表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/28

第2話「再会は静かに始まる」

「大学で平安文学を教えています。今日はこちらのお店の話を大田教授から聞いて……落ち着いた雰囲気ですね」

朝倉光哉は、店内をぐるりと見渡してから、静かに微笑んだ。

遥は、その表情の中に微かに見え隠れする寂しさに、なぜか目を逸らしたくなった。

――この人を、知っている。

遥の中に、ふいに水面に落ちる石のような衝撃が広がっていた。

記憶ではない。けれど、それは記憶に似ていた。

柔らかい口調、真っ直ぐすぎる視線、そして……たしかにあの人は、かつて私のすべてだった。

「みずいろ堂」と刻まれた木の札がかすかに揺れ、午後の光が硝子戸に反射してまぶしい。

遥は震えそうになる指先を隠すように、カウンター越しに尋ねた。

 「古典の先生……なんですね。源氏物語も、ですか?」

 「はい、主に源氏物語を扱っています。と言っても、今の若い子たちにはちょっとハードルが高いみたいですが……」

朝倉は、柔らかく笑った。

その笑顔に、遥は心の奥を掻き回されるような、言葉にできない痛みを感じた。

思い出さないふりをしてきた。

何もなかったように、生きてきた。

けれど、その人はあまりにも自然に、遥の“過去”を揺らしてくる。

「先生、もしよければ……源氏物語に関する古書、何冊かご案内できます」

「ああ、それは嬉しい。探していたんです、紫式部関連の古注釈。もし手に入るなら――」

手渡した一冊を、朝倉は丁寧に開いた。

頁をめくる指先が、かつて遥が何度も見つめていた“彼”のそれと重なる。思い出したくないはずなのに、懐かしさがじわりとこみ上げた。

ほんの数分の会話だった。

けれどその余韻は、遥がその晩眠りにつくまで、心を離れなかった。

夜。

灯りを落とした書店の奥の居間で、遥は湯呑みを両手で包み込むように抱えていた。

あの人は、やはり――光源氏だった。

遥の記憶の奥にある、微かに震えるような映像。 花の香のする庭、御簾越しの月、静かな夜に響く琴の音。 紫の上として過ごした日々は、幸福と孤独が渦を巻くように混ざり合っている。

今も、彼に会えたことが嬉しくなかったと言えば嘘になる。 けれど……。


「私はもう、誰かの代わりじゃいたくない」

呟いた声が、自分でも驚くほど震えていた。 その震えは、遥の中の“紫の上”の記憶がまだ消えていないことを告げていた。

何が怖いのか、自分でもわからなかった。

だけど―― 今度こそ、彼を信じてしまったら、今度こそ、心の全部を預けてしまったら、もう立ち上がれなくなるような気がした。

彼がどんな思いであの日々を覚えているのか。 あの時の私を、本当に愛してくれていたのか。 それとも、やはり……私は、誰かの影だったのか。

それを確かめる勇気を、遥はまだ持っていなかった。


翌朝。

店のシャッターを上げると、少しだけ春の風が強くなっていた。 花の香りを含んだ風が、店の前の道を吹き抜ける。

遥は軽く息を吸って、ゆっくりと書店を開けた。

あの人と再び出会ってしまった今、何もなかった頃には戻れない。

だけど、これだけは決めている。

「私は……私の足で、歩いていく」

今度の人生では、誰かに寄りかからず、誰かの影にならずに。

そのためなら、何度だって過去と向き合う覚悟はある。

お読みいただきありがとうございます。

よろしければ下の☆☆☆☆☆マークで評価や感想をいただけると嬉しいです。

お願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ