第10話 「重なる面影」
午後の講義を終えた光哉は、教室を出るや否や、小走りでキャンパスを後にした。
厚い雲が空を覆い、空気は湿気を含んでいた。やがて、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めたが、彼は気にも留めなかった。
(今すぐ会わなければ。話をしなければ)
焦燥の波に突き動かされるように、傘も持たず、濡れることもいとわず、彼はまっすぐに“みずいろ堂”へと向かった。
店の扉を開けると、ほの暗い店内にはかすかな紙とインクの匂いが漂っていた。
オレンジ色の温かみのある光りの下で、カウンター越しに遥が黙々と原稿用紙に向かっていた。彼女は光哉に気づいていない。
柔らかな光に包まれて、ペンを握る彼女の横顔は、驚くほど静かで美しかった。
額にかかる髪をかき上げる仕草、真剣に思考を巡らせている眉間の皺。
まるで、静謐な世界の中で、ただ“書く”ということだけに心を注いでいるようだった。
ときおりふっと小さく首を傾げ、パソコンに向かい白い指が軽やかにキーボードを叩く。
雨粒が髪や肩に滴るまま彼は、ただその様子を見つめていた。
(――あの頃も、こんな表情をしていた)
目の前の遥の姿に、あの記憶が重なる。
彼女がまだ幼く、「若紫」と呼ばれていたあの頃。
小さな手で筆を握り、一文字一文字を丁寧に綴ろうとするその真剣な横顔。
すぐに美しい字で大人の私がはっとさせられるような和歌を詠むようになった。
琴の練習では、最初はぎこちなかった手つきが、すぐに滑らかになっていった。
(利発な子だった。教えたことは何でも、土が水を吸い込むように飲み込んでいった。)
(……そして、私の理想通りの女性に成長した。
きっと、私の知らないところで、ずっと練習していたんだろうな。)
胸の奥がぎゅっと痛んだ。
あの頃も今も、彼女は何かを学ぶとき、全身で向き合っていた。
この現代で、遥はもう誰かの理想になるためではなく、自分自身のために生きているんだ。
ふとカウンターの端に置かれた文庫本が目に留まる。
タイトルは『源氏物語』。何気なく手に取ってページをめくると、書き込みが目に入った。ページの余白に、繊細な文字で想いが綴られている。
「これまでも断片的に夢に見ることはあったけれど、それが何を意味するのか、わからなかった。この本を読んで、紫の上の思いがとてもよく分かる。まるで自分の記憶のように鮮明に蘇ってくる――」
光哉の手が止まった。
鼓動が、激しく重く鳴り始める。
(……やはり、君も思い出しているんだ)
文の最後にはこんな言葉があった。
「彼が何度、他の女性に心を移そうと——最後には、自分のもとに戻ってくれると、信じていた。
正室の座を奪われ、病の床に伏せたあの日。 心はすでに、何度も打ち砕かれていた。
私は……一番近くにいたのに、一番遠かった
自分は、やはり身代わりだったのね。まさか、藤壺の女御様だったとは思わなかったけれど……」
光哉は、静かに目を閉じた。
――私は、ここまで君を傷つけていた。
――君は、私のせいでこんなに深く孤独を抱えていた。
生まれ変わってもなお、この思いがそのまま残るほどに。
彼女の過去の傷を改めて“実感”する。まるで胸を裂かれるようだった。
言葉を失ったまま、ただ本を閉じると、カウンターの向こうで遥がようやく彼に気がついた。
「……朝倉先生?」
「ああ……少し、話を聞いてほしくて」
濡れた髪から水が落ちる。
遥が手を止め、驚いたように立ち上がった。
光哉は静かに口を開いた。
「私は、高校生の頃に『源氏物語』を読んで……初めて、自分が光源氏の生まれ変わりだって、はっきり気づいたんだ」
雨音の中、彼の声は穏やかで、どこか哀しげだった。
「その前から、夢を見ていた。……夢とも思えないほど、リアルな場面だった。名前も知らない誰かに、何度も会って、何度も別れて。ずっと胸が苦しくて……理由がわからなかった。でも『源氏物語』を読んで、その意味がわかったんだ」
遥は何も言わず、彼の言葉を受け止めていた。
「そこからはもう、止まらなかった。紫式部のこと、あの時代の風俗、物語の成立過程――知りたくてたまらなくなった。君に、紫の上に、もう一度会いたかったんだ。だから、私は平安文学の研究者になった」
ゆっくりと、深く息を吐いた。
「そして君に出会った時――すぐに分かったよ。君が紫の上だって」
言葉の奥には、過去への懺悔と、今の想いが込められていた。
「……だから、君に伝えたい。あのとき言えなかったことを。私がどんなに君を失いたくなかったか。どれほど、もう一度会いたかったかを」
遥の瞳が、ふるえていた。
雨音が、なおも降り続いていた。
「あの頃、君の孤独や苦しさを理解してやれなかった。
源氏物語を読んで、自分が光源氏の生まれ変わりだと気が付いた時、何としてでも君に会って、あの頃のことを謝りたかった。」
遥がはっとして、彼を見る。
「確かに最初は、憧れていた女性の影を追っていた。
私は……あの頃、君を育てることで、自分の理想の女性に近づけようとした。
今思えば、愚かだった。でも、そうやって時間を重ねる中で、私は気づいたんだ。
君が見せてくれた優しさ、知性、強さ、悲しみに耐える姿……
それは誰かの模倣じゃない。“紫の上”という人がもともと持っていた資質だった」
朝倉の瞳が、少しだけ潤んでいた。
「君は娘のようでもあり、恋人でもあり、妻でもあった。
そして――かけがえのない存在だった。
誰とも比べられない。君は、私にとって、唯一無二の存在だった」
遥の唇が、かすかに震えた。
11話に続く
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