第9話「“相変わらず”の意味」
「……それじゃあ、失礼いたします」
大田教授に注文されていた古書三冊を包んだ風呂敷を机に置いて、遥は深々と頭を下げた。
重たい木の扉の向こうから、賑やかな学生たちの声が聞こえてくる。
ふと、エレベーターの前で立ち止まり、遥は周囲を見渡した。
(……そういえば、ここって……)
掲示板の上に貼られた文学部日本文学科の教授紹介。
その一角に「朝倉光哉」の名前と、柔らかい微笑みの写真が掲げられていた。
(そうだった。朝倉先生、ここの大学に勤めていらっしゃるのよね)
少しだけ胸の内がざわつく。
ここ数日、彼から数回メッセージが届いていた。
こういう文献は、店にあるかどうかと尋ねるものだったり、
この書籍が面白いから読んでみるといいというものだったり
文面は落ち着いていて、丁寧で、
それでいて関係性を前に進めようとするそんな熱を帯びていた。
遥はそれに返信することができなかった。
ただ、常連のお客様に返信するだけだと思っても、そう割り切れない。
もうこれ以上心が乱されるのが嫌だった。
エレベーターを降り、歩き始めた廊下の先。
講義の終わりだろうか、教室の前には数人の女子学生たちの姿が見えた。
そしてその中心にいるのは――朝倉だった。
驚いて足を止める。
女子学生たちは彼を囲んで、熱心に何かを話している。
朝倉は笑顔を崩さず、けれど過度に関わろうとはせず、どこか線を引いているようにも見えた。
「ん? 朝倉くんのこと、気になるのかい?」
突然、横から声をかけられ、遥は肩をびくりと震わせた。
振り返ると、大田教授がにやにやしながら覗き込んでいた。
「彼はね、うちでもちょっとした有名人なんだよ。
容姿端麗、穏やかで礼儀正しく、研究熱心。……ま、女子学生が放っておくわけがないよな」
「……そうなんですか」
「でもさ、彼ね、誰から言い寄られてもまるで興味を示さないんだよ。
先生方の間でも、あれだけモテて何もないって逆にストイックすぎるって噂さ」
教授と別れたあと、遥はキャンパス内を歩きながら、先ほどの光景を思い返していた。
(昔と変わらない。あの時代も、彼はそうだった)
聡明で美しく、堂々としていて人の心を惹きつける魅力。
ふと、前方から歩いてくる女子学生たちの声が耳に入る。
「今日も朝倉先生、かっこよかったよね〜」
「声とか話し方も上品だし、マジで推せる」
「彼女いるのかなあ。教授とか先輩とかも気にしてそうだよね」
「36歳だったっけ?結婚していてもおかしくないけど、プライベートは謎だもんね。」
遥は、苦笑してしまった。
「……相変わらず、女性に人気があるのね」
「――“相変わらず”って、どういう意味?」
突然、すぐ後ろから声がして、遥は心臓が跳ねるのを感じた。
振り返ると、朝倉が立っていた。
いつものように穏やかな笑みを浮かべながらも、瞳はじっと遥を見つめていた。
「え、あ……い、いえ、その……」
「 “相変わらず”って、まるで……以前から僕のことを知っていたみたいだ」
その言葉に、遥は一瞬、息を呑んだ。
だがすぐに笑ってごまかすように視線を逸らした。
「深い意味はありません。朝倉先生はきっと女学生にも人気があると思っていたから」
「……そう、ですか」
朝倉はそれ以上追及しなかった。
けれど、(――やっぱり、君も覚えているんじゃないか)胸の中で確信した。
(俺と君は――やっぱり、あの時代から繋がっている)
「では、これで失礼します。」
「……まだ少し時間、大丈夫ですか?」
遥が歩き出そうとしたとき、朝倉が声をかけた。
「近くに、落ち着けるカフェがあるんです。もしよかったら……少しだけ、コーヒーでも」
ごく自然な誘い方だった。
けれど、遥はその言葉に、わずかに目を伏せて、首を横に振った。
「すみません。今日は……この後、用事があって」
「……そうですか」
それだけ答えると、遥は小さく頭を下げ、歩き出した。
その背中に、朝倉は言葉をかけることなく、ただじっと見送った。
(10話に続く)
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