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第4話:揺れる心、交差する視線

翌週の午後、春霞が町を包んでいた。

暖かくなり始めた空気が路地を撫で、花の香りを連れてくる。

遥は店の帳簿を閉じながら、ふとため息をついた。

あの日から、朝倉の姿が脳裏から離れなかった。

――会ってしまった。

彼の目を見たとき、あの頃の記憶が胸を締めつけた。

かつて、すべてを捧げた人。  けれど、彼が見ていたのは私ではなく、別の人の影だった。

なのに私は、それでも彼を――

「遥」

背後からかけられた声に、遥ははっと振り返った。

「新藤先輩?」

古書の買い取りについて連絡をくれていた出版社の編集者、新藤亮が立っていた。

スーツ姿に気取らない笑顔、そしてまっすぐな瞳。  彼とは大学時代の文学ゼミが同じで、先輩後輩の関係だった。

「久しぶり。突然ごめん。近くに来たから、顔見に寄ってみた」

「ううん、ありがとう。元気そうでよかった」

カウンターの中で微笑む遥の頬が、わずかに緩む。

新藤は棚に視線を移しながら、ふと振り返った。

「変わってないな、遥。雰囲気は大人っぽくなったけど、やっぱり本に囲まれてるのが似合ってる」

「そんなことないですよ……でも、ここがあるから、私は何とかやっていけています」

新藤は頷きながら、静かに彼女を見つめた。

(やっぱり綺麗だな、遥は……)

大学時代から、ずっとそう思っていた。  目立つタイプではなかったが、その穏やかで芯のある空気が好きだった。  けれど、言えなかった。告白して、今の関係すら壊れるのが怖かった。

(今なら、どうだろう。あの時より、少しは自分も大人になれた。   ちゃんと向き合えるだろうか……彼女の隣に立ちたいと、そう願っても)

「……大学の頃、ゼミで話してた時、遥の話し方や文章にずっと惹かれてたんだよ」

遥は驚いて視線を上げる。

「先輩……」

「いや、変な意味じゃなくて。今も、あの頃と変わらず、ちゃんと自分の言葉で人の心を動かしてるんだなって。……なんか、それが嬉しかった」

彼の声音は静かで誠実だった。

けれどそれ以上の言葉は続かない。  お互いに、その距離感を崩さずにきた年月がある。

その時――ガラス戸のベルが鳴った。

「失礼します……」

現れたのは、朝倉光哉だった。

今日もまた、整った顔立ちに穏やかな微笑み。  だが、その目が新藤と遥を見たとたん、一瞬わずかに揺れた。

遥と親しげに話す男。その距離の近さ。  笑う遥の横顔。

新藤に向けていた遥の優しいまなざしが、朝倉の嫉妬の炎に油を注ぐ。

胸の奥がざわめき、灼けるように熱くなる。

(この感情は……何だ?)

(まさか、この男は恋人なのか?彼女を忘れられずに、いつかまた巡り合えるのを待っていたのは俺だけなのか?)

喉がひりつくようだった。  理性では抑えきれない、荒々しい感情が込み上げてくる。

血の気が引くのと同時に、心臓が荒く打ち始めた。

たしかに、彼女には自分の知らない時間がある。私たちは再会したばかりだ。彼女に前世の記憶があるのかも私が光源氏の生まれ変わりだと気が付いているのかも定かではない。  

だが、それでもこみ上げてくる嫉妬心を抑えることが出来ない。

「……朝倉先生?」

遥の声がわずかに戸惑う。

「こんにちは。前に教えていただいた注釈書、今日の午後取りに伺ってもいいと言われていたので……」

「あ……はい、少々お待ちください。」

遥が書棚の奥から本を出してきている間、朝倉は無言で新藤に会釈をした。

新藤もそれに応えたが、どこか牽制するような空気が漂った。

新藤は、自分の中に小さな警戒心が芽生えるのを感じた。(……遥の視線が、少し違った。彼女の心が、揺れていた)

遥が戻ってくると、朝倉はやわらかく微笑んで言った。

「素敵なお店ですね。昔、こういう穏やかで静かな空気の中で、大切な本を読んでいた記憶があります」

「そう……ですか」

遥は、どこかぎこちなく答える。

その視線は、わずかに新藤と朝倉の間を行き来していた。

「では、また伺います」

朝倉はそう言って立ち去ったが、扉を出た瞬間、深く息をついた。

胸が焼けるように熱い。  喉の奥に、黒い煙のような嫉妬が渦巻いている。

――自分は、かつて紫の上に同じような苦しみを与えていたのだ。

紫の上が、私の女としての座を守りながら、どれほど苦しんでいたか。今、ようやく分かった。

彼女が自分を見つめてくれていた間に、どれだけ他の女の影をちらつかせ、心をかき乱してきたか。

それが、今この瞬間、身をもってわかる。

紫の上が、何を思い、どんなに孤独だったか。  その傷が、今になって自分の中で再生されている。

(彼女には彼女の人生がある。あの頃のように、自分の思いだけで踏み込んではいけない)

彼女の笑顔は、もう俺のものではない。もう彼女は紫の上ではなく、遥として今を生きている。

もし今、彼女が幸せなら――それを壊す権利など、俺にはない。

けれど、それでも。

君に伝えたい。  かつて俺が惹かれたのは、誰かの面影ではなく。  君自身の素質、優しさ、聡明さ、人としての美しさだったと。

今度こそ、ただそのことだけを伝えたい。

(→第5話へつづく)


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