という感じで……
かつ、登場する大人もみんな(ほとんど)善人ばかりで、たいへんに癒され、ほっこりする、幼年童話のお手本みたいなシリーズだと思いますが。
しかしながら、上でこっそりわざわざ「ほとんど」と補っておいたように、例外的に一人だけ、ダメな大人が登場します。
だれあろう、いもうとちゃんの父親だってんだから、びっくりですが……
すでに第一巻の時点で――前々回「どんぐりのうえかた」でさらっとかるくふれておいたように――花壇をだいなしにされて怒るわけですが、その怒りかたが、もうすでに大人げないことこの上もない。
パパはお花を植えるんだもんね、おまえのどんぐりなんかぜえったいうえさせてあげないんだからねっ――的なノリで、幼い娘と同レベルではりあっております。
英国の父親といえば、当方などがぱっと思いだすところで『ピーター・パンとウェンディ』のダーリング氏なども、すこぶるつきで幼稚な人物として描かれていましたが、それは、もとより、世界観自体が、「母親と息子」しか存在しない風刺的なもので、ダーリング氏の造形も、極端にカリカチュアライズされた確信犯の戯画であろう……と思っていたのですが。
それよりはるかにリアリティレベルの高い、いもうとちゃんシリーズで、かくも幼稚な子どもっぽい父親があたりまえのように登場すると、いやさ、ダーリング氏もじつはカリカチュアでもなんでもなく、エイコクシンシの本性というのは実はあのていどなんではないかと……思わず疑ってしまいそうです(笑
しかも、この第一巻のどんぐり事件のときは、まだマシなのですよね。
このパパさんがその本領を発揮するのは、第三巻収録の「おとうさんとおるすばん」
タイトルのとおり、いもうとちゃんとパパさんが二人きりで留守番する話ですが……
このパパさん、幼い娘をひとりでほったらかしにして、自分は仕事をしようとするのですね。いもうとちゃんは、いっしょうけんめい、ジャマをしないようにけなげに頑張るのですが……なにしろ幼い子のやることなので、むりがある。
そのたび仕事を邪魔されたと、このパパさんは激怒してキレちらかすわけで。さすがにそうなるといもうとちゃんも怒って泣いてさわぎだすわけですが、こっちは幼児なんだからあたりまえでしょう。それに対して大人げないパパさんはさらに烈火のごとく激怒して……というスパイラルに陥っていきます。
まあ、ある意味、リアルといえばリアルかもしれませんが……それにしてもこのパパさんの場合は、あまりに読者のヘイトを煽りすぎというか、「べからず集」がすぎるにもほどがあります。
執筆当時(1950年代)は、これが一種のユーモアとして読者に受けいれられていたのでしょうか?
――――(引用ここから)――――
でもおとうさんは、水をたのまれることなどちっともよろこびませんでした。おとうさんは、「うるさいな!」といいました。
(中略)
おこりっぽいおとうさんは、「ロージー・プリムローズなどほっときなさい!」と、おこっていいました。
ちいちゃいいもうとが、ロージー・プリムローズのはこをおもちゃとだなにもどしてきてとたのむと、おとうさんは、もっときげんがわるくなって、もっとひどいことをいうようになりました。
「またぼろくず人形のようじか?」
そういっておとうさんは、ロージー・プリムローズをとりあげて、はこの中に入れてしまい、本だなの、いちばん上におきました。もうしらんぞということをはっきりみせたかったからです。
(中略)
わたしのおとうさんもがんこでした。おとうさんは、テーブルといすとペンや紙を家の中にはこんで、自分のしょさいにこもってしまいました。「おまえは、おとなしくなるまでそとにいなさい!」と、いもうとにいいました。
(中略)
いもうとは、それから一度だけ、しょさいをのぞきました。
けれどもおとうさんは、「むこうへいってくれ、たのむから。」といいました。
そういっておとうさんは、いつまでもかきものをつづけました。
(ドロシー・エドワーズ『きかんぼのちいちゃいいもうと その3 いたずらハリー』より)
――――(引用ここまで)――――
子どもが大事にしている人形を(実際、ぼろぼろな設定ですが、その理由については別のエピソードでしっかり描かれていたりします)、「ぼろくず人形」とか口に出して言ってしまう時点で、親権者失格でいいというかなんというか。
いいかげん気分が悪くなってきたので引用はこのくらいにしておきますが……
けっきょく、このパパさん、娘をほったらかしにして、昼食を食べさせるのも忘れて、そのときには、近所のやさしいおじさんのところへ、いもうとちゃんは家出してしまっているという始末。
幼い娘をひとりであそばせて、それをいいことに仕事(書き物)に没頭して、食事を食べさせるのも忘れて、そのあいだに、娘が行方不明になっている――というのは、有名なところでは、ジブリ映画『となりのトトロ』などでもあった展開ですが。
トトロの草壁父は基本的にいい父親で、ただし浮世離れした研究者肌なので「ついうっかり」という感じの描かれ方。観客の反感をかわないようにはしてあったと思いますが……
平和な昭和の農村で、「隣人」が善意のイキモノだったからよかったようなものの、令和の都会であんなうっかり失踪事件を起こしたら、生還の保証はないですよ?くらいにはヤバイ「うっかり」だった気はしないでもありません。
もちろん、幼児の父親というのは、若い父親ということでもあって、未熟なのはむしろ当然。
カンペキな育児など誰にも不可能。欠点のない人間などいない。むしろ欠点描写は人間らしさの描写であってすこぶるよろしい――とは、草壁パパの場合は、いえるんですが、それにも限度っちゅーもんがあるやろゴルア、と、いいたくなるのが、いもうとちゃんパパのほう、なわけです。
エドワーズがどういう意図でこれほどまでのキレ散らかし方をする父親を描いたのか。執筆当時(1950年代)の英国の父親なんぞというものは実際にこのレベルで育児に無知かつ無能だったのか、子育てに非協力的なオトコどもに対するエドワーズ自身の私怨でもこもっていたのか、当時はこれが「笑える」レベルのカリカチュアだったのか……どうなのでしょうね。
たんに英国人のギャグセンス、ブラックユーモアというだけであって、気にするほどのことではない、のでしょうか?
ジェームズ・バリーのダーリング氏の件とあわせて、英国児童文学における父親像について、思わず考え込んでしまいそうになるところであります。
ちなみに……
基本、かわいいと善意にみちあふれた、いもうとちゃんシリーズですが、この第三巻には、パパさんのほかに、もうひとり、否定的な描かれ方をするキャラクターが登場します。
「おぎょうぎのいいお客さま」のウイニー。
人形みたいにしずかなおぎょうぎのいい子、ですが……それこそ、以前、このエッセイの「天使の抑圧」でふれたような「いい子の病理」を予感させる、ぞっとする描かれ方をしています。
そして、最後が、
――――(引用ここから)――――
「あたしは、あんなしずかな子でなくてよかった。」
すると、おかあさんがいいました。
「まあそうよね。あなたみたいのもわるくはないわね。」って。
(ドロシー・エドワーズ『きかんぼのちいちゃいいもうと その3 いたずらハリー』より)
―――(引用ここまで)――――
というのですから、ウイニーにたいする、完全な「ダメ出し」。
ウイニーをサゲることで、いもうとちゃんをアゲているともいえるわけで、これもかなりの問題作かな?と思うわけです。
ウイニーのような「いい子」にしても、パパさんのようなダメ父にしても、作者のドロシー・エドワーズ自身は、けっして肯定的に描いているわけではありません。ちゃんとマトモな育児観をもっていそうです。
そのうえで、なお、こうしたある種の「黒さ」もちゃんとふまえている、のであるならば……
それこそ、たんなるお花畑ではない、さすがの作家、というべきなのかもしれません?
光をえがくためには、影についてもしらなければならない。
……のかどうかは、知りませんが。




