#95
月が高く昇った夜、フィオナは静かに朽ちた屋敷の前に立っていた。
街はずれにある廃墟――外から見れば、風に吹かれて今にも崩れ落ちそうなただの建物だ。だが、彼女は知っている。この先にあるのは、カイルとアズレインが秘密裏に管理している“場所”。
おそるおそる扉に手をかけると、微かな魔力の震えが空気を走り、古びた幻影がまるで靄のように消えていった。
現れたのは、地下へと続く石段。フィオナは一歩、また一歩とその階段を下りていく。足元には冷たい空気が満ち、空間全体が重い沈黙に包まれていた。
そして、最後の一段を踏み下ろしたとき――視界が開ける。
地下とは思えぬ、まるで陽光の降り注ぐ庭園。
「カイルならいないぞ」
聞き覚えのある声音。ゆるく気怠げな、それでいてどこか厳しさを秘めた声。
フィオナが声のする方を向くと、鍛冶場の軒先、樽の上に腰掛けてワインを飲んでいたアズレインがこちらを見ていた。
「すいません。急に押しかけて…用があるのはギルドマスターにです」
「俺に?にしても……この場所もアイツのせいで随分と来客で賑わうようになったな、まったく」
眉間を押さえながらアズレインはため息をついた。だが、完全に追い返すつもりはないらしい。
「それで用とは?」
「今の私に何が足りないのか、どうしたら今より強くなれるのかが知りたくて」
その言葉に、アズレインの目が細められる。
無遠慮な申し出かもしれない。それでも、フィオナの瞳は真っすぐだった。迷いも臆病さもあったが、それでも一歩を踏み出そうとする覚悟がそこにはあった。
アズレインはワインのグラスを置き、立ち上がった。
「……はあ。やれやれ。エリザの弟子ってだけでなければ、今すぐにでも追い返してたところだ。俺は弟子を取らない主義なんだがな」
フィオナは思わず背筋を伸ばす。
「エリザさんは……私に魔法の基本を、ひとつひとつ教えてくれました。私は、あの人の最後の生徒になってしまいましたが」
「ああ、あいつの魔法は繊細で、自由で、そして強大だった。お前の魔法を見てると、確かに面影がある。教えたことを、ただ記憶しただけじゃない。ちゃんと自分の中で育ててきた魔法だ」
アズレインは言いながら、庭園の一角――訓練用の藁人形が並ぶ場所へと歩き出す。
「見せてみろ。お前の“腕”がどれほどのものか」
フィオナは頷き、弓を構えた。
藁人形に向けて放たれる矢。風を纏った魔導矢は、まるで意志を持つかのように滑らかに放たれ、複数の標的を正確に貫いていく。
そして、最後の一矢。フィオナは一歩踏み込み、矢に魔力を込めて解き放つ。風が渦巻き、炸裂の衝撃とともに人形が吹き飛ぶ。
静寂が戻ると、アズレインが腕を組んだまま言った。
「技術も、構成も問題ない。むしろこの年齢でここまで制御できてる奴はほとんど見たことがない。器用なだけじゃない。お前は“弓手としての本分”をきちんと心得ている」
「……でも、私はマリーのように前線に立てません。カイルと肩を並べて戦うには、何かが足りない気がして……」
アズレインが鼻を鳴らす。
「弓手は背後から流れを制するもの。矢を放つだけじゃない。戦況を見て、支え、崩し、導く。お前にしかできない役割がある」
フィオナは目を見開いた。
言われてみれば、カイルがいない間の依頼では彼女が支えてきた場面は数え切れないほどある。索敵、牽制、連携、危機の察知。誰かの後ろにいたからこそ、全体を見て動けたのだ。
「状況次第ではマリーよりお前の方が“有能”になる。カイルにだってそれはわかってるさ。……あいつに振り回されるなよ?君は優秀だ、間違いなく」
ふっとアズレインが笑った。
父親のような、どこか呆れたような笑みだった。
「ありがとうございます」
フィオナは静かに頭を下げる。
風の流れるこの場所で、自分だけの“魔法”と“意味”を見つけられたような気がした。
「さて……俺の静かな晩酌は完全に台無しだ。今度、代わりに上等な酒でも置いていけ」
「じゃあ、また今度もここに来ても構わないってことですよね」
二人の笑い声が、夜の地下庭園に静かに響いた。
風がそっと、フィオナの頬を撫でる。
その風は、もう迷いの中に揺れる風ではなかった。彼女の中に確かに宿った、自分だけの信念の風だった。




