表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
92/174

#92

 カイルと再び酒を酌み交わしてから、いくつかの夜が過ぎた。


 あの酒場の夜以来、ふたりは意図して顔を合わせていたわけではない。けれど、不思議と足が向かう先は同じだった。すれ違いざまに交わす言葉、無言で差し出される酒盃。そんな時間が、自然と積み重なっていた。


 マリーは、自分でも不思議に思っていた。男というだけで警戒していた時期もあった。けれど、カイルはどこか違った。


 無理に踏み込まず、過去を詮索することもない。ただ、手を伸ばせば届く距離を保ち続ける。それが、彼女にとってどれほど心地よかったか――。


 ある晩、酒に潰れたマリーを、カイルが彼女の部屋まで運んだ。


「おい……いい加減、俺より先に潰れるのは勘弁してくれ。毎回こうなると、さすがに骨が折れる」


 カイルの呆れた声に、マリーはぐでんとしたまま顔を上げる。頬はほんのり紅潮し、瞳の焦点はややあやしい。


「なによぉ……いいじゃない。あたしみたいなイイ女の身体を合法的に触れてるんだから、むしろもっと喜べばいいのに。……それに、たまにはあんたが先に潰れなさいよ。つまんなーい」


 部屋は質素だった。木の床に簡素なベッド、手入れされた武具が壁に掛けられ、月明かりがカーテン越しに優しく差し込んでいた。


「意気地なし。へたれ……あと、えーっと……なんだったっけ」


 マリーはぼやきながら、窓辺で揺れるカーテンを眺める。夜風が柔らかく頬を撫でた。


「分かった分かった……はあ。お前の酔った姿を見てると、こっちの酔いがさめるのかもな」


「ふーん、言うじゃない……。酔いつぶれた女が目の前にいるのに、手を出さないでいられるなんて、ほんと“良い男”だこと」


 言葉とは裏腹に、マリーの瞳はふと寂しげに揺れた。彼女もまた、長い間剣と共に生きてきた。血と鉄の匂いを背負い、過去を背負い、生き延びることに必死だった。


 カイルは椅子を引いて腰を下ろすと、剣をそっと壁際に立てかける。そして、机の上に置かれた未開封の酒瓶を手に取った。


「まだ飲むのか?」


「……ちょっとだけね」


 盃が静かにぶつかり合い、微かな音を立てる。ふたりはゆるやかに酒を口にし、ぽつぽつと、言葉を交わした。


「カイル」


 不意に、マリーが小さな声で彼の名を呼ぶ。


「ん?」


「あたしさ……昔から、男ってのが苦手で。ろくな思い出がなかった。そんなあたしが、部屋に男を入れて、こうして並んで飲んでるなんてさ……自分でも信じらんないのよ」


「それは……光栄に思うべきかな」


「わかんない……けど、不思議とあんたのそばにいても嫌な感じがしない。気を遣わなくていいし、黙ってても落ち着くっていうか」


 カイルは黙って盃を傾けた。けれど、その仕草が否定ではないことは、マリーにはちゃんと伝わっていた。


「あたしさ……あんたと剣を交えたとき、初めて“死ぬかも”って思った。でもそれと同時に――初めて、全部をぶつけられる相手が現れたって思ったんだよね」


 マリーは少し顔を赤らめながらも、まっすぐにカイルの横顔を見つめる。


「全部、終わってもいいって思えるくらい、本気で剣を振れた」


「……そうか」


 それだけを言って、カイルは再び酒をあおった。


「……誰も信じなかった。誰にも期待しなかった。でもあんたはさ、あたしを“女”扱いしなかった。“剣士”として見てくれた」


 沈黙が、ふたりの間に流れる。だがそれは、心地よい静けさだった。


 マリーは立ち上がり、ゆっくりとカイルの隣へ歩く。そして、膝が触れるほどの距離に腰を下ろす。月明かりが差し込む中、彼女はカイルの袖を、指先でそっとつまんだ。


「今日は……一緒にいてくれる?」


 その声は震えていた。けれど、まぎれもなく“本音”だった。


 カイルは、静かにうなずいた。


 互いに、無理をしない。踏み込みすぎない。でも、確かに惹かれていた。


 マリーが彼の肩にそっと額を預けると、カイルもその背に腕を回し、優しく包み込む。


 触れ合う指先と、交わる温度。剣では届かない場所に、やっと辿り着いたような安心がそこにあった。


「……なぁ」


 マリーが、かすれた声で言う。


「これ、絶対に……誰にも言いふらすなよ?言いふらしたら……マジで殺すから」


「……ああ。わかってる。誰にも言わない。約束する」


 照れ隠しのように怒るマリーと、それを静かに受け止めるカイル。


 剣を通じて出会い、すれ違い、それでも再び巡り合ったふたりが、ようやく肩を預け合う。


 この夜が永遠でなくとも――

 せめてこの一瞬だけは、すべてを忘れてもいいと思えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ