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#96

 


記憶の中のその場所には、霧も瓦礫もなかった。ただ深い緑と、木漏れ日の揺れる静かな森――そこが、フィオナの故郷、エルフの里だった。



 カイルがまだ勇者としての旅路を歩んでいた頃、遥かな西の森を抜けた先にある古のエルフの里へと足を運んだことがあった。

 カイルはまだ十六歳。過酷な戦いの最中にありながらも、精神的には未だ少年らしさを残していた。だがその背に負うものは重く、世界を救うという使命の中で、常に仲間たちの命と向き合っていた。


 エルフの里では、外の者に対して露骨な警戒があった。特に人間に対しては顕著で、歓迎されているとは到底言えなかった。

 そんな中、カイルはふと、森の外れ――孤児院の裏庭にある大樹の根元に、ひとりで座っている少女を見かけた。


 栗色の髪に翡翠色の瞳。他のエルフのように耳は長くなく、顔立ちは幼さの中にも整っていたが、どこか影があった。少女の姿は里の他の子どもたちとは明らかに違っていた。服は草で汚れ、腕に擦り傷がいくつもあった。


 近くにいた少年たちが陰口を叩いている。


「あいつ、また一人で魔導書を読んでるよ。分かりっこないのに」

「森に勝手に入って、精霊様の怒りを買ったせいで耳が短いんだっけ?変な奴」


 カイルは歩みを止めた。

 そのまま通り過ぎてもよかった。ただのよそ者として、干渉せずに。

 だが、何かが引っかかった。

 カイルはそっと近づき、草の上に腰を下ろした。少女は驚いたように目を見開いた。


「なんでここにいるの」


「ここに座っちゃいけないって決まりはないだろ。その魔導書…読めるのか?だとしたら大したもんだ。名前は?」


 そう言って微笑むカイルに、少女はじっと視線を向けた。人間である彼に対して、最初は強い警戒心があった。だが、彼の声は優しく、言葉には棘がなかった。

 やがて少女は、小さな声で名乗った。


「……フィオナ」


「俺はカイル。よろしくな」


 それが、二人の始まりだった。エルフと人間の混血であるフィオナが置かれている事情が分かると孤児院に顔を出し、なるべく穏便な方法で彼女がいじめられないように環境を作り変えた。

 同行している仲間にはどこが穏便にだ、と咎められたがカイルは気にしてはいない様子だった。


 カイルはその日以降、エルフの里に滞在する中で、たびたびフィオナに出くわすようになった。

 というより、フィオナがカイルの後をつけてくるようになった。


 朝、一人で鍛錬に向かうと木陰から顔を覗かせてくる。昼、仲間と歓談していると屋根の上から様子を伺っている。夜、焚き火を囲んでいると気づけば傍に座っている。


「またついてきてるのか」


「べ、別に……あんたが私の行く先にいるってだけ」


 そんな言い訳をするフィオナに呆れつつも、カイルは次第に彼女に稽古をつけるようになった。空いた時間に木剣を使った簡単な足さばきから、弓の扱い、短剣の投擲術。彼女は驚くほど吸収が早かった。


「よく見てるな。教えたこと、全部覚えてる」


「……当然でしょ。だって私、天才だから」


 フィオナは照れくさそうにそっぽを向くが、その頬はほんのり赤かった。




 数日後、そんな彼女の姿を、ある人物が目に留めた。

 カイルの魔法の師――エリザ。

 年齢不詳の魔女で、知識と魔力において比肩する者はいないとされる存在。端正な顔立ちと細やかな指先、黒衣を纏ったその姿は、異質でありながらも気高く美しかった。


「あの子。あなたがお節介をした子よね…育ててるの?」


 そう言って、エリザはフィオナに目を細めた。


「育ててるっていうほどじゃないけど、自分の鍛錬の片手間で少し教えてる」


「ふうん。私にも少し見せなさい。魔法の素質があるか、見てあげる」


 そう言われ、フィオナは緊張しつつも魔力で風を操ってみせた。そよ風を起こす程度だったがエリザの目が、僅かに見開かれる。


「……自分の魔力の流れを、直感で掴んでる?基礎がないのに、こんな精度で?」


「やっぱりすごい子なんだな」


 カイルがつぶやくと、エリザは腕を組んで唸るように言った。


「この子、伸ばせば魔女にだってなれるかも。魔法は“教えて覚えるもの”じゃない。見て、感じて、自分の中で練り上げるものよ。それを、自然にやっている」


 その日から、エリザもまたフィオナに時折魔法の指導をするようになった。

 彼女に合わせた魔法、風の導き、矢の軌道を逸らす風弾。

 フィオナは誰よりもまっすぐで、誰よりも貪欲だった。



 ――あの時の想いは、今でも残っている。

 カイルが世界を救う旅の最中に出会った、ひとりぼっちのエルフの少女。

 彼女が自らの力で道を切り開こうとしている姿を、カイルはふと夜空を見上げながら思い出していた。

 あの時、手を差し伸べた小さな少女が、今では自分の背に矢を重ねる戦友になっている。

 そしてあの日の教えが、確かに彼女の中で生き続けている――。


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