第2話「再会は静かに始まる」
「大学で平安文学を教えています。今日はこちらのお店の話を大田教授から聞いて……落ち着いた雰囲気ですね」
朝倉光哉は、店内をぐるりと見渡してから、静かに微笑んだ。
遥は、その表情の中に微かに見え隠れする寂しさに、なぜか目を逸らしたくなった。
――この人を、知っている。
遥の中に、ふいに水面に落ちる石のような衝撃が広がっていた。
記憶ではない。けれど、それは記憶に似ていた。
柔らかい口調、真っ直ぐすぎる視線、そして……たしかにあの人は、かつて私のすべてだった。
「みずいろ堂」と刻まれた木の札がかすかに揺れ、午後の光が硝子戸に反射してまぶしい。
遥は震えそうになる指先を隠すように、カウンター越しに尋ねた。
「古典の先生……なんですね。源氏物語も、ですか?」
「はい、主に源氏物語を扱っています。と言っても、今の若い子たちにはちょっとハードルが高いみたいですが……」
朝倉は、柔らかく笑った。
その笑顔に、遥は心の奥を掻き回されるような、言葉にできない痛みを感じた。
思い出さないふりをしてきた。
何もなかったように、生きてきた。
けれど、その人はあまりにも自然に、遥の“過去”を揺らしてくる。
「先生、もしよければ……源氏物語に関する古書、何冊かご案内できます」
「ああ、それは嬉しい。探していたんです、紫式部関連の古注釈。もし手に入るなら――」
手渡した一冊を、朝倉は丁寧に開いた。
頁をめくる指先が、かつて遥が何度も見つめていた“彼”のそれと重なる。思い出したくないはずなのに、懐かしさがじわりとこみ上げた。
ほんの数分の会話だった。
けれどその余韻は、遥がその晩眠りにつくまで、心を離れなかった。
夜。
灯りを落とした書店の奥の居間で、遥は湯呑みを両手で包み込むように抱えていた。
あの人は、やはり――光源氏だった。
遥の記憶の奥にある、微かに震えるような映像。 花の香のする庭、御簾越しの月、静かな夜に響く琴の音。 紫の上として過ごした日々は、幸福と孤独が渦を巻くように混ざり合っている。
今も、彼に会えたことが嬉しくなかったと言えば嘘になる。 けれど……。
「私はもう、誰かの代わりじゃいたくない」
呟いた声が、自分でも驚くほど震えていた。 その震えは、遥の中の“紫の上”の記憶がまだ消えていないことを告げていた。
何が怖いのか、自分でもわからなかった。
だけど―― 今度こそ、彼を信じてしまったら、今度こそ、心の全部を預けてしまったら、もう立ち上がれなくなるような気がした。
彼がどんな思いであの日々を覚えているのか。 あの時の私を、本当に愛してくれていたのか。 それとも、やはり……私は、誰かの影だったのか。
それを確かめる勇気を、遥はまだ持っていなかった。
翌朝。
店のシャッターを上げると、少しだけ春の風が強くなっていた。 花の香りを含んだ風が、店の前の道を吹き抜ける。
遥は軽く息を吸って、ゆっくりと書店を開けた。
あの人と再び出会ってしまった今、何もなかった頃には戻れない。
だけど、これだけは決めている。
「私は……私の足で、歩いていく」
今度の人生では、誰かに寄りかからず、誰かの影にならずに。
そのためなら、何度だって過去と向き合う覚悟はある。
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