#92
カイルと再び酒を酌み交わしてから、いくつかの夜が過ぎた。
あの酒場の夜以来、ふたりは意図して顔を合わせていたわけではない。けれど、不思議と足が向かう先は同じだった。すれ違いざまに交わす言葉、無言で差し出される酒盃。そんな時間が、自然と積み重なっていた。
マリーは、自分でも不思議に思っていた。男というだけで警戒していた時期もあった。けれど、カイルはどこか違った。
無理に踏み込まず、過去を詮索することもない。ただ、手を伸ばせば届く距離を保ち続ける。それが、彼女にとってどれほど心地よかったか――。
ある晩、酒に潰れたマリーを、カイルが彼女の部屋まで運んだ。
「おい……いい加減、俺より先に潰れるのは勘弁してくれ。毎回こうなると、さすがに骨が折れる」
カイルの呆れた声に、マリーはぐでんとしたまま顔を上げる。頬はほんのり紅潮し、瞳の焦点はややあやしい。
「なによぉ……いいじゃない。あたしみたいなイイ女の身体を合法的に触れてるんだから、むしろもっと喜べばいいのに。……それに、たまにはあんたが先に潰れなさいよ。つまんなーい」
部屋は質素だった。木の床に簡素なベッド、手入れされた武具が壁に掛けられ、月明かりがカーテン越しに優しく差し込んでいた。
「意気地なし。へたれ……あと、えーっと……なんだったっけ」
マリーはぼやきながら、窓辺で揺れるカーテンを眺める。夜風が柔らかく頬を撫でた。
「分かった分かった……はあ。お前の酔った姿を見てると、こっちの酔いがさめるのかもな」
「ふーん、言うじゃない……。酔いつぶれた女が目の前にいるのに、手を出さないでいられるなんて、ほんと“良い男”だこと」
言葉とは裏腹に、マリーの瞳はふと寂しげに揺れた。彼女もまた、長い間剣と共に生きてきた。血と鉄の匂いを背負い、過去を背負い、生き延びることに必死だった。
カイルは椅子を引いて腰を下ろすと、剣をそっと壁際に立てかける。そして、机の上に置かれた未開封の酒瓶を手に取った。
「まだ飲むのか?」
「……ちょっとだけね」
盃が静かにぶつかり合い、微かな音を立てる。ふたりはゆるやかに酒を口にし、ぽつぽつと、言葉を交わした。
「カイル」
不意に、マリーが小さな声で彼の名を呼ぶ。
「ん?」
「あたしさ……昔から、男ってのが苦手で。ろくな思い出がなかった。そんなあたしが、部屋に男を入れて、こうして並んで飲んでるなんてさ……自分でも信じらんないのよ」
「それは……光栄に思うべきかな」
「わかんない……けど、不思議とあんたのそばにいても嫌な感じがしない。気を遣わなくていいし、黙ってても落ち着くっていうか」
カイルは黙って盃を傾けた。けれど、その仕草が否定ではないことは、マリーにはちゃんと伝わっていた。
「あたしさ……あんたと剣を交えたとき、初めて“死ぬかも”って思った。でもそれと同時に――初めて、全部をぶつけられる相手が現れたって思ったんだよね」
マリーは少し顔を赤らめながらも、まっすぐにカイルの横顔を見つめる。
「全部、終わってもいいって思えるくらい、本気で剣を振れた」
「……そうか」
それだけを言って、カイルは再び酒をあおった。
「……誰も信じなかった。誰にも期待しなかった。でもあんたはさ、あたしを“女”扱いしなかった。“剣士”として見てくれた」
沈黙が、ふたりの間に流れる。だがそれは、心地よい静けさだった。
マリーは立ち上がり、ゆっくりとカイルの隣へ歩く。そして、膝が触れるほどの距離に腰を下ろす。月明かりが差し込む中、彼女はカイルの袖を、指先でそっとつまんだ。
「今日は……一緒にいてくれる?」
その声は震えていた。けれど、まぎれもなく“本音”だった。
カイルは、静かにうなずいた。
互いに、無理をしない。踏み込みすぎない。でも、確かに惹かれていた。
マリーが彼の肩にそっと額を預けると、カイルもその背に腕を回し、優しく包み込む。
触れ合う指先と、交わる温度。剣では届かない場所に、やっと辿り着いたような安心がそこにあった。
「……なぁ」
マリーが、かすれた声で言う。
「これ、絶対に……誰にも言いふらすなよ?言いふらしたら……マジで殺すから」
「……ああ。わかってる。誰にも言わない。約束する」
照れ隠しのように怒るマリーと、それを静かに受け止めるカイル。
剣を通じて出会い、すれ違い、それでも再び巡り合ったふたりが、ようやく肩を預け合う。
この夜が永遠でなくとも――
せめてこの一瞬だけは、すべてを忘れてもいいと思えた。




