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#93

 一度だけ、マリーと恋人のような関係になったことがある。


 それは、どちらが言い出したわけでも、約束を交わしたわけでもない。

 ただ、夜の温もりと、互いの痛みが交差した、あの一瞬だけ――ふたりは確かに惹かれ合っていた。

 だが、関係は続かなかった。


 マリーが拒んだわけでも、カイルが距離を取ったわけでもない。


 ただ、ふたりとも分かっていたのだ。あれは“隙間を埋めるための寄り添い”だったことを。


 戦場に生き、命を懸けて戦ってきた者同士。互いの傷を癒すには、あまりにも優しすぎた。

 それから幾夜かが過ぎ、ふたりはいつの間にか、自然と元の距離に戻っていた。

 言葉にせず、確かめ合いもせず、ただ“仲間”として――それが今の関係だった。

 今までマリーが飲んだくれろくに働きもせず、金をせがんできても、カイルが都合し続けたのもそのあたりに起因しているのは間違いない。








 そして今夜。

 訓練場には夜風が吹いていた。昼間の熱気が石床に残るこの場所に、カイルとマリーが向かい合っていた。

 ――久しぶりの、手合わせだった。


「酒が抜けたお前と剣を交えるの、どれだけぶりだろうな」


 カイルが苦笑混じりに呟くと、マリーは手首を回しながらにやりと笑った。


「さぁね。でも初めて会った時にうやむやになった決着を今夜つける?」


 彼女は普段の気怠げな姿とは打って変わって、しなやかな構えを取った。

 腰に佩いた長剣はカイルからの借りものだが、かつてのものとは比べるまでもない、使い込まれた柄が静かに彼女の手に馴染んでいる。


「さて、どうする?ギャラリーもいないし…あたしは本気で行くよ」


「それは……望むところだ」


 カイルは剣を引き抜く。魔法銀を織り込んだその刃が、月光を弾いた。

 霊薬も加護も使わず、純粋な剣の技で――今のマリーと正面から向き合う。



 一拍、静寂。



 次の瞬間、マリーが踏み込んだ。


 爆ぜるような足音とともに、低く斬り払う一閃。鋭い踏み込みから繰り出された刃は、彼女が人間離れした力を誇っていたことを思い出させる。まともに受ければ刃ごと両断することも間々あり、カイルといえどまともに受ければ衝撃で手首を痛めるだろう。


 カイルはそれを紙一重で受け流し、二歩、下がる。


「悪くない。酒浸りだったにしちゃあな」


「そりゃあ、酒を抜いたからね」


 冗談のような口調とは裏腹に、マリーの動きは的確だった。

 重さと速さのバランス。間合いの読み。技の洗練。すべてが、かつて剣を交えた時よりも洗練されていた。


「剣に雑味がなくなったな」


「……酒のせいにされるのも癪だったからね。あんたにそう言われると、ちょっとだけ報われる」


 二撃目が放たれる。

 刃は斜めに、弧を描いて滑り込むように。カイルは最小の動きで剣を合わせ、受け止める。


 刃と刃が火花を散らし、踏み込みと同時に足運びが交差する。まるで踊るようなやりとりの中、マリーはじわじわと攻めを強めていった。


 しかし、カイルは崩れない。

 手数で押しても、技で攻めても、最後の一線は届かない。


 あの頃よりも強くなっているのは二人とも同じだった。しかし、以前ならマリーの方が優勢だったことは間違いない。そして得物も頑強な聖剣、二人の技量は拮抗していた。


「やっぱり、強いね、あんたは」


 マリーが軽く息を整えながら言う。


「そのまま返すよ」


「……うん。ほんとに。だから――あたしも、もう酒には逃げないよ。あんたと出会ってからも、少しは変われた気がしてたけど……でも本当に変わったのは今なんだと思う」


 その目には、真っ直ぐな光が宿っていた。

 カイルは、何も言わずに構え直す。マリーも、再び剣を握り直した。


「ま、完全に酒をやめるわけじゃないけど…今夜はアンタに勝って勝利の美酒をいただきますけど」


「面白い。やってみろ」


 二人は、戦い続ける。


 過去に向き合い、傷を知り、それでも前に進むために。

 刃が交差し、互いの呼吸が重なるたび、積み上げてきたもののすべてが剣に宿っていく。

 今のマリーは、確かに強い。

 そして、今のふたりは、仲間として――肩を並べて戦える関係になっていた。


 静かな夜の訓練場には刃の音が響き続けていた。


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