センスオブワンダー
センスオブワンダーというと、いまでは、レイチェル・カーソンの書名のほうが通りがいいかもしれません。
が、当方などがこのコトバをはじめて目にしたのは、SF方面の本か何かでした。
すこし上の世代のSF者が、SFの魅力を人さまに説明するときに、よくつかっていたコトバだったのだとか。
そこでかならずといっていいほどつけくわえられる説明が、「十二歳の子どもが理科の実験をみているとき」のワクワクしたキモチ、とか、なにか、そんなふうな表現でした。
なるほど。
わかる人にはわかる感覚かもしれません。
ちなみに、当方がそんなワクワクをはじめておぼえたのは、十二歳になる、二、三年は、前だった気がします。
そのころ、図書館で借りたジュール・ヴェルヌ『海底二万海里』の分厚い完訳版(後にネットストアで調べたところ背表紙の厚さ4.5cmだったようです)を読破したのが、ひそかな自慢だった当方ですが……
それよりなにより、前回もふれた、椋鳩十にハマっていた時期で、氏の「古巣」という短編などは、まさに、当方にとってのセンスオブワンダー事始め、だった気がします。
――――(引用ここから)――――
「太郎、なにをしているのだい。」
と、わたしは縁側から声をかけました。
「アリを飼うのです。おとうさんもてつだってください」
「よしよし」
椋鳩十「片耳の大シカ」(ポプラ社文庫 A 5)より
――――(引用ここまで)――――
子どもが、アリの奇妙な行動に気づいて……
飼って観察するんだといいだして……
おとうさんが、いっしょになって「お昼を食べてからひとつ、実験してみよう」なんて、いってくれる、まさに「理科の実験」そのまんまというか、これ、もう『学〇の科学』か何かだろうという、そんな名編。
こういう「童話」もあるんだよなあ……
監修:ガ〇レオ工房か何かで、だれか、もっと書かないかなあ……
などと思ったり思わなかったりするわけです。
ちなみに、エリクソンのライフサイクル論によると、4~7歳くらいの子どもというのは、やんちゃなさかりで、泥汚れや膝小僧のすりむきやら、なにやらかんやらで親御さんの手を焼かせる時期だそうですが(その時期だけでもない気もしますが)……
そんなふうに泥んこになって、子どもは、何をしようとしているのか。
自分や外界を――それこそ科学者のように――探求しているのだ、と、エリクソン界隈(ピアジェ界隈?)ではいうようです。
――――(引用ここから)――――
すなわち、子どもは昨日は登れたけれども、雨上がりの斜面になると滑って転がってしまい登れなくなってしまう。洋服を汚してしまう。晴れて、乾いている時なら僕は登れるんだということを何回も成功したり失敗したりしているうちに理解していくわけですね。登れる時と、登れない時というのは、斜面にどういう性質があるのか、あるいはどのくらいの勾配だとどうなるのかと、どれくらいの川や溝なら飛び越せて、どのくらいの時に落っこちてしまうのかというようなこと等々でありますが、大人から見れば一見、わかりきっていて、ろくでもないことであります。ところが、それを何度も何度も繰り返して、環境や対象物の性質、同時に自分の体力、知力、能力というようなものを確認していくわけです。それは科学者が新たな真理を究めていく行為と質的には全く同じだということをピアジェは言っているのです。
佐々木正美「子どもの心はどう育つのか」(ポプラ新書 さ 15-1)より
――――(引用ここまで)――――
もしそれが本当なら、センスオブワンダーは、なにも、十二歳の専売特許ではない。
むしろ、理科の実験にわくわくできる十二歳に育つためには、もっとちいさいころのわくわくを大事にしろ、ということにでも、なるのかもしれません?
だとしたら、そこで、”センスオブワンダーな童話”のようなものが提供できれば、もしかして何らか(当方にとってのヴェルヌや椋鳩十のような)役に立つ局面も、ありうるんじゃないかと思ったり思わなかったりもするわけで……
だれか素養のある人、椋鳩十みたいなの、もっと書いてくだされ、などとも思うわけです(当方にドーブツ方面の素養があればねぇ……泣)




