第3話:その声に、あの名残 光哉視点
扉をくぐった瞬間、空気が変わった。湿った紙と木の匂い、光の角度、棚に並ぶ本たち。
初めて来たはずの場所なのに、懐かしさが胸の奥を強く押し上げてくる。
“ここに、彼女がいる”
そう確信した瞬間、朝倉光哉は言葉を失っていた。
視線の先に、ひとりの美しい女性がいた。 黒髪を低く結び、淡い色のカーディガンを羽織っている。派手さはないが、その立ち姿はどこか気品があり、柔らかい光を纏っていた。
ゆっくりと彼女がこちらを振り返ったとき。
心臓が止まるかと思った。
――紫の上だ。
確信ではなく、感覚。 魂が先に応えていた。
「……朝倉、光哉です。大学で平安文学を教えていて。偶然、この書店の噂を耳にして……」
ようやく言葉を発すると、彼女は微笑んだ。
その笑顔は、今のものなのに、かつてのものでもあった。
――なぜ、今になって出会った?
千年近い時を経て、また巡り会うなんて、そんなことがあっていいのか。
だが、確かに彼女はここにいる。
紫の上が、遥という名前で、目の前にいる。
朝倉は、掌の奥にひっそりと痛みを感じていた。
思い出す。 かつて彼女に、どれほどの寂しさを背負わせたかを。 彼女のすべてを奪いながら、なお他の女たちに心を向けていた自分を。
――あの時、私は彼女を藤壺の面影として引き取った。
愛しいと感じたのは、その中に“あの方”の面影を見たからだった。
だが……月日が経つうちに、気づいたのだ。
彼女はもう、誰の代わりでもなかった。 優しさも、気高さも、哀しみに耐えるその姿も。
本当に愛していた。
けれど、その思いを伝える前に、彼女は逝ってしまった。
言葉にすることも、謝ることも、できなかった。
だから今世で、ようやくまた巡り会えたのなら、今度こそ伝えたい。
“誰よりも、おまえを愛していた”と。
その一言だけでも、伝える機会が欲しい。
彼女は今、どんな思いで再会を受け止めているのだろう。
彼女は気づいているのだろうか。 気づいて、そして隠しているのだろうか。
遥は、静かに笑った。
でもその笑顔は、何かを堰き止めているようで、どこか触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だった。
過去の罪は消えない。
けれど――今の彼女を、傷つけずに見つめることなら、できるかもしれない。
「……源氏物語に関する古書、もしお探しでしたら、いくつかございます」
彼女がそう言ったとき、朝倉の胸に、ひとつ小さな灯がともった気がした。
赦されたいわけじゃない。 けれど、今度こそ彼女の隣に、彼女を“遥”として愛しながら、立つことができたなら。
――君に、赦してほしいなんて思っていない。 ――けれど、もう一度だけ、君の隣に立つことができたなら。
過去を償うためにではなく、今の彼女を、ただ見つめるために。
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