第13話 「京都への誘い」
雨が少し弱まってきた頃、新藤はふと窓の外に目を向けた。
「なぁ、遥」
「……はい?」
「来週の週末、京都に一緒に行かないか?」
突然の誘いに、遥は少し驚いたように瞬きをする。
「京都、ですか?」
新藤はふっと口元を緩めて、鞄の中から一枚の案内状を取り出した。
「うん。今度、京都で古書の展示販売会があるんだ。すごく質のいい資料も揃うし、今回の書評の参考にもなると思って、俺も見に行こうと思ってたんだけど……」
彼は真っ直ぐに彼女を見つめて、もう一度言った。
「一緒に行かないか?」
その声は、いつものように穏やかだったが、どこか強く、遥の心を引き寄せる力があった。
「気分転換にもなるし、いいタイミングだと思うんだが。……京都のあの老舗の古書店――知ってる? 書庫は非公開だけど、紹介があれば見せてもらえるんだぜ。」
遥の瞳がわずかに見開かれる。
「本当ですか? ……それは、すごく興味あります」
進藤は、うれしそうに軽く顎を引いた。
「じゃあ、一緒に行こう。旅費とかはこっちの編集部持ちだし。仕事の一環だから、正式な依頼ってことで」
「ありがとうございます。店の方は母に頼んでみます。」
進藤が柔らかく頷いた。
「閉店時間も過ぎているのに長居して悪かったな。プランは任せてくれ。旨いもんも用意しておくから」
「期待してますね。」
「ああ、また連絡する。」
そうして、二人の京都行きが決まった。
遥は、穏やかに笑って、新藤を見送りながら、
(先輩の言うように気分転換になるかどうかは分からない。ただ、朝倉のこと、過去のこと、自分の中の気持ちを整理するためにもここを離れて少しだけでも遠くへ行きたい。)と思っていた。
早朝の新幹線。遥は車窓の外を眺めていた。
東京を離れ、だんだんと景色は淡い新緑に包まれていく。
山の斜面には、花の終わった桜がわずかにピンク色を残し、暖かい風を受けて若葉が光を散らしていた。
田畑には麦の穂が色づき始め、遠くに山藤の薄紫が点々と咲いている。
新藤は資料を眺め、遥は車窓に頬杖をついて、外の景色を眺めていた。
無理に会話を繋がずとも、不思議と気まずさのない沈黙が流れていた。
京都駅に着いた瞬間、ふわりと空気が変わった。
すこし湿気を帯びながらも、土の匂いと若葉の息吹が混じった匂い。
春が終わろうとしていることを、体の奥で感じさせる風だった。
展示会の会場は、町家を改装した落ち着いた建物。
格子窓の隙間から、風がそっと吹き込む。庭にはツツジが咲き、まだ咲き残った遅咲きの枝垂れ桜が、淡く揺れていた。
新藤は時折遥に説明をしながら、彼女の視線がどこにとどまり、どんな古書に心を寄せるのかを、静かに見守っていた。
そして、町家の中庭が見える甘味処。
皿に乗せられた若草色のよもぎ餅が、春の終わりを伝えるようだった。
遥は硝子越しの庭を眺めていた。
けれど、目の前の風景にはどこか集中できなかった。
(……結局、京都まで来ても思い出すのは朝倉先生のことばかり。私の心は……やっぱり、あの人に支配されてる)
気づきたくなかった感情が、静かに胸を締めつけた。
遥がぼんやりと庭の苔を見つめていると
「……遥?」新藤が向かいから心配そうに見つめていた。
ふいに呼ばれて顔を上げた。
「ぼんやりしてたよ。……疲れたか?」
「……いえ、大丈夫です」
カップを両手で包み込むように持ちながら、遥はぽつりと問いかけた。
「――先輩は、運命って……信じますか?」
新藤の眉がわずかに動いた。
「運命、か……」
彼は少しの間、言葉を選ぶように静かに庭に視線を向けた。
「昔はあまり考えたことなかった。努力すれば何とかなる、って思ってたから。でも……遥と再会してからは、少し信じてみてもいいかもって思ってる」
「……どうしてですか?」
「遥とまたこうして会えたこと自体が、俺にとっては偶然以上のものだから。学生時代、何も言えなかった俺に、もう一度チャンスがあるっていうのは、きっと……」
彼は言いかけてふっと微笑んだ。
「――まぁ、勝手な思い込みかもしれないけどな」
遥はその言葉に、少しだけ微笑んで頷いた。
「……優しいですね、先輩」
「優しいっていうより、懲りてないんだよ、俺は」
そう言って、新藤は穏やかに笑った。そして、新藤が静かに口を開いた。
「……君って、不器用だよな」
「え?」
「人の痛みにはすぐ気づくくせに、自分が傷ついても、それを誰にも見せない。甘えていいよ。と言っても全く甘えてくれない。」
遥は、少しだけ目を細めた。
「……そういうところも、嫌いじゃないけどさ」
「……ありがとうございます」
小さく、笑った。
その夜、ホテルに戻ったあと。
遥はふと、窓辺に立ち、薄く開けたカーテンから夜の街を見下ろした。
きっぱりと断ったはずだった。前世などに縛られたくないと。
けれど気付けば、あの人の声、あの人の手、視線を思い出している。
心の片隅から彼の存在が離れなかった。
(私も今世のあの人に惹かれている)
自分の気持ちを自覚して怖くなった。
もう、あんなふうに傷つきたくない。
光源氏ではなく、今の朝倉光哉を、私はどこまで信じていいのか分からなかった。
背後でノックの音。
「遥。よかったら……明日、帰る前に哲学の道、歩いてみない?」
ドア越しに聞こえた新藤の声は、穏やかで、でもどこか切なさを含んでいた。
遥は一度だけ深く息を吸って、そっと「はい」と答えた。
14話に続く




