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第17話 話したいことはない、でも

東京に戻って1週間が過ぎていた。

 雨が降るでもなく、晴れるでもなく、どこか落ち着かない曇天の午後。

 東京に戻ってからというもの、遥は一度も朝倉に会っていなかった。

 ただ静かに日々の雑事に身を委ね、彼を避けるようにしていた。会う可能性を避けるために大学への配達も店番すら、母に任せきりにして、理由を訊かれれば「執筆に集中したいから」と答えた。

 けれど、そんなのは言い訳にすぎないと、自分が一番よくわかっていた。

 

 図書館の静かな閲覧席。窓際の席には柔らかな日差しが差し込んで、今日も同じ場所に腰を下ろす。

 原稿用紙を広げ、万年筆を手に取ると、胸の奥にずっと澱のように沈んでいた感情が、ふと浮かび上がってくる。

 「……書けそうにないな、今日も」

ぽつりと呟いて、万年筆の先をそっと原稿用紙から離す。目を閉じれば、あのとき返信できなかった朝倉からのメールの言葉が浮かぶ。


>「話したいことがあります。いつ東京に戻られますか?戻られる日を教えてもらえると嬉しいです。」


> 『話したくないなら話したくないでもいい。何か一言でもいいから返事をください』


「私は、どうしたいんだろう……」

金曜日の図書館はいつもはもう少し利用者がいるのだが、今日は、広い空間にほとんど人の気配はなく、ただページをめくる音と、遠くで司書が誰かに案内する声だけが聞こえた。


──逃げている。 

 自分でもわかっていた。


執筆に没頭していれば、何も考えずにいられると思ったのに、気が付けばスマートフォンを手に取っては、またそっと伏せて、目を逸らすということを何度も繰り返している。


 気分を換えようと、自宅に戻った遥は、コーヒーを淹れて机に向かったものの、読んでいた本の文字はまるで頭に入ってこなかった。

──この本の書評の締め切りいつだったっけ?

 集中しないといけないと思うのに、すぐに朝倉のことを考えてしまう。

 

 遥は唇を噛んで、スマートフォンを手に取ってロックを解除する。

「話すことはありません」

 ──そう打ちかけて、画面を見つめたまま指が止まる。


 ほんとうに、それで終わってしまっていいのだろうか。


 少しだけ迷って、スマートフォンを握った手を膝の上に置いた。

 部屋の中は静かだった。時計の針の音だけが、時間の流れを伝えていた。


 新藤先輩との京都の時間を思い出す。新藤先輩といる時間はとても穏やかだった。 

 でも、先輩と一緒にいても、朝倉のことが心からずっと離れなかった。気分転換のつもりで京都に行ったのに、前世に縛られ、朝倉に囚われている自分を思い知っただけだった。


 最後に会った時の朝倉の言葉が頭から離れない。


「前世に引っ張られることなく、前を向いて自分の力で生きようとする姿に――私は、強く惹かれている。紫の上としてでも、過去の記憶の継承者としてでもなく、遥という一人の女性として。」

「もう前世の話をするのはやめよう。これから新しく私との絆を紡いで欲しい。」


 私は、前世なんかに引っ張られたくない。 それなのに、朝倉に会ってしまえば、心が揺らいでしまう。そんな自分が、嫌だった。彼に惹かれている自分を、認めたくなかった。

 これが、遥としての私の思いなら、彼ときちんと向き合わなければいけないと思うし、彼の言葉は嬉しいはずのものだった。彼の言う通り、これから新しい関係を築いていけばいい。

 でも、「遥」としての私ではなく、「紫の上」だった頃の私が、彼に惹かれている気がしてならなかったのだ。

彼を見ると、何度も何度も自分の記憶の底から、かつての光源氏の優しい眼差し、温もり、そして愛されたあの夜が蘇る。

 それと同時に愛されながらも裏切られた、あの苦しさが。

 朝倉先生のことが、怖い。前世と同じような思いを味わいたくない、出来れば彼と関わらずに心穏やかに生きていきたい。それなのに無性に彼に会いたくなる。

彼の優しさに触れるほど、昔の記憶と今の感情が絡み合って、自分でも自分がわからなくなる。

紫の上だった私が、いまの私を縛っている。


→第18話に続く

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