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第15話 届かぬ距離、揺れる想い

みずいろ堂の引き戸が開いたのは、午後の陽が西へ傾きはじめた頃だった。

「こんにちは」

現れたのは朝倉光哉だった。いつものように整えられた身なりに穏やかな笑みを浮かべていたが、その瞳の奥にはどこか焦燥が混じっているようだった。


カウンターの中から微笑んだのは、遥ではなかった。

品のある女性。目元の雰囲気が遥にどこか似ていて、すぐに遥の母親だろうと思い至った。


「こんにちは。遥さんはいらっしゃいますか?」


「申し訳ありませんねえ、、今日は店を留守にしているんですよ。失礼ですが、遥とはどのようなお知り合いでいらっしゃるのでしょうか?」


「……失礼しました。僕、朝倉と申します。以前から遥さんにはお世話になっていて……」


「あら、朝倉先生? 遥から聞いてます。大学の先生で、平安文学を専門にされてるって」


「そうです。遥さんに話したいことがあって」


母親は頷いた。

「そうでしたか……遥は今、京都に行っているんですよ。」


「……京都、ですか?」


「ええ。出版社の方とね、古書の展示会に誘われたの。書評のお仕事にも役立つって話で」


ほんの数秒、時間が止まったようだった。


「その出版社の方というのは……」


「新藤さんという方で、遥の大学時代の先輩でね。今も何かとよくしてくださってるんです」

朝倉はわずかにうなずくと、

「そうでしたか……では、また改めて伺います」


努めて平静を装いながら一礼し、店をあとにした。

通りに出ると、初夏の空がゆるやかに広がっていた。道ばたのツツジが色濃く咲いている。風に香りが混じる午後。

胸の奥がじりじりと焼けるように痛い。


(京都に……新藤と……)


何も知らずに、ただ会いたくて来た。少しでいいから遥と話したい。ただ、その想いひとつだけを携えてきたのに。

それが、遥は別の男と――京都に。


夜、自宅の書斎で、資料に目を通しながらも、心は遥のことでいっぱいだった。

朝倉はスマートフォンを取り出すと、メッセージ画面を開き、ゆっくりと文章を打ち込む。


「話したいことがあります。

いつ東京に戻られますか?

戻られる日を教えてもらえると嬉しいです。」


送信ボタンを押す指先に、微かな震えが走った。


――今さら前世の記憶を口実に、彼女を縛ろうとは思っていない。

(ただ、もう一度、話をする機会が欲しい。やり直せるならやり直したい)


手元の画面には、「既読」はまだつかない。

けれど、朝倉はじっと、画面を見つめ続けていた。


**


遥達が宿に戻ったのは、太陽が沈み空が藍色に染まり出した頃だった。窓辺のテーブルで文庫本を開きかけたとき、スマートフォンの画面が微かに光った。


──光哉からだった。


「話したいことがあります。

いつ東京に戻られますか?

戻られる日を教えてもらえると嬉しいです。」


一瞬、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


(……話したいことって、何?)


思い当たることはいくつもある。けれど、それにどう返事をしていいのか分からなかった。


「どうした?」


コーヒーを持ってきた新藤が、穏やかな声で訊ねる。遥は画面を伏せるようにスマートフォンを裏返した。


「いえ……仕事の連絡です」


微笑んで答えながら、気づいていた。


(また……彼のことを考えてる)


京都の美しい街並みに心を預けているはずなのに、ふとした瞬間に浮かぶのは、あの人の顔、声、言葉。東京に残してきたはずの想いが、どこまでも追いかけてくる。


(どうして、こうも……)


自分の心は、またあの人に支配されている。

窓の外では、淡い光が鴨川の水面を撫でていた。

紫の上が愛した春。芽吹きの季節。

その名残の風が、遥の胸を静かにざわつかせていた。


先日、彼は前世とは関係なく、「今の私」に惹かれていると言っていた。

それでも──遥の心は、ひどくざわついていた。


(どうして、こんなに怖いの……)


目の前の現実に向き合おうとするほど、あの苦しさが胸の奥から浮かび上がってくる。

紫の上として生きた記憶──

誰かの影を映されていたあの日々。

あの頃、自分がどれほど寂しさを抱えながら微笑んでいたかを、遥は誰よりも知っていた。


(もうあんな思いは、したくない)


彼の優しさも真剣さも、嘘じゃないことは分かっている。

でも、信じて心を預けることが、怖かった。

一歩踏み出せば、また戻れないかもしれない。


第16話に続く

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